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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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違う海、同じ手

海沿いに張られた天幕の下で、俺たちは昼餐までの時間を思い思いに過ごしていた。


風は柔らかく、陽差しも眩しいというより穏やかに感じられる。入江の砂は乾ききっておらず、ほんの少し残った湿り気が、裸足の裏へ心地よく伝わっていた。


「うわ、水冷た。……もう少し陽が上がって温まるまでは、やめとくわ」


アスティが足を浸したあと、ぼやくように戻ってくる。


食事の支度は使用人たちに任せ、グラント様とアスティは天幕の庇の下へ戻っていた。カイルは荷物のそばへ腰を下ろし、持ち込んだ大判の本を開いている。


……こんなところまで来て本を読むのかよ。陽を浴びろ、陽を。


俺は積まれた荷の陰で、潮の匂いを嗅ぎながら、空の色と波の音をぼんやりと眺めていた。


思っていたより静かで、思っていたより穏やかな海だった。朝の方が海底も澄んでいるはずだ。少しくらい冷たくても、泳げば身体は温まる。問題ない。


まあ、ここに残っても気詰まりだし、軽く汗を流してくるか。


そう考えて、庇の外へ踏み出そうとしたとき――


「セラン。ちょっと、あっちの方……見に行かない?」


「!」


不意に、リシェに手を引かれた。


皆の目の前だというのに、ためらいもなく俺の手を取る。細い手は少しひんやりしているのに、その奥には温もりがあって、触れられたところから心臓へ火を点けられたようだった。


