日陰者の願い
昼餐を終えた頃には、陽はさらに高くなり、海から吹く風まで熱を孕み始めていた。
午前中、俺はリシェリアとセランが散策へ向かった方角とは反対側へ足を運んだ。もちろん、二人の視界へ入って邪魔をしないための、実に慎み深い配慮である。
そのまま王都との植生の違いや岸壁の断層を観察し、波打ち際では入江の浸食の具合まで見て回った。昼餐を終えた今は、さすがに体力が尽き、俺だけが天幕へ戻っていた。
砂浜の白と海の青の境界は、見ているだけで目の奥が焼けるように痛む。昔から、こういう明るすぎる場所では思考まで薄く散っていくようで苦手だった。仕事場でも、陽光の差し込む広間より、書斎や礼拝堂のような薄暗い場所の方が落ち着く。
……それでも今日は、ずいぶん歩いた。
普段なら、午前の巡回と記録だけで一日分の体力を使い切る。まして半日も直射を浴びていれば、もう十分だ。泳ぐ元気など端からない。今から水に入ったところで、上がる頃には干物のようになっているだろう。
しばらく前まで、遠い浜ではグラント兄やセランが動き回り、その輪の中でリシェリアも笑っていた。どちらも鍛錬という言葉を日常の一部にしているような人間だ。リシェリアまで、その二人に混じって楽しそうにしている。
……俺だけが、静かな影の中。
いいんだ。こういう役回りも。
性分として、表へ出るより裏方の方が合っている。日除けの中へ寝そべり、涼しい風が来るのを待つくらいが、俺にはちょうどいい。
けれど時折、胸の奥にぽっかりと穴が空く。
今日はリシェリアと、ほとんど言葉を交わしていない。もちろん、公務中ではないし、彼女が誰とどう過ごそうと構わない。
……構わない、のだが。
普段は仕事で常に隣にいる。朝も昼も、時には夜まで、視界の端にはいつも銀の髪があった。それが今日は、遠い海風の中で笑っている。それだけのことなのに妙に空虚で、疲労とも違う鈍いものが、胸の内側をゆっくり押してくる。
目を閉じ、浅く息を吐いた。
いや、いいさ。今回は、俺が余計な色を混ぜずに見守る番だ。少なくとも今日くらいは、それでいい。誰かが見守り、誰かが支える。そういう役を担うことに、後悔はない。
むしろ、こちらから歩み寄ったことで、あのセランが以前より柔らかくなったのは嬉しかった。あれほど頑なだった男が、今では笑って話しかけてくるようになったのだから。思えば、あいつは意外と不器用で、正直で……悔しいが、悪いやつではない。
それに、あの二人は本当によく似合っている。
揺らぎのない絆。肩を並べる姿が自然すぎて、あの二人の間にあるものへ、俺が同じ形で割り込む余地はない。彼女を想う気持ちは俺にもある。けれど、あれを見れば、認めざるを得ないものもある。
将来、二人が幸せになる日が来たら、その時、自分も笑って祝えるのだろうか。
……たぶん、そうありたい。
今はまだ、胸が焼けるほど嫌だが。
息をつき、腕を目の上へ置いて仰向けになる。熱を帯びた天幕の布越しに、陽光がぼんやりと透けて見えた。眠気がじわじわと上がってくる。思考が少しずつ曖昧になり、普段なら押し込めている感情の境まで緩んでいった。
……はぁ。でも、やっぱり嫌だ。
ぼそりと独り言が漏れた。
「こっちも見てくれないかな……。……リシェリア」
誰に届くはずもない、寝言のような呟きだった。
そう思っていた。
――が、すぐ隣から声が返ってきた。
「はい? ここにいますよ」
「うわっ!」
飛び起きかけた耳元へ、確かに本物の声が届く。視界の端には、見慣れた銀の髪があった。
いつの間にか、俺が広げた午睡用の敷布の端へ、リシェリアがうつ伏せに寝転がっていた。頬杖をつき、柔らかくこちらを見ている。銀の髪は陽を透かして淡く光り、敷布の上へ細い糸のように広がっていた。潮の匂いに混じり、微かな花の香りが近い。
――心臓が跳ねた。
いつか見たいと思っていた光景だった。まさか、自分の情けない独り言を聞かれた直後に叶うとは思っていなかったが。
