寄せ集めの作戦本部
海は午後も深まる頃には潮位が上がり、風の匂いも塩気を増していた。
そろそろ引き上げ時だと判断した俺たちは、まだ日が傾く前に浜を後にすることにした。
そして今。
女性陣にまとめて避けられてしまった俺たち三人は、書斎に並んで座っている。
悪ふざけを止めずに笑っていたグラントも、結局こちら側へまとめて追いやられていた。
夕方の光が長く差し込み、机の上に三人の影が斜めに伸びていた。
海辺の喧騒はすっかり遠のき、紙の擦れる音と筆の走る音だけが部屋を満たしている。
俺は書きつけを広げ、セランに手ほどきをしていた。
巡回報告書の書き方を指南しているのだ。
彼は思っていた通り素直で、勘もいいからか、吸収が早い。
もともと地頭は悪くないうえ、本人も真面目に取り組んでいる。
こうして教えるのは悪くない。
……いや、むしろ、頼られていると感じるのは少し心地いい。
階級が上がれば、剣を振るうだけでは済まない。
人へ命じたことも、現場で起きたことも、紙の上へ正確に残す必要がある。
「ここ、小数点の位置が違う。桁が変わるだろ。あと、内容は悪くないが、要らない記述が多すぎる。想像は極力省いて、書くのは事実だけだ」
「……『見通しを確保するため、枝を伐採した』。こうか」
「そう、その調子だ」
つい口調が柔らかくなる。
セランは真剣な目で紙を見つめ、黙々と修正を進めている。
その横で、グラントは机の端に積まれた確認書類の束を一枚ずつめくっていた。
普段なら誰かに回すような細かな業務だが、今日は珍しく自分で手を動かしている。
休暇中といえど、公爵家の人間は完全に休むことを知らない。でも、そろそろ一息つかせてもよい頃合いだ。
「さて。そろそろ、会議でも始めるか」
俺は手元の書類を確認しながら、グラントの手を止めるため、会話の火種を投げ入れた。
「それで、昨日の敗因は何だい?」
ぴたり、とグラントの手が止まる。
紙をめくる音が消えた。
「何を言い出したのかと思えば。随分唐突だな」
「夜会じゃあるまいし、自然な導入のために無為な社交辞令から始めるのも億劫だろ」
そもそも、ああいった迂遠で価値のない表面的な口上は、俺には合わない。時間ばかり食って、何も成し得ないことの方が多い……だから俺は、ああした社交の場から遠ざかった。
「……どうも酒が回ってな。彼女の猛攻を受けきれず、最後には押し切られてしまった。カイルが最初に盤面を崩してから、調子が狂ったのかもしれない」
その言い方は、明らかに誤魔化しだった。そのうえ、軽く俺へ責任を転嫁するような一言まで添えている。
俺を怯ませ、追及を止めさせるための牽制に見えた。
俺は眉を上げる。
「こんなところで取り繕っても、何も進まないからな、グラント兄。俺は引かないぞ。軍棋の話ではないことくらい、わかっているだろ」
机越しに視線をぶつける。
グラントは肩を竦めた。
「……そうだ。下手を打って、機嫌を損ねた。求婚作戦はまた失敗というわけだ」
ようやく本題を認める。
「よし。どこが問題か洗い出してみよう。どんな会話をしたんだ?」
「ん……? 何を話してんのかと思えば、昨日のあの後の件か」
セランがようやくわかったように顔を上げた。
「グラント様に、どんな問題があるってんだ? 嫁に行くには結構年がいってると思うが……随分、お高くとまってるんだな」
自分と俺が“賭け”の駒にされているとは知らずとも、セランもグラントがアスティに気持ちを寄せていることは察しているのだろう。俺と違い、グラントが求婚すること自体には違和感を覚えていないようだった。
だが、平民で村育ちの彼の常識では、自由恋愛でないのなら、結婚相手を選ぶ基準は、男なら財産や生活力、女なら若さや容姿だ。これほど条件がよければ、大抵の女は頷くはずだ、という意識が透けて見えた。
だが、貴族の婚姻に対する理解は、まだ足りていない。
「実際、高いんだよ……身分が。本来、俺だって気軽に話しかけてよい立場じゃない」
俺は手をひらりと振り、頭の上で高さを示した。
実際、そうだ。
