違う海、同じ手
海沿いに張られた天幕の下で、俺たちは昼餐までの時間を思い思いに過ごしていた。
風は柔らかく、陽差しも眩しいというより穏やかに感じられる。入江の砂は乾ききっておらず、ほんの少し残った湿り気が、裸足の裏へ心地よく伝わっていた。
「うわ、水冷た。……もう少し陽が上がって温まるまでは、やめとくわ」
アスティが足を浸したあと、ぼやくように戻ってくる。
食事の支度は使用人たちに任せ、グラント様とアスティは天幕の庇の下へ戻っていた。カイルは荷物のそばへ腰を下ろし、持ち込んだ大判の本を開いている。
……こんなところまで来て本を読むのかよ。陽を浴びろ、陽を。
俺は積まれた荷の陰で、潮の匂いを嗅ぎながら、空の色と波の音をぼんやりと眺めていた。
思っていたより静かで、思っていたより穏やかな海だった。朝の方が海底も澄んでいるはずだ。少しくらい冷たくても、泳げば身体は温まる。問題ない。
まあ、ここに残っても気詰まりだし、軽く汗を流してくるか。
そう考えて、庇の外へ踏み出そうとしたとき――
「セラン。ちょっと、あっちの方……見に行かない?」
「!」
不意に、リシェに手を引かれた。
皆の目の前だというのに、ためらいもなく俺の手を取る。細い手は少しひんやりしているのに、その奥には温もりがあって、触れられたところから心臓へ火を点けられたようだった。
「あ、え、ああ。いいぞ。……他の皆にも声をかけたのか?」
グラント様にとっては見慣れた浜だろうが、散策ならアスティも来るかもしれない。カイルだって、リシェが誘えば迷わずついてくるはずだ。
慌てて周囲へ目を向ける。
カイルとアスティ、それにグラント様が、こちらを一斉に見た。
アスティが口を開くより先に、カイルが本から顔を上げ、涼しげな様子で片手を振った。
「ああ、気をつけて行ってこい。ただし、入江の外側には出るな。あと、昼餐には戻れよ」
「岩場は足元に気をつけなさいよ」
続けてアスティも、同行するでも止めるでもなく、注意事項だけを重ねた。
「……わ、わかった。じゃあ、あとで」
……なんだか調子が狂う。
もう少し何か言われると思っていたのに、あまりにも普通に送り出されて拍子抜けした。
昨日から、周りはずっとこんな調子だった。
なかでもリシェは、俺に甘え、触れ、寄り添ってくる。
久しぶりの距離感が嬉しくないわけがない。心臓はずっと妙な動きをしている。けれど、居心地が良いとまで言い切ることはできなかった。
城では、ここまでの接触などまずあり得ない。せっかく距離を正そうと決めたのに、周りは逆にそれを縮めてくる。ここへ来て二日目、俺はまだ慣れていない。
いや、慣れたら駄目なんじゃないかとさえ思う。
……それでも、嬉しい。
そりゃあ、嬉しいに決