憂鬱の女子会
海辺の午後の騒ぎのあと、胸の奥に小さな棘のようなものが残っていた。
……二人とも、ひどい。
カイルもセランも、私が嫌がると知っていることを、わざと繰り返して揶揄ってきた。
痛いことや、本当にひどいことをされたわけじゃない。
もちろん、あれがじゃれ合いだと頭ではわかっているけれど、何かが喉に詰まったような、違和感にも似た不満が残っていた。
塩水を流すために湯へ入り、髪を乾かしてもらってから、私はまたサンルームにいた。
窓いっぱいの光が白く揺れ、外の波音が遠くに聞こえる。
空気はほんのり湿っていて、湯上がりの身体に心地よい。
日差しに当たると、少し眠たくなるような気怠さが広がる。
水に入ったあとの疲労感と、あとはきっと……今、身に纏っている室内着の重さのせいだ。
湯上がりに着せられたのは、絹の光沢にリボン、レース、刺繍。幾重にもフリルが重なった、人形のような淡い桃色のドレス。首元には小さな花飾りまで結ばれている。祭祀庁で着る聖女服とは、まるで違う華やかなものだ。
グラント様が婚約者として贈ってくださる御衣装は、素材はともかく、意匠は比較的すっきりしたものが多い。だから、多分これはアスティの趣味で、彼女が持ち込んだものなのだと思う。
ううん。本当は、見た時からわかっていた。メイスン家にいた頃によく着せられていた服と、よく似た飾りがたくさんついていたから。
可愛らしいけれど……気が重くて、身体も重い。
「可愛い、可愛い」
アスティは上機嫌で、湯上がりの私の髪を櫛で梳いている。
子ども扱いのような仕草に身を任せていると口も暇で、私はふと思いついたことを尋ねた。
……アスティにも、私の知らないところで、嫌なことがあったのかもしれない。
「アスティ。……何かあった?」
「ん~? 何かって?」
私は思い出していた。
大人で、何でも知っているように見えるアスティにも、大変な時があることを。
本邸から戻ってきた時。私にはよくわからない社交の席から帰ってきた時。軍務で何か嫌なことがあった時。普段は私やセランに見せまいとしていても、ほんの少し沈んでいることがある。
そういう時――私のところへ来るなり、お土産として花や小物を持ってきたり、洋服を着せ替えたりすることを。
……聖女になってから、そういう機会が減っていたから忘れていた。
以前は、アスティの機嫌が良くなるならと、好きなように身を任せていた。でも今は、もっと力になれるんじゃないのかな。
「何があったかは、わからないよ。……でも、こういうことをする時のアスティは、落ち込んでるもの」
「ふふ、違うわよ。リシェリアが心配することじゃない。ただ、ほら。海の水で身体が塩辛くなっちゃったから、甘い色の美少女で目を休めたいの」
「嘘。本邸から戻った時の顔をしてるよ」
中でも、本邸へ呼び出されて帰ってきた時が一番わかりやすい。そんな日のアスティは、笑っていても、どこか顔が陰っている。
私とセランは、メイスン家の別邸に保護されていた。いまだに本邸へ立ち寄ったことはない。もちろん、礼儀作法も身につけていないまま門をくぐれる立場ではなかったし、そこに何の不満も異議もない。
だから、本邸に住む御家族の方々には、ほんの数度しかお目にかかったことがない。
特にメイスン家の奥様、アスティのお母様――クラウディア様。
保護されたばかりの頃、別邸の玄関までいらして、横目で一度だけこちらを眺めたあと、すぐに出て行ってしまったことだけは覚えている。
冷たい大人の人の目。私がよく向けられる視線の一つだったから、気にはしなかった。
だけど、彼女は誰に対しても大体そうで、お母様なのにアスティには特に厳しい方なのだと、アスティのお兄様のイオラント様から聞いたことがある。
『公女だから』
本邸ではよく小言を言われているのだと、イオラント様が呆れたように笑っていた。
「……うーん。顔に出てたかな。まあ、ちょっとね」
「隠せないよ。イオラント様に、そういう時はアスティに優しくしてあげてって言われてるんだから」
本当は顔ではなく行動で気づいたのだけれど、それを種明かしして、今度から隠されるようなことは言わない。
「イオ兄様ったら、私に甘いんだから。……大丈夫。休みにも終わりが来るんだなって、少し先のことを考えたから、落ち込んでるのかもね」
休みが終われば、また本邸や王都でクラウディア様と顔を合わせるからだろうか。
「クラウディア様はここにいないのに、どうしてそんな顔になるの」
「……そうね」
「もしかして、グラント様に何か言われたの? もしそうなら、私が抗議してくるよ」
グラント様にはいろいろお世話になっているけれど、アスティをそんな顔にさせるようなことをしたのなら、私もグラント様の味方はできない。
仮とはいえ婚約者なのだから、抗議する権利くらいはきっとある。
「あはは、違う違う。……海から戻ったら、私宛てにお母様から分厚い封書が届いてたの。わざわざ、他領の避暑地までよ? 見るだけでげんなりしちゃった。だからグラントは関係ない。関係なんて、そもそもないでしょ」
