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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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繋がる二辺

そのまま俺は、セランに連れられて浅瀬へ向かった。

陽光が水面で揺れ、反射した光が俺たちの顔にちらちらと跳ねた。


「こいつはウミウシだな。鰓が身体の後ろにあって、尾に近い側で呼吸している。種類によっては、頭以外を失っても再生できるらしい。食べるなよ。大半は毒を持っている」


「意味がわからねえな……」


セランが見つけたウミウシのあまりに毒々しい色へ二人で顔を顰め、潮溜まりに残った水の中では、貝や魚、藻を観察しながら片手で図鑑を開いた。


「大体、こういうところにいるもんだ」


セランはそう言って、潮溜まりの縁に沈んでいた平たい石へ指をかけた。水を濁らせないよう、片側からゆっくり持ち上げる。その裏へ張りついていた小さな貝と甲殻類が一斉に動き、俺は慌てて図鑑の頁を押さえた。


「海の砂底は、よく見ると穴が開いてることがある。埋まれるやつは息を潜めてるから、当たりをつけて銛で突けば一発だ。泳いでるのを捕るより、巣穴を見つける方が簡単だ」


「お前、賢いな」


図鑑の分類や記述については、新人へ教えるというより、文字を覚えたばかりの子供へ授業をするような有様だった。だが、実物の動きや棲み処については、セランの方がよほどよく見ている。


波の音と、時折聞こえる鳥の声だけが響く穏やかな時間が過ぎていく。


とはいえ、先ほど二人してリシェリアを置き去りにしてきたというのに、どういうわけか話題は自然と彼女へ戻る。


男同士の会話というものは、結局そうなるらしい。


「夏服は生地が薄いから、陽が差すと少し透けて、ちょっと……目のやり場に困るよな」

「てめえ、勝手に見てんじゃねえよ。なら瞼を閉じろ」

「どうせお前だって見てるだろ!」

「堂々と見てる。別に悪いことはしてない」


時に真面目に、時に下世話に、くだらない話題で笑い合った。


「本当は、絹より麻の方が好きだってよ」

「それは、まだ上等な絹に慣れていないだけだ。着続けていれば、きっと好みも変わる。肌にもいいんだ」

「触り心地の話じゃねえよ。絹は引っ掛けるとすぐ破れるから、もったいないって話だ」

「だけどその代わり、綺麗さが段違いだ。柔らかい流れに、発色の良さ。似合うのはそっちだろ」

「ま、それは同意」


セランは、彼女が裾を引っかけない布や、汚れても惜しくない服を好むことを教えてくれた。俺はお返しに、肌に負担の少ない織りや、映える色、彼女を引き立てる仕立てを共有する。


そして最後には、俺が真顔で『吸う』ことをレクチャーしてやる羽目になった。

真面目な議題のように聞こえるが、内容は決して褒められたものではない。


「最初に一つだけ言っておく。勘違いしてもらいたくないんだが、吸うのは、決していかがわしい気持ちだけじゃなくて、悟りや瞑想みたいなものなんだ」


「まず、なんで……吸うことになったんだか」


「あ、聞くか!?」


「いや、やっぱり知りたくない」


セランは半笑いで呆れていた。

ついでのように、俺は先ほどの件を誤解されぬよう弁明しておく。


「言っておくけど、さっきはリシェリアにからかわれただけで、俺は追い回したりしていないからな。使用人にも聞いてもらって構わない。なんか、たまに……向こうからも理性の境界線まで来られるんだ。男として……挑発されてるように感じるというか、試されてるのかもしれないが」


自分でも言いながら、どこか不思議だった。

公務の場ではあんなにも距離感が整っているのに、時折、無邪気な笑顔で限界線を踏み越えてくる。

あれは計算なのか、本能なのか。


「んー……」


セランは手のひらで水をすくい、指の間から滴らせながら、考え込むように唸った。


「……村じゃ、子供らは大人が仕事をしてる間、狩猟用に育ててる子犬と一緒に転がされて過ごすんだよな。噛んだり、じゃれたり、喧嘩したり……そうやって一緒くたに育つ。リシェも、そうやって育った一人だ」


彼の声には、少しだけ懐かしさが滲んでいた。

なるほど。つまり、あれはじゃれ合いの延長ということか。

人との距離の詰め方が、彼女の中ではその頃のままなのかもしれない。


セランは俺の肩をぽんと叩く。


「まあ、随分気を抜けるようになったというか。お前にも気を許したってことだ。よかったな」


そう言って、不敵に笑った。

その目の奥に、以前まであった刺々しさはもうない。

代わりに、どこか達観した余裕と、わずかなからかいがあった。


「……男として見られなくなってきたともいう」


とどめの一言を軽く放り込み、俺の反応を窺う。


「くっ……」


わかっていて言っている。


「それは、お前の自己紹介だな?」


俺もやり返して不敵に笑うと、セランはわざと威嚇するような仕草を返した。

ひとしきりふざけたあと、俺は声を落として本音を吐く。


「こっちの気持ちは、甘噛みじゃ済まないんだが」


リシェリアに関しては、理性の一線を行ったり来たりしている気分だ。

噛まれるか、噛みつくか。どちらにしても、力加減を間違えてしまえば傷は残る。それは、少しだけ俺の不安だった。


セランは立ち上がり、視線を遠くへ投げた。


「まあ、あいつもあれで、今まで誰かに甘えることなんて、ほとんどできなかったからさ……」


彼の声が少し遠くなる。海を見ているのか、過去を見ているのか。

リシェリアがずっと“上の存在”として扱われてきたことを、彼は誰より知っている。

対等な関係を築く相手がいなかった彼女が、時折子供のように甘えるのは、きっと、あの家で過ごした幼い頃の記憶へ戻っているのだろう。


セランはすぐには次の句をつなげなかった。


浅瀬へ視線を落とし、足元を横切る小魚を目で追っている。なにかを吟味しているのか、それとも、これまでの俺がリシェリアへ向けてきたものを思い返しているのか。その横顔からは読み取れなかった。


やがて、短く息を吐く。


「俺も。お前を信用することにする。リシェがお前を信頼してるって、ちゃんとわかったから、これからいちいち目くじらを立てねえようにする。だから……リシェが甘噛みしに行くようなら、たまには付き合ってやってくれ」


「セラン……」


見下ろす形で、セランは手を差し出した。

俺もそれを取って立ち上がる。

砂を払いながら、彼の視線の先を追うように遠くの天幕を見た。

そこには、まだアスティの腕に寄り添っているリシェリアの姿がある。


「そんなに余裕ぶっていて、あとでリシェがこっちへ靡いても、自分を責めるなよ」


「好きに大口叩いてな」


軽口のように返しながらも、内心では少し笑ってしまう。

信頼されたことが、素直に嬉しかった。


許可が欲しかったわけではない。認めてもらいたかったつもりもない。それでも、ずっと敵意を向けられていた相手から信用すると告げられたことは、思っていた以上に重かった。


これほど素直な気持ちになれたのは、久しぶりだった。


「よし。記念に、あとで一緒に吸うか」


俺がそう言うと、セランは目を細めて口角を上げた。


「はは! そうだな、甘噛みも行き過ぎればどうなるか、知っておいた方が良いだろうしな」


海風が二人の間を抜けていく。

どこか危険な約束のようで、それでいて妙に清々しかった。


リシェリアは、まるで煙草へ誘うような言葉の裏で、自分がどんな話をされているのか、まだ何も知らない。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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