たまたま親同士が友人だった縁で、幼い頃から面識があって、たまたま今も親しくさせてもらっているだけだ。
特に姉とは同い年だったため、将来アスティが王女となれば、その側近にという話まであったらしい。それが実現していれば、姉の縁で俺も祭祀庁ではなく政務官となり、両親が存命のまま妻を迎え、家督を継ぎ、今頃は王都にいなかったのかもしれない。
そうはならなかったが。
「……そういえば、そうだったな」
セランが納得するように呟く。
確かに、アスティは時に王族のように振る舞う。
気性こそ奔放だが、格式の空気を纏うと、周囲の人間が自然と距離を置くほどだ。
本人の意思とは別に、求められる立場なのだ。
「それでも別に、親王家と公爵家なら家格として問題があるわけじゃないし、この間、本人も“婚姻してもいい”みたいなことは言ってたじゃないか?」
あの場にいた俺は、実際に聞いている。
アスティのあの曖昧な口ぶりは、あながち拒絶でもなかった。
「うむ……まあ、他家との軋轢や均衡を考えると、当主に却下されるだろう、と返されてな」
グラントは短く説明したが、どうもまだ裏がありそうだった。
昨夜の話には、もっと踏み込んだ何かがある。
だが、それを俺たちに話せない理由も察している。
公的な立場上、軽々しく口にできることではないのだろう。
昨夜の軍棋の勝敗だけではない。
舌戦でも悪手を打ち続けてしまったらしく、アスティから薄く距離を取られているらしい。
本人が思っている以上に、状況は芳しくなさそうだ。
「グラント兄」
俺は姿勢を正し、真面目な声で言った。
「成就するにしろ、きっぱり断られるにしろ、ちゃんと進めてもらわないと困るんだ。任期の終わりまで話が進まず、そのままリシェリアと婚姻する羽目になってみろ……俺は兄の全てを暴露するしかない」
そう言って一歩、机へにじり寄る。
グラントの眉が跳ね上がり、目を見開いた。
何を暴露されるか、心当たりがいくつかあるのだろう。
反応が面白くて、少し笑いを噛み殺した。
「政治なんて、兄が何とかできる範疇だろ。もっと詳しく吐け」
俺は執拗に迫る。
グラントは視線を逸らし、苦笑した。
「カイル……強くなったな……」
一瞬だけ、その言葉の意味が胸へ残った。
だが、今は感傷に付き合っている場合ではない。
「そういうのはいいから、ちゃんと検証材料を出せ」
俺はその顔を追いかけるように身を乗り出す。
「……そもそも、意図は伝わってるのか? 聞いてる限り、ごちゃごちゃ飾りがついてて、グラント様の気持ちがわからない感じはするんだよな……」
セランが素朴な疑問を挟んだ。
「王家の血が欲しいだけだと受け取られたら、アスティはそういうの嫌がるんじゃねえかな」
その言葉に、俺は指を鳴らした。
「いい線だな」
勢いよくセランを指差し、そのままグラントへ向き直る。
「家とか縁談とか、まどろっこしい話しかしてないんだろ、どうせ?」
「指を差すな」
グラントが俺の手をはたき落とす。
「まあ、確かに、どうしても何かの企みだと思われているような気はするな……」
珍しく、グラントが弱気に呟いた。
あのアスティ相手では、策を弄せばすぐ見抜かれる。
正直にぶつかるしかないが、正直さが最も苦手なのもこの兄だ。
「セラン。リシェリアに、アスティがグラント兄をどう見ているのか、聞いてもらえるか? 説得も、こちらへ肩入れさせる必要もない。ただ、それとなく確認してもらうだけでいい。……そのくらいは構わないだろ」
俺は半ば助け船のつもりで頼んだ。
グラントにこれ以上詰めても、空回りするだけだ。
昨日からの“敗北”が、よほど応えたらしい。
「ああ。通りすがりにでも頼んどく」
セランは頷いた。
素直で助かる。
「……助かる」
俺はほっと息をつく。
昼間とはまるで違う静けさの中、波の音が遠くでくぐもって聞こえる。
いつもとはまったく違う力関係の午後だった。
グラントが黙り込み、俺が話を回し、セランが要所で核心を突く。
……悪くない構図だな、と内心で思いながら、俺はまた机上の紙をめくった。