「あ、え、ああ。いいぞ。……他の皆にも声をかけたのか?」


グラント様にとっては見慣れた浜だろうが、散策ならアスティも来るかもしれない。カイルだって、リシェが誘えば迷わずついてくるはずだ。


慌てて周囲へ目を向ける。


カイルとアスティ、それにグラント様が、こちらを一斉に見た。

アスティが口を開くより先に、カイルが本から顔を上げ、涼しげな様子で片手を振った。


「ああ、気をつけて行ってこい。ただし、入江の外側には出るな。あと、昼餐には戻れよ」


「岩場は足元に気をつけなさいよ」


続けてアスティも、同行するでも止めるでもなく、注意事項だけを重ねた。


「……わ、わかった。じゃあ、あとで」


……なんだか調子が狂う。


もう少し何か言われると思っていたのに、あまりにも普通に送り出されて拍子抜けした。

昨日から、周りはずっとこんな調子だった。

なかでもリシェは、俺に甘え、触れ、寄り添ってくる。


久しぶりの距離感が嬉しくないわけがない。心臓はずっと妙な動きをしている。けれど、居心地が良いとまで言い切ることはできなかった。


城では、ここまでの接触などまずあり得ない。せっかく距離を正そうと決めたのに、周りは逆にそれを縮めてくる。ここへ来て二日目、俺はまだ慣れていない。


いや、慣れたら駄目なんじゃないかとさえ思う。


……それでも、嬉しい。


そりゃあ、嬉しいに決まっている。


このまま禁止事項なんて全部忘れてしまえと、都合のいい声が頭の隅で囁くくらいには。


いや、待て。


まさかアスティが、俺の覚悟を確かめるために、リシェの好きにさせて様子を見ているんじゃないだろうな。


……いや、さすがにそこまではしないか。

でも、アスティだからな。


考えがまとまらないまま、浜を歩くための革底の履物へ足を通しただけで立ち上がると、すぐにリシェに止められた。


「セラン、とりあえず靴だけちゃんと履いて。足の裏、怪我しちゃうよ」


リシェは最初から散策するつもりだったのか、水場用の履物をすでにきちんと編み上げていた。


仕方なくもう一度腰を下ろし、足首から脛の下まで、細い革紐を巻き上げて留めていく。


水場用に作られた履物は、厚めの革を重ねた底で、砂に埋もれた貝殻や、岩場の尖った石から足裏を守るように仕立てられていた。


白っぽい砂が陽を受けて輝き、ところどころに貝殻の欠片や、乾いた海草が散らばっている。革底の下からも、湿った砂の冷たさが微かに伝わってきた。


そうして、ふたりだけで浜を歩くことになった。

たしかに、あの場所のこともあって、少し海を警戒する気持ちはなくもなかった。


……サリーナのことを。


あの町の崩壊と、大波が残した爪痕。瓦礫の中でリシェを探し続けた、あの絶望は、今でも身体のどこかへこびりついている。


もしリシェが何かを思い出して、あの頃のように呼吸さえできなくなったら。

ここまで穏やかに積み上げてきた時間が、一瞬であの夜へ引き戻されるかもしれない。

だから今朝も、海のことを考えて眠れなかったのではないかと心配していた。先に確かめておきたかったのだ。


それなのに、朝のリシェは拍子抜けするほど穏やかだったから、俺だけの杞憂だったのかと胸を撫で下ろしていた。


けれど、俺だけを連れ出したということは、やはり本当は怖いのかもしれない。


だからこそ、皆が何を考えているのかはわからなくても、リシェの誘いを断る気にはなれなかった。


今、リシェが海を前に何を感じているのか、俺が受け止めなければならない。


けれど、この場所の海は、俺の知るサリーナとはまるで違っていた。


波は穏やかで、入江の外には遠い船の帆まで見える。浜に残る人々の声も、のんびりと風に混ざって流れていた。


入江を囲む岬の向こうには、私有地の境を越えて、遠い漁港まで見渡せた。豆粒ほどに小さく見える人影が、岸辺と船の間を忙しなく行き交っている。


空気も、色も、風の匂いも、何ひとつ同じではない。


生きて、活気のある海辺だった。


……少なくとも、俺の知るあの日のサリーナとは、何ひとつ似ていなかった。


そんなことを考えていたとき、不意にリシェが俺の手を強く握った。


「どうした。リシェ、大丈夫か?」

「セラン……大丈夫? 怖い?」


え、と顔を向ける。


心配そうな目が、まっすぐこちらを見上げていた。


「ん?」

「え?」


声が重なり、思わず顔を見合わせる。


「なんだ? 俺は平気だ。海自体は、遠征でも見るからな」


それに、あのときだって――


「あ、そっか……よかった。こんなに近くに海があると、セラン、怖いかもって思ってて」


リシェは胸元へ手を当て、少しだけ眉を寄せた。


……ああ、そうか。


リシェも、俺のことを心配してくれていたのか。


サリーナの記憶に触れて、俺が苦しくなるのではないかと思っていた。


だから、ここへ連れ出してくれたのだろう。

我慢したりしていないか、確かめるために。

もしかすると、カイルやアスティにも事前に話していたのかもしれない。

胸の奥が、ひどく単純に温かくなった。


俺がリシェを案じていたのと同じだけ、リシェも俺を案じてくれていた。


……悪いな、カイル。


こういうところは、たぶん俺にしかわからない。


「ああ……俺も、リシェは海を怖がるんじゃないかって心配はしてた」


皆の視線が届きにくくなったところで、繋いだ指へそっと力を返した。


あのときから。


崩れた世界の中で、必死に掴んだこの手を。


「ふふ。お互い、同じだったね」


リシェが安心したように笑う。


柔らかな光を反射するその笑顔は、海よりも眩しく見えた。


「まあ、俺は全部、事が起きたあとに町へ着いたから、大波そのものを見たわけじゃないんだよな。だから、海自体が怖いとは思ってねえ。リシェの方こそ、嫌なんじゃないかって」


あのときの俺は、すべてが終わったあとの、壊れた町の片隅に立っていた。


瓦礫と濁った水。

染みついた血の匂い。


それなのに波は静かで、空は高く、何もかもがただ虚しかった。


「え、セランが来るまで、閉じ込められてただけだもん。ワインの方が怖いくらい」


……そういえば、そうだった。


リシェはあのとき、地下へ閉じ込められていた。

俺とウルで掘り起こした、あの夜。

崩れた棚の下、ワイン倉庫の床板の上で、割れた瓶と零れた酒にまみれ、リシェは髪まで赤紫に染まっていた。


「はは。そうだな。酒臭かった!」


本当に、あのときの匂いはひどかった。開けた瞬間、潮と酒の臭気がむっと立ち上り、ウルまで一歩退いた。けれど、今は笑って言える。こうして同じ海を見ながら、笑って話せている。


よかった。


少なくとも、海そのものがリシェをあの夜へ引き戻すわけではないらしい。

そういえば、あの頃のことを思い出させるのが怖くて、二人できちんと話したことさえなかった。


ここは、サリーナとは違う海だ。

違う場所で、違う時間。


それでも今また、俺とリシェは手を繋ぎ、並んで海を見ている。あの朝から、ずいぶん遠くまで来た。


何も失わなかったわけではない。

間違えなかったわけでもない。


それでも、こうして同じ場所へ辿り着けたことだけは、確かだった。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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