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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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名前のない憧れ

2026/07/14 前話 憂鬱の女子会と同じ本文を投下していました。本文を差し替えました。

アスティのもとへ使用人が来て、声を潜めて何かを伝えていた。それでも、内容は私のところまで聞こえてきた。


手紙を届けたのは通常の郵便配達人ではなく、メイスン家本邸の伝令だったらしい。

アスティの返信を受け取るまでは帰れないと、控えの間に居座っているようだった。


「そんなすぐに……返せっていうの?」

「奥様からは……返事をいただくまで戻るなと。お嬢様には、最後に御署名だけで……」

「内容も確認せずに署名できるわけがないでしょう」


少しのやり取りのあと、アスティはさっきよりも明らかに顔を顰めていた。


「ごめん、リシェリア。ちょっと埒が明かないから、少し出てくるわね」


彼女はため息をつき、軽く私の肩に触れると、使用人に連れられて館の他の部屋へ行ってしまった。

その背を見送り、少しだけ寂しさが胸に残る。

さっきまで隣にいたアスティがいないだけで、屋敷の空気が少し広く感じられた。


私は侍女にお茶を淹れてもらい、ありがとうと告げて下がらせる。


ひとりきりになったサンルームは静かだった。

潮の香りと花の匂いが混ざって、淡く甘い風が流れ込んでくる。

長椅子に腰を下ろし、窓の外――緑濃い庭を眺める。

草の葉の上で光がきらきらと跳ね、蜂が忙しそうに飛んでいる。

けれど、光を追っているうちに、庭全体がゆっくり傾いているように見えた。


……少し目が回る。


まだ馴染まない土地、見慣れない人たち。知らない木々に、城とは違う空気。

そして、祭祀のない日々。


この数日、私はほとんど仕事をしていない。

サリーナのあとからずっと、生きるために動いて働くことで一日一日を越えてきた私には、異質なことに思えて仕方なかった。

身体の奥に、どこか錘のような重みが残っている。

海で遊んだり、日を浴びすぎたりしたからかもしれないけれど、それだけではない気がした。


……普通に生きるって、難しい。


「普通の人って、休みの日はこんなふうに過ごすのかな……」


思わず声に出してしまう。

けれど、すぐに首を振った。


違う。

ここはグラント様のお屋敷で、普通どころか、贅沢の極み。

侍女が何人もいて、衣装も食事も整っている。

今、私がさせてもらっているのは、いわば“貴族のお嬢様の生活”であって、私が本当に知るべき庶民の暮らしではなかった。


全然、普通じゃない。


「これ……参考にならないね」


小さく笑って、自嘲した。


“普通に生きる”とは何だろう。


……けれど、町で生きるなんて、想像するだけで気が遠くなる。

森や村と違って、人間や物がとても多い。建物や景色の向こうを覗いても、その先にはまた、隙間なく誰かの生活が続いていて、活気はあるけれど少し怖くもある。


そういう生活は、これまで私の人生に存在しなかった。


そこに割り入って、私の居場所を少し空けてくださいって言っていいのか。私のせいではみ出ちゃう人がいないのか。そもそも馴染めるのか。


アスティは前に、言っていた。


『聖女任期明けは、そのまま祭祀庁に勤務するのが手っ取り早いと思うわよ。能力で給与も色が付くし、元聖女の前例は過去にもいる』


――そう、彼女はいつも現実的だ。

けれど私は、今でもその姿を思い浮かべられない。

元聖女は、その後人々にどう見られるのか、それが怖い。


今度、その“前例”である、十代前の聖女を務めていたユーディナ様に会えることになった。

元平民から聖女になって、聖女でなくなったあとも祭祀庁舎に残った。今はコンラート様と結婚して貴族夫人でもあって、母としてお子さんもいる。ありふれていない道筋を通って、自分の暮らしを自分で作った方。


