名前のない憧れ
2026/07/14 前話 憂鬱の女子会と同じ本文を投下していました。本文を差し替えました。
アスティのもとへ使用人が来て、声を潜めて何かを伝えていた。それでも、内容は私のところまで聞こえてきた。
手紙を届けたのは通常の郵便配達人ではなく、メイスン家本邸の伝令だったらしい。
アスティの返信を受け取るまでは帰れないと、控えの間に居座っているようだった。
「そんなすぐに……返せっていうの?」
「奥様からは……返事をいただくまで戻るなと。お嬢様には、最後に御署名だけで……」
「内容も確認せずに署名できるわけがないでしょう」
少しのやり取りのあと、アスティはさっきよりも明らかに顔を顰めていた。
「ごめん、リシェリア。ちょっと埒が明かないから、少し出てくるわね」
彼女はため息をつき、軽く私の肩に触れると、使用人に連れられて館の他の部屋へ行ってしまった。
その背を見送り、少しだけ寂しさが胸に残る。
さっきまで隣にいたアスティがいないだけで、屋敷の空気が少し広く感じられた。
私は侍女にお茶を淹れてもらい、ありがとうと告げて下がらせる。
ひとりきりになったサンルームは静かだった。
潮の香りと花の匂いが混ざって、淡く甘い風が流れ込んでくる。
長椅子に腰を下ろし、窓の外――緑濃い庭を眺める。
草の葉の上で光がきらきらと跳ね、蜂が忙しそうに飛んでいる。
けれど、光を追っているうちに、庭全体がゆっくり傾いているように見えた。
……少し目が回る。
まだ馴染まない土地、見慣れない人たち。知らない木々に、城とは違う空気。
そして、祭祀のない日々。
この数日、私はほとんど仕事をしていない。
サリーナのあとからずっと、生きるために動いて働くことで一日一日を越えてきた私には、異質なことに思えて仕方なかった。
身体の奥に、どこか錘のような重みが残っている。
海で遊んだり、日を浴びすぎたりしたからかもしれないけれど、それだけではない気がした。
……普通に生きるって、難しい。
「普通の人って、休みの日はこんなふうに過ごすのかな……」
思わず声に出してしまう。
けれど、すぐに首を振った。
違う。
ここはグラント様のお屋敷で、普通どころか、贅沢の極み。
侍女が何人もいて、衣装も食事も整っている。
今、私がさせてもらっているのは、いわば“貴族のお嬢様の生活”であって、私が本当に知るべき庶民の暮らしではなかった。
全然、普通じゃない。
「これ……参考にならないね」
小さく笑って、自嘲した。
“普通に生きる”とは何だろう。
……けれど、町で生きるなんて、想像するだけで気が遠くなる。
森や村と違って、人間や物がとても多い。建物や景色の向こうを覗いても、その先にはまた、隙間なく誰かの生活が続いていて、活気はあるけれど少し怖くもある。
そういう生活は、これまで私の人生に存在しなかった。
そこに割り入って、私の居場所を少し空けてくださいって言っていいのか。私のせいではみ出ちゃう人がいないのか。そもそも馴染めるのか。
アスティは前に、言っていた。
『聖女任期明けは、そのまま祭祀庁に勤務するのが手っ取り早いと思うわよ。能力で給与も色が付くし、元聖女の前例は過去にもいる』
――そう、彼女はいつも現実的だ。
けれど私は、今でもその姿を思い浮かべられない。
元聖女は、その後人々にどう見られるのか、それが怖い。
今度、その“前例”である、十代前の聖女を務めていたユーディナ様に会えることになった。
元平民から聖女になって、聖女でなくなったあとも祭祀庁舎に残った。今はコンラート様と結婚して貴族夫人でもあって、母としてお子さんもいる。ありふれていない道筋を通って、自分の暮らしを自分で作った方。
きっと私が知らない“生き方”を知っている。
彼女が何を考えて、今の場所に立っているのか。その道標を、少しだけ分けてほしいと思った。
今までは誰かに管理されて生きてきたけれど、それでは、わからないことが多すぎる。
私は、わかりたい。
口に入るものがどうやって食卓に上るのか。着ている服の価格はいくらなのか。何がお金を稼げるのか。街に住むのはどんな手続きが必要なのか。
