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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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新しい三角

俺は、下心が一滴でも漏れ出さないよう、細心の注意を払って会話に集中していた。呼吸の速さを悟られぬよう、わざと一拍置いてから口を開く。


「ああ、これは珍しい貝だね。こっちを見てごらん」


脇に置いていた海洋生態系の図鑑を取り出し、砂を軽く払って開く。

普段なら、職務の際の資料として開く類の本だ。


聖女担当官になる以前、俺は研究部門に所属する上級職員だった。

普段は専門官に任せ、上がってきた情報や検体を整理して研究することが職務で、現地調査は本職ではない。


まさか、こんな日差しと潮風の中で、リシェリアと肩を寄せ合って開くようなことがあるなんて――思ってもみなかった。


「……生きている時、こいつはこんな色だったのか」


思わず感動が口をついた。

現場の日差しや潮風の中で、生きた情報へ直接触れるのは思いのほか新鮮で、これまでにはなかった着想が生まれそうだった。


……思ったより、悪くないな。


担当官の任期が終わった後は、自分でも調査に行くようにしてもいいのかもしれない。

それが、気の合う同僚と一緒なら、なおいい。


……聖女を降りたあとのリシェリアが、その隣にいてくれたなら。


これは、そんな夢想を少しだけ先取りした時間なのかもしれない。

姿勢を正し、敷布の上へ腰を下ろして本を開く。

薄桃色をした、手のひら大の二枚貝をリシェリアから預かって確認する。


「この図では橙色だが、確か水質で体色が変わると前に読んだ。次の頁に……ほら、ここにあった」


彼女にも見えるよう、指先で頁をめくると、覗き込むような影が背後から近づいてくる。


「紫や赤い色もあるが、味は変わらないらしい」


「わぁ……すごいですね……」


声が甘く零れたのが聞こえた瞬間、俺の視界が一瞬で変わった。

彼女はそのまま、俺の脚の間へすとんと腰を下ろした。


んっ!?


脳が一瞬で真っ白になる。


うそだろ。ちょっと待ってくれ。よりによって、なぜそこに座る!?


思わず左右を見渡す。

保養邸の使用人が、天幕の入口付近に立ってこちらを見ていた。


無言のうちに目が合う。


俺は救いを求めるように視線を送り、触れていないと示すように両手をわずかに持ち上げた。


彼は、静かに、しかし確かに頷いた。


……ああ、おそらく後で問い詰められた時には証言を頼めそうだ。俺は潔白だ。何もしていない。本当に。


「こんな形の魚が。すごい……長い……」


リシェリアは夢中になって、もう好きに頁をめくっていた。


俺は一言も発せず、なるべく動かないように息を殺す。肩越しに覗き込むような形になっていて、白い髪が頬に触れそうだ。

潮風が吹くたび、うなじの髪がひらひらと揺れ、その下の肌がきらめく。


……視線を逸らさなければ。


そう思うほど、どうしても逸らせない。


俺の前で無防備にうなじを晒すリシェリア。

その姿に、特別礼拝室での甘い記憶が唐突に蘇る。

あの時――心臓が破裂しそうなほど動悸がしていたのに、なぜ正気で抱きしめられたのか。いや、もしかすると、あれは正気ではなかったのかもしれない。


……また、この背に頬を寄せたい。


いや、せめて香気だけでも吸い込みたい。

その一息を吸うだけで、俺の世界は充足するはずなのに。


だが、駄目だ。

ここには使用人もいる。人目がある。

抱き寄せるどころか、すでに今、困っているだけでも誤解されかねない。


……せめて密室なら。


いや、駄目だ。

まずは対話だ。最近覚えたはずの正しい手順。理性で話して、冷静に距離を取る。それが大人の対応で、今の俺が守るべき手順だ。


「リシェリア。悪いけど、座る場所を変えてくれるかな? ……ちょっと障りがあるんだ。良くないよ」


「〜♪」


鼻歌。完全に聞いていない。

夢中になって、今度は珊瑚の図を指でなぞっている。


可愛い。イェルス領都で扱っているという赤珊瑚で、何か宝飾品を贈りたい。

きっと白銀の髪に似合うだろうな……違う。今は、そんな状況じゃない。


もう一度、丁寧に言う。


「リシェリア様。大変恐縮ですが移動を……」


こんなにも近いのに。

まるで防音の結界でも張られているみたいに、俺の声が届かない。


なぜだ。


「……♪」


肩や背中に触れれば、気づくだろう。

けれど、触れていいのか?