きっと私が知らない“生き方”を知っている。

彼女が何を考えて、今の場所に立っているのか。その道標を、少しだけ分けてほしいと思った。


今までは誰かに管理されて生きてきたけれど、それでは、わからないことが多すぎる。


私は、わかりたい。

口に入るものがどうやって食卓に上るのか。着ている服の価格はいくらなのか。何がお金を稼げるのか。街に住むのはどんな手続きが必要なのか。

そしたら、どれくらい頑張ればいいのか、ようやくわかりそうだから。


やっぱり、どこか小さな村の方が、私は好きだな。

でも、そこで私は嫌われずに生きられるのだろうか。王都は人が多いから、無関心でいてくれる人も多いから、そっちの方が気楽なのかな。


……考えるのが億劫になってきた。

少しうたた寝をしよう。


長椅子に身体を横たえる。

柔らかな布地が背に心地よく、頭の奥がぼんやりと遠のいていく。

瞼が重くなりかけた、その時。


――かすかな家鳴り。


静まり返った空間で、床板が微かに鳴った。

気配を消している。

森で、耳のいい兎を狩る時のように、静かに間合いを詰める足捌き。

けれど、この歩き方をする人を、私は王都では一人しか知らない。


「アスティにも、グラント様の気持ちは……多分、伝わってるよ」


目を開けずに、声だけで呼びかけた。


「でも、いろいろ複雑で……今は答えは変わらないんだって」


覗き込む気配。

額の上に落ちる、赤い髪。

その向こうで、セランがわずかに眉を寄せ、鼻を動かした。


「あちゃあ。絶望か」


「そんなことないよ、多分……そういうのじゃないと思う」


目を開けて、降り注ぐ髪を軽く払いのける。

くすぐったくて、思わず笑ってしまう。


「でもね、グラント様は大切な友人で、背中を預けられる相手だって。だから、向こうが去らなければ、ずっと一緒にいられる」


私は言いながら、その答えに憧れていた。


「たとえ恋じゃなくても、名前のある関係じゃなくても、一緒にいたい人っていうの。それって……とっても素敵じゃない?」


私にとって、セランはその素敵な人だ。そう伝わるように、声に少しだけ力を込めた。

まだ、恋という言葉で括れなくても、私の人生は、彼と共にあったんだから。

それも、ひとつの形ではないだろうか。


「いーや。俺はそうは思わない。不公平だから。……お前も俺に恋をしろ。今すぐ落ちろ。俺と同じところまで沈め。……そのあとで、そう言ってくるんなら、まあ。考えてやらなくもない」


いつの間にか話題は、アスティとグラント様のことではなく、私たち自身のことになっていた。

セランは理不尽にふざけながら、私の頭の方へ座り込んだ。呆れてしまうけれど、笑いがこぼれる。


「ええ、横暴。不公平って言うなら、今後は洗濯や掃除も、革なめしだって公平にするんだよね?」


村や放浪暮らしで、特にセランが苦手だったことを並べてみる。

本当は、分担だから、別に不公平だなんて思ってないけれど、これを機会に突っついておく。


「げ。それは……いや、もうお前だって今は全然やってねぇだろ、聖女様」


それもそう。二人で見合わせて軽く笑った。

恋を失っても、壊れたり別れたりしなくていいのなら。

こうやって笑いあって変わらず過ごせると確信できるのなら――私も安心して恋ができる気がする。


ほんの少し、そう思った。


「お、今日の格好すごいな。……重そう」


セランが、ドレスをまじまじと見つめて言った。


「アスティは可愛いって。セランも褒めてくれていいよ」


「可愛い」


間髪を入れず、合いの手のように、セランは褒めてくれた。何の感情もなく……棒読みだけど。


……もう少し、何が可愛いのかまで言ってくれればいいのに。

でもまあ、言わせただけで満足。


「実際、布の量が多くて重いの。疲れちゃった。頭も重い」


ぼやくように言うと、セランが少し眉を寄せた。


「だから、そんなに気怠そうなのか。もうアスティもいなくなったんなら、違う室内着に変えろよ」


そう言いながら、セランは黙って手を伸ばし、私の頭を撫でた。


「うん……ちょっと、休んだら、そうさせてもらう……」


寝かしつけるような掌の心地よさに、瞼がまた重くなる。


「あ!? お前。ちっと熱あるぞ。ここじゃだめだ。……部屋に戻るぞ」


額に触れた手が少しひんやりしていて、本当に身体が熱いことを、その時初めて知った。


セランの真面目な声が、少し遠くに聞こえた。

返事をするより先に身体を抱き起こされ、私はその腕へ重みを預けたまま、そっと目を閉じた。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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