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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
301/313

悪ふざけの共犯

「お帰り、二人とも」

「随分、楽しそうにしてたわね」


天幕へ戻ると、アスティは俺の荷物を勝手に漁り、数冊の資料や図鑑を掘り出していた。

それらを天幕の中央の敷布へすっかり積み上げ、リシェリアと並んで読み漁っていたようだった。


衣服についた砂を払い、アスティは涼しげな顔で敷布へ身を預けている。

彼女の隣に身を寄せるリシェリアが、子どものように甘えて腕を絡め、頬をすり寄せている。アスティは笑みを浮かべ、指先で優しくリシェリアの銀髪を梳いている。リシェリアの機嫌も、もうとっくに戻っているようだった。


……ああ、俺があの位置にいたかった。アスティ、場所を代わってくれ。


ほんの少しだけ脳裏でそう思いながら、歩みを進めた。

光を受けた薄布越しに、柔らかな輪郭が映える。


「戻った。随分寛いでるんだな。もう泳がないのかい」


「私もグラントも、酒を結構飲んじゃったからね。波には呑まれたくないし」


アスティが答えながら、顎で示す。

言われて横を見やると、グラントが使用人に風を仰がせながら、優雅に酒杯を傾けていた。


念願の「薄布の美女ふたり」が並ぶ光景を目前に、すっかり腰を据えている。俺が今まで見た中でも、指折りに上機嫌で酒を楽しんでいるようだった。確かに空いている酒瓶の数が、多い。