以前は、あんなにも自然に触れていたのに。

今では、指先が彼女の肌へ触れるところを想像しただけで息が詰まる。


いや、あの時だって、違う意味では今以上に動悸が激しかった。

それでも、今よりはまだ理性が鈍かった。


俺は一度息を整え、半ば自嘲気味に呟いた。


「もしかしたら……わざと無視してないかな?」


リシェリアが、ぱちりと振り向いた。少しだけ悪戯っぽく、唇の端を上げる。


「あ、気づかれちゃいましたか」


「……わざとなんだ?」


俺の逡巡も、葛藤も、全部見透かしていたということか。


「先ほど、そんなことを言っていたので。ふふ、寂しいのかと思って」


……聞かれていた。

恥ずかしい。心底恥ずかしい。


でも、胸の奥がほんの少し温かくなる。

構われて、悪戯されたことが、なぜか嬉しい。


「最近は特別礼拝室で、こうやって触れ合うこともなくなりましたもんね。たまには、おまけしてあげようかなと思ったんですけど」


得意げに微笑むその顔が、胸を貫くほど可愛い。甘くて、危険だ。

本能が「落ち着け」と叫ぶのに、心が従わない。


「そうだね……そんなことを言ってくれるなんて嬉しいよ。……でも、そろそろ退いてくれないと、大変なことになるよ」


「禁止項目も、さほど厳しいわけではなくなりましたし、ここは城内でもないですから、多少は平気じゃないですか?」


俺が日課でこつこつと言語化や物事の思考分解を教えてきただけあって、最近のリシェリアの成長は目覚ましい。言葉の抜け道や再解釈を自分で考え、実行できるようになっている。


素晴らしい成長だ。

ただし、抜け道の先で何が起こるのかを想像する力は、まだ足りていないらしい。


「いや、そうじゃない。何事にも限界というものがあるんだ。今回は我慢の臨界だ……じゃあ、そろそろ『吸う』けど、いいよね?」


ハッ――!