そう言うと、アスティは慌てたように、端へ雑に投げられていた荷物から手紙の束を取り出し、広げて見せた。
確かにクラウディア様のお名前で、何枚もの招待状や書状が同封されている。見るだけでうんざりするような厚みだった。
だけど、『関係ない』という言葉の温度が、いつもとは違ったことが気になった。
「そう。それなら、いいけれど……アスティは、グラント様のことをどう思っているの?」
問いかけると、アスティは少し目を細め、笑った。
「大切な友人よ」
その声はあっさりしていて、嘘の気配がなかった。カイルやセランが持つ、恋の兆候のようなものもない。
「アスティは、今……恋はしてないんだね」
私の言葉に、アスティは小さく息を吐いた。
「そうね。してないかな。ふふ……誰かから聞いてって頼まれたの?」
少しだけ眉を上げ、仕方なさそうに微笑む。
「うん。誰から頼まれたか、言った方がいい?」
さっき、廊下ですれ違った時に、セランから聞かれたことだった。せっかく距離を置いているのに、お構いなしに話しかけてきて、返事も待たずに去っていったのだった。
「いいわ。聞かなくて」
軽く手を振り、アスティは笑う。その仕草には、彼女らしい余裕があった。
……どうせ三択だものね。
セランが自主的にそんなことを探るとも思えないから、グラント様に頼まれたのかもしれないし、カイルが気を利かせて調べようとしたのかもしれない。それなら、三択というより、あの男の人たち全員が知りたがっていることなのかもしれない。
私はそのまま、素直に思ったことを口にした。
アスティの話をする時のグラント様の中には、燃えるような勢いや温度ではないけれど、私には恋に似たものがあるような気がしていたから。
だから、応援しようと思った。二人の関係がどう変わるのか、見ていたいとも思っていた。
「グラント様は、静かだけど……友人としてだけじゃなくて、恋としてもアスティを好きなんじゃないかな?」
その言葉に、アスティは少しだけ目を伏せ、微笑んだ。
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。どこまで本気なのかしらね」
そして、少し真面目な声で続けた。
「でも、恋があったとしても、私たちみたいな立場の人間は、政が混じって濁っちゃうからね」
波の音が風に乗って聞こえた。
サンルームの空気が、少し静まる。
「純粋だったら、アスティの答えは変わるの?」
アスティは目を丸くし、少し考えてから肩をすくめた。
「確かに。関係なかったわね。答えは変わらない」
その言葉に、私は胸の奥で安堵した。
アスティの中には、答えを奪うような迷いも、恋が呼び寄せる絶望もない。
揺れない芯のある、澄んだ答え。
私はきっと、まだそこまで強くなれない。
「ねえ、恋って、叶わなかったり失ったりしたら、それまでみたいに一緒にはいられなくなることも多いって聞くの。アスティもそう?」
「ん~。私は別に気にしないかな。向こうが去らなければ、一緒にいられるんじゃない? ……きっとグラントも、その程度のことで逃げ出すようなやつじゃないでしょ。だから、関係も変わらないと思うわ」
アスティは穏やかに言った。
迷いもなく、風のように。
「ふふ。何があっても一緒にいられると思える人なら、素敵な関係だね」
言ってから、自分の言葉に少しだけ照れた。
その答えは、私が思い描いていた“恋人”とは違うのに、それよりもずっと揺らがない、強い結びつきのように聞こえた。
もし私も、恋の答えがどうなっても、そんなふうに誰かと一緒にいられたら――どんなに安心だろう。
「そうね。グラントは、そういう意味ではいい男よ」
アスティが笑う。
そして、少し茶目っ気のある声で続けた。
「……あ、このことは、リシェリアに聞いた人には言っちゃ駄目。聞いたら、調子に乗りそうだから」
くすりと笑うアスティを見て、私も笑ってしまう。
彼女はきっと、心の中にいろんな痛みを抱えていても、それを笑いに変えて生きていく人だ。
余裕と遊び心を、盾のように使って。
――そういうところが、私は本当に好き。
アスティはふと遠くを見た。
「私もグラントも、背負っている荷物が重くて。私たちには、それぞれ譲れないものがあるから、面倒なのよね」
その言葉に、私は頷いた。
アスティも、グラント様も、私も――それぞれ違うけれど、重いものを背負っている。
あ、そうか。
アスティは恋をしていなくても、グラント様が近づいてくることまで拒んでいるわけじゃないのかもしれない。
足が重くて、大きく踏み出せなくても、ずっと動きたくないとは限らない。
私もそうだ。足は重いし、進む方向もまだわからないけれど、それでも立ち止まっていたいわけじゃない。
そう考えたら、ひとつ思いついた。
「お互い、一歩ずつ近寄ればいいんじゃない?」
私の言葉に、アスティは微笑んだ。
「そうできたら、いいわね」
そして、いつものように優しく、私の髪を撫でた。
その手の温かさが、湯のぬくもりよりも長く残った。
二人に腹を立てたままでも、今すぐ許さなくてもいいのだと、その手に撫でられているうちに、少しだけ思えた。