「グラント兄……随分、すすんでるな?」


「お前の用意した酒肴が、良くてな」


椅子の角度をわざわざ変え、アスティとリシェリアが寝そべって談笑する姿を、最も眺めやすい位置で酒を飲んでいるのだ。

本気で楽しそうに。

リシェリアは気づいていなさそうだし、アスティは気にしていなさそうだった。


……まあ、皆が平和ならいい。


念願が叶ってよかったなと思いながら、俺もグラントの隣へ腰を下ろした。

天幕の布越しに昼の光が淡く揺れる中、あの二人が並ぶ姿は確かに見事だった。敷布に広がる二人の髪の色が陽を受けて淡く混ざり合い、絵のように美しい。

確かに、あれは誰の目にも眩しく映るだろう。


セランは、天幕へ入るや否や、一歩引いた位置に立ち、控えめに様子を見守っていた。

グラントから呼ばれてもすぐ動けるよう、姿勢を正して立っている。

日差しを背にして立つ姿は、もうただの客人でも一兵士でもなく、イェルス家の麾下という顔をしていた。

他の使用人たちへ軽く声をかけ、力仕事などがあれば自分に回すよう言づけているのが見えた。


俺はその光景を眺めながら、ふと隣のグラントへ声をかけた。


「普段、あれほど忙殺されている総長殿に。ここまで楽しんでもらえてるなら、企画してよかったよ」


からかいを含ませず、素直にそう告げる。

いつもなら軽口を交わすところだが、今は妙に静かな気分だった。


「まあな」


短い返事のあと、彼は苦笑して続けた。


「……どちらかと言うと、聖母子画のようでは惜しいところはある。もうすこし色があってもいいものだが」


その口ぶりに、俺は小さく笑う。なるほど、そういう感想か。

確かに今の二人からは、昨日、湯殿の前で聞いたような甘い艶めかしさはまるでない。

代わりに漂うのは、安らぎと慈しみ。


アスティの眼差しは、母のように、姉のように、ただ優しい。

彼女がリシェリアを抱いて語る姿は、聖女が幼子へ祈りを教えるようで、士官服に身を包んでいた時の緊張感など微塵もない。

リシェリアもまた、すっかり安らいだ表情で寄り添っている。


……これでは、どんな男でも近寄れない。

あまりに清廉で、俗気を許さない。

それは一種の神域のようで、グラントにとっても手が届かないのだろう。


「こうしていれば、これほど……なのに、中身はどうしてあんなに苛烈なんだ……」


彼はぽつりと愚痴をこぼし、顔を覆った。

大きな手の隙間から覗く横顔は、疲れた大人のそれだった。

戦場でも滅多に見せないような、落胆と苦笑の入り混じった表情。


「……昨日も、敗北したんだね」


俺は静かに察した。

彼がわざわざ言葉にしなくとも、わかる。昨夜の軍棋そのものか、盤を挟んだやり取りか。おそらくは、その両方でアスティに鼻を明かされたのだろう。

彼女の方が一枚上手だということは、もはや誰の目にも明らかだ。


正直、俺にはアスティに対して特別な感情はない。尊敬こそすれ、恋慕とは違う。

だからこそ、なぜグラントがそこまで執着するのか、理解しきれない。

外見や立場だけではなく、あの苛烈な中身ごと自分の側へ引き寄せたいと願う気持ちは、痛いほどわかる。彼にとって、あれは欲ではなく、誇りに近いのだろう。


俺はため息のように笑って言った。


「まあ、何度でも戦えばいいんじゃないか。あとで相談に乗るよ」


グラントが頼ってくる未来を想像すると、少しだけ楽しかった。

彼に教えられることなど多くはないが、それでも、「俺の言葉を聞いてくれる」相手として並べることが、妙に誇らしくもあった。


俺は……きっと、ずっとグラントとこういう相手になりたかったのだ。隣に立てるだけの実力がなければ、などと意地を張らずに、もっと早く気づけばよかった。


アスティとリシェリアの図鑑の閲覧が、ちょうど一区切りついたようだった。

海風が天幕の布をわずかに揺らし、砂の上に光の模様が踊る。

立ち上がって姿勢を直そうとするリシェリアを見た瞬間、俺は心の中で小さく頷いた。

今だ。


この退屈しのぎの午後、ほんの悪戯のひとつくらいは許されるだろう。

「吸う」という話題が冗談めかして続いていたこともあり、軽く場を和ませるつもりだった。


――もちろん、俺たち二人の中では、ほんの軽い悪戯のつもりだったのだが。


俺はセランに目で合図を送った。浅瀬で交わした約束を忘れてはいないらしく、その口元がすぐにわずかに上がる。

セランは何も言わず、天幕の隅にあった背もたれ付きの木椅子を引き寄せ、アスティとリシェリアの前へ置いた。


「リシェ、ちょっとここに座んな」


穏やかな声で促すセラン。


「なに?」


怪訝そうに眉を寄せながらも、リシェリアはちょこんと腰を下ろした。

その様子を確認して、俺はアスティへ向かう。


「アスティ、ちょっとリシェリアを後ろから、こう抱えるように立ってみてくれ」


「おお、絵にする図案の話か?」


グラントが即座に興味を示した。

さすが芸術趣味のある男、話の筋を勝手に“文化的”な方向へ解釈してくれる。助かる。


「また変なことを計画してないでしょうね?」


アスティは呆れたように眉を上げつつも、絵に関することならと、渋々ながら了承してくれた。


「……まあ、いいけど。害はなさそうだし」