リシェリアの肩が大きく跳ねた。小鳥が弾かれたように、その場から勢いよく飛び退く。


ああ、やっぱり。

グラントから薄々聞いてはいたが、彼女は吸われることが苦手らしい。


そういえば、午前中にセランも同じことを言っていた。


……嫌な符合だな。


少しだけ悲しいけれど、同時に安堵する。距離が戻ったことで、理性も戻る。


それにしても、最近のリシェリアは……。


どこか、魔性を帯びてきた。

穏やかで清らかなのに、底の方に妙な艶がある。

聖女としての成熟なのか、それとも――女性としての成長なのか。恋心への理解が進んだのか。


どれにせよ、俺の理性がどんどん削られていく。


「なにやってんだ」


低く響く声とともに、水滴がぱらぱらと飛び散った。

ちょうどその時、海から上がってきたセランが天幕の入口に現れた。

濡れた髪をかき上げながら、肩に掛けた布で乱暴に水を拭っている。


……助かった。惨劇が起きる前、まさに間一髪だった。


リシェリアは俺から身を離れ、反射的にセランの後ろへ回り込んで隠れた。

どうやら、俺がまだ本当に吸うつもりだとでも思っているらしい。

その仕草がまるで小動物のようで、守りたい気持ちより先に――ちょっとだけ傷ついた。


……自分からあんなに近くへ座ってきておいて、それはないだろ。


純粋に、けっこう刺さる。


それにしても。

半裸のセランは、海水を滴らせたままの筋肉質な体をさらしていた。

陽光を受けて濡れた肌が金色に光り、汗とも潮ともつかぬ滴が鎖骨を伝って落ちる。


男の目から見ても、無駄なく鍛えられた身体だった。野生の獣のような荒々しさがありながら、骨格も筋肉も妙に整っている。


……格好良い。


いや、今さら羨んだところでどうにもならないが、女に囲まれているという噂を時折耳にするのも、あながち的外れではない気がする。


「ああ、セラン。リシェリアに図鑑を見せていたんだ。実物と見比べるとなかなか興味深いぞ。何か面白い魚を見かけなかったか?」


自然を装って言葉を整え、リシェリアの手から図鑑をすっと抜き取る。

された悪戯への、ほんの少しの意趣返し。

さっきまで夢中で頁を追っていたリシェリアが、小さく声を上げた。


「えっ」


それを聞き流して頁をめくり、セランの目の前で魚の項目を開く。


「この辺りとか。見覚えはあるか?」


水の滴る彼の指が頁の上を滑り、いくつかの挿絵を示した。


「あー、見た見た。こっちのやつ、さっき岩場の陰で泳いでたぜ」


「おお。これは美味いらしいんだ。次に見かけて、捕れそうなら……頼む。あと、こっちは卵巣が高く売れるぞ。ここでは塩漬けにして高級珍味にするらしい」


「へぇ。いいね、了解」


思いのほか素直に反応が返ってくる。嬉しそうに頷く姿を見て、俺も少し笑ってしまった。

いつの間にか、リシェリアをそっちのけで話が弾んでいる。

まるで少年時代に戻ったような気楽さだった。


「ほら、この鱗の模様。すごく珍しいだろ。これを――」


「うえ、この口の形、噛まれると痛そうだ」


「その通り。食い込んで抜けなくなるから、気をつけろよ」


情報を整理し、筋道を立てるのが俺なら、現場へ飛び込み、自分の目と身体で確かめるのがセランだ。性格も立場も違うが、こうして分担すれば案外うまくいくのかもしれない。

互いに不得手を補い合える関係。


……ああ、なるほど。


前にリシェリアは、俺たちは気が合いそうだと言っていた。

こういうことなのかもしれないな。


他愛もないやり取りを続けていると、天幕の布が揺れて、アスティが空瓶を片手に戻ってきた。新しい酒を取りにでも戻ってきたらしい。


「アスティ、お帰り」


「戻ったわ。ちょっと、あんたたち揉めてないでしょうね……?」


その間に、リシェリアはすっかり退屈したらしく、アスティへ近寄って腕に絡みついた。それを見てアスティが軽く微笑み、空いた手でリシェリアの頭を撫でながら、こちらを見た。


彼女の視線が、本を片手に談笑する俺とセランを交互に見て、小さく目を見開く。

信じられないものを見たような顔だった。


そんな視線を振り払うように、セランが俺へ向かって顎で外を示した。


「あ、そうだ。あっちにいた変なやつ、すげえ派手で、うねってた。何か、カイルならわかるか?」


どうやら何かを見つけていたらしい。

潮の流れか、漂流物か、それとも珍しい魚か。


「わかった。見に行くか」


立ち上がると、足元に落ちた砂がさらさらと音を立てる。

リシェリアの方を見やるが、すでにアスティの袖へ顔を埋めている。

……まあ、アスティがいるなら大丈夫だろう。


外へ出ようとした時、背後からグラントの低い声が聞こえた。

入れ違いに戻ってきていたらしい。


「なんだ、あれは。いつからあんなに仲良くなったんだ」


それにアスティが、後ろの方で応じる声がする。


「さあ……これ、賭けになるかしら」


俺たちの背中へ向けられた、半ば呆れたような声音。

笑いを含んでいる辺り、あの人なりに愉快なのだろう。


「アスティ。私……寂しい」


「ふふふ、私がいるじゃない。図鑑なんて一冊しかないわけじゃないでしょ。カイルの荷を漁るからちょっと待っていて」


……酒をこぼさないでくれよ。


遠ざかる天幕から、最後にリシェリアとアスティの声が聞こえた。


リシェリアは、存在ひとつで周囲の空気を変えてしまうような人だ。

少なくとも今の彼女は、親しい者たちの輪の中で、誰かの意識から外れることなど滅多にない。


それが今、俺とセランは彼女をその場へ残し、二人で話を弾ませたまま外へ出ていく。


……ほんの少しだけ、申し訳ない。

それでも、自分たちがいなくなったことを寂しいと思うほど、彼女の中に俺たちの居場所がある。


その事実が胸のどこかをくすぐり、なぜだろう、不思議と笑いが込み上げた。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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