そしたら、どれくらい頑張ればいいのか、ようやくわかりそうだから。
やっぱり、どこか小さな村の方が、私は好きだな。
でも、そこで私は嫌われずに生きられるのだろうか。王都は人が多いから、無関心でいてくれる人も多いから、そっちの方が気楽なのかな。
……考えるのが億劫になってきた。
少しうたた寝をしよう。
長椅子に身体を横たえる。
柔らかな布地が背に心地よく、頭の奥がぼんやりと遠のいていく。
瞼が重くなりかけた、その時。
――かすかな家鳴り。
静まり返った空間で、床板が微かに鳴った。
気配を消している。
森で、耳のいい兎を狩る時のように、静かに間合いを詰める足捌き。
けれど、この歩き方をする人を、私は王都では一人しか知らない。
「アスティにも、グラント様の気持ちは……多分、伝わってるよ」
目を開けずに、声だけで呼びかけた。
「でも、いろいろ複雑で……今は答えは変わらないんだって」
覗き込む気配。
額の上に落ちる、赤い髪。
その向こうで、セランがわずかに眉を寄せ、鼻を動かした。
「あちゃあ。絶望か」
「そんなことないよ、多分……そういうのじゃないと思う」
目を開けて、降り注ぐ髪を軽く払いのける。
くすぐったくて、思わず笑ってしまう。
「でもね、グラント様は大切な友人で、背中を預けられる相手だって。だから、向こうが去らなければ、ずっと一緒にいられる」
私は言いながら、その答えに憧れていた。
「たとえ恋じゃなくても、名前のある関係じゃなくても、一緒にいたい人っていうの。それって……とっても素敵じゃない?」
私にとって、セランはその素敵な人だ。そう伝わるように、声に少しだけ力を込めた。
まだ、恋という言葉で括れなくても、私の人生は、彼と共にあったんだから。
それも、ひとつの形ではないだろうか。
「いーや。俺はそうは思わない。不公平だから。……お前も俺に恋をしろ。今すぐ落ちろ。俺と同じところまで沈め。……そのあとで、そう言ってくるんなら、まあ。考えてやらなくもない」
いつの間にか話題は、アスティとグラント様のことではなく、私たち自身のことになっていた。
セランは理不尽にふざけながら、私の頭の方へ座り込んだ。呆れてしまうけれど、笑いがこぼれる。
「ええ、横暴。不公平って言うなら、今後は洗濯や掃除も、革なめしだって公平にするんだよね?」
村や放浪暮らしで、特にセランが苦手だったことを並べてみる。
本当は、分担だから、別に不公平だなんて思ってないけれど、これを機会に突っついておく。
「げ。それは……いや、もうお前だって今は全然やってねぇだろ、聖女様」
それもそう。二人で見合わせて軽く笑った。
恋を失っても、壊れたり別れたりしなくていいのなら。
こうやって笑いあって変わらず過ごせると確信できるのなら――私も安心して恋ができる気がする。
ほんの少し、そう思った。
「お、今日の格好すごいな。……重そう」
セランが、ドレスをまじまじと見つめて言った。
「アスティは可愛いって。セランも褒めてくれていいよ」
「可愛い」
間髪を入れず、合いの手のように、セランは褒めてくれた。何の感情もなく……棒読みだけど。
……もう少し、何が可愛いのかまで言ってくれればいいのに。
でもまあ、言わせただけで満足。
「実際、布の量が多くて重いの。疲れちゃった。頭も重い」
ぼやくように言うと、セランが少し眉を寄せた。
「だから、そんなに気怠そうなのか。もうアスティもいなくなったんなら、違う室内着に変えろよ」
そう言いながら、セランは黙って手を伸ばし、私の頭を撫でた。
「うん……ちょっと、休んだら、そうさせてもらう……」
寝かしつけるような掌の心地よさに、瞼がまた重くなる。
「あ!? お前。ちっと熱あるぞ。ここじゃだめだ。……部屋に戻るぞ」
額に触れた手が少しひんやりしていて、本当に身体が熱いことを、その時初めて知った。
セランの真面目な声が、少し遠くに聞こえた。
返事をするより先に身体を抱き起こされ、私はその腕へ重みを預けたまま、そっと目を閉じた。