彼女がリシェリアの背後に立ち、優しく肩を支える。その姿はまるで姉妹のようで、見ていて微笑ましい。

俺はそれを確認しながら言った。


「じゃあ、ちょっとこう……そのまま固定していてくれ」


アスティが軽く頷く。

そして俺は、隣に立つセランへ視線をやった。


「じゃあ、セラン。この辺がいいんじゃないか」


リシェリアの肩口を指し示す。鎖骨から肩へ流れる髪には自然な動きがあり、風を孕んで揺れるたび、微かに香りが立つ位置だ。


セランは小さく笑い、不敵な顔つきのままリシェリアへ近づいた。

その一歩で、空気が変わる。


「え」


リシェリアの纏う空気が、一瞬で強張った。


気づくのが早い。


すぅーーーーーーー。


だが、遅かった。いや、セランが早かった。

彼女の身じろぎへ合わせながらも、決して触れない距離をきっちりと保ち、深く息を吸い込む仕草をして微笑んだ。


微かな空気の音。

リシェリアの肩がびくんと跳ねる。


「ねえ、セラン。それ、止めてって言ったのに」


高めの声が天幕の中に響いた。

アスティは一瞬、何が起こっているのか理解できず、呆然としている。


「うん、言ってたな。でも、納得してない。俺はこれがいいって言ったろ?」


セランは短く答え、目を閉じる。

その表情には愉快さも色気もなく、まるで職人が香を確かめるような静けさがあった。

……いや、そんな冷静に“味わう”な。


「ええ……」


まさかセランが聞き入れないとは思わなかったのか、どう説得すればよいのかわからないように固まってしまった。

その隙に、セランが俺の方へ手を挙げ、無言の合図を送る。


「よし。カイル、俺は頭のてっぺん、つむじを薦める」


「承知した」


俺は即座に立ち上がり、リシェリアの正面へ回る。


「待って、待って。カイルも待ってください」


リシェリアは必死に首を振り、俺を拒んだ。


「ねえ、カイル。どうして意地悪するんですか」


哀願めいた声。

あまりに無垢な響きに、少し胸が痛む。

けれど、可愛い。――だからこそ困る。


「俺は、さっき君に悪戯されただろ? おあいこじゃないかなあ」


「それは……」


俺は苦笑を押し殺し、彼女の頭へ顔を寄せた。

ほんの数センチの距離。

そして、髪の根元で静かに息を吸う。


すぅーーーーーーー。


光を含んだ銀髪の匂いは、潮と陽光の混じる甘い香りだった。

思考が一瞬、遠のく。


「う……。わかりました。反省しています……でも、そろそろ……」


リシェリアは、引きつるように顔を強張らせている。理解できない未知のものへの硬直に近い。

とっさに逃げ出そうと身を捩るが、背後のアスティは呆然としたまま、まだ動かない。いつの間にか、どちらがリシェリアの怒りの限界まで近づけるかを競う、妙な度胸勝負の様相を呈していた。


たいていのことには怒らず、相手の善意を疑わないまま受け入れてしまうリシェリアが、今は困り、戸惑い、はっきり嫌がっている。そんなふうに遠慮なく感情をぶつけられる相手に、俺も入れてもらえたのだと思うと、場違いながら少し嬉しかった。

これが、聖女ではなく、普通の女の子のようにしたいと思っているセランの気持ちなのだろうか。


セランと目が合った。

共犯者になったように思えて、笑みがこぼれた。


グラントがさすがに止めに入るか、アスティが我に返ってリシェリアを逃がすか。そのあと、蹴飛ばされるか、はたかれるか。

俺たち自身も、触れる一線だけは越えない。その安全網があるから、これは悪ふざけで済む。


……少し、楽しくなってきてもいる。


俺は膝をつき、砂の上で彼女の髪へ顔を近づける。

セランも同時に膝をつき、反対側から距離を詰めた。


「ねえ、もう。やだ」


触れてはいない。

いないが、逃げ道だけは綺麗に塞がれている。


一瞬だけ目を合わせ、呼吸を合わせる。


すぅーーー。


「あ、あ、アスティ。助けて……」


悲痛な声。

アスティがようやく我に返り、リシェリアの肩を抱いたまま椅子ごと後方へ引いた。

そして無言で一歩踏み込み、俺とセランの腹へ順に、容赦のない蹴りを叩き込む。


「っ! ――あんたら、なにやってんの?!」


砂の上へ転がった俺とセランは、仰向けのまま呻いた。

腹筋に残る衝撃をこらえながら、それぞれ言い訳を口にする。


「手は触れていないし」

「まあ、少しこういう経験も必要だ」


グラントの笑い声が、天幕の外まで響いた。

声にならないほど笑っている。

そして俺とセランも、視線を交わし、ついに吹き出した。


アスティは呆れ顔で腕を組み、リシェリアは半泣きで怒っている。

本気で怒っているが、それすらどこか愛しい。


その後、午後から晩餐まで、リシェリアは一切俺とセランへ近寄らなかった。アスティの腕にべったりとくっついているか、せいぜい見える範囲で遠巻きに一人で散策していた。


俺たちはその様子を見て、「まあ、仕方ないな」とだけ言い合い、あとは年相応の男たちとして、日が傾くまで穏やかに休暇を楽しんだ。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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