日差しを遮る天幕の陰で、リシェリアが俺の隣に横たわっている。呼吸のたびに肩がわずかに上下し、それに合わせて、薄布の襟元が柔らかく揺れた。
……現実感がない。
まるで、白昼の幻でも見ているようだった。
動揺を悟られないよう、どうにか言葉を取り繕う。
「……いたんだね。大きな声を出してすまない。驚いて。……皆は?」
視線を泳がせる。
天幕の中には、俺とリシェリア、それに出入りする数名の使用人がいるだけだった。人の目があるというのに、距離が近すぎる。肩先が触れそうなほどの間合いだ。
抱き寄せたい。
いや、今日は抱きしめられたい。
最近の俺は、十分よく耐えている。毎日隣にいる相手へ勝手に触れもせず、余計なこともせず、理性の鎖を切らずに働いているのだ。少しくらい甘やかされても、罰は当たらない。
……などと、疲れた頭が勝手に願望を垂れ流している。
リシェリアは穏やかに顔を上げた。
「アスティは、もう疲れたって桟橋でお酒を飲んでいます。グラント様は、漁村の方がいらして、お話をされています。セランは魚を追いかけて、沖まで行ってしまいました。私は……拾ったものの確認です」
そう言って、彼女は敷布の上へ並べていたものを指した。
海辺へ流れ着いた石や貝殻、波に磨かれた硝子片、見慣れない木の実、小さな陶片。それらを指先で丁寧に並べ直し、光へかざしては小さく微笑んでいる。彼女の横顔には、聖女という肩書の影がまるでなかった。ただ、海辺で拾ったものを楽しそうに眺める、一人の娘の顔だった。
俺は起こした上体をそのまま支え、できるだけ距離を詰めないようにして、彼女の収集物を覗き込んだ。
……間違っても、抱き寄せたり、吸ったりしてはいけない。
この距離でも、すでに十分危うい。甘い香りが海風に混じり、鼻腔を掠めるたびに、余計なことを考えそうになる。
「よく集めたね。うん、綺麗だ」
言葉に偽りはない。
けれど、貝よりも石よりも、それを見上げて笑う彼女の表情の方が、よほど綺麗だと思った。
リシェリアは嬉しそうに頬を緩めた。笑うと、頬の輪郭がほんの少し柔らかくなる。その変化を見ているだけで、胸の奥へじんわりと熱が広がった。
「セランは……平気そうでよかったね」
自然と、その言葉が口をついた。魚を追って沖まで泳いでいるくらいなら、もう問題はないのだろう。
旅の途中、馬を休ませていた時に、リシェリアから受けた相談をふと思い出した。
「セランと私は、海で……少し嫌な経験をしたことがあるんです。様子を見たいんです」
そう、小さな声で告げていた。
俺は詳しくは聞かなかった。けれど、思い当たるものはあった。
あの意識の底の光景だ。
彼女の実際の記憶とは異なるかもしれない。それでも心の底へ焼きつき、何度も繰り返されてきた原風景。
幼いリシェリアが海辺に一人で立ち、最後には打ち寄せる大波に呑まれていく、象徴のような夢。
それが現実の何かと繋がっているのなら、今こうして彼女が笑っていられることが、どれほど尊いか。セランと共に、過去へ呑まれることなく海を見られていることが、どれほど救いか。
「はい。見守ってくださって、ありがとうございました」
そう言って微笑むリシェリアは、太陽へ向かって咲く花のような、満面の笑みを浮かべていた。世界で一番、俺を惑わせ、惚れ抜かせた微笑み。
俺が見守ったのは、セランとの和解と心の傷への慰めで、完全な善意じゃない。
紳士として純粋な好感度を積み上げて、こちらに振り向かせたいという、下心がきちんとある。
その顔が、手を伸ばせば届く距離にある。光の粒が髪へ落ち、頬の輪郭を柔らかくなぞっている。その一瞬で、何百回と自制してきた理性が軋んだ。
やっぱり――好きだ。
どうしようもなく。
どうにもならなく。
胸の奥でその言葉が、渦を巻いた。
今回の件が、心に響いて、早く振り向いてくれるように。そう心の中で願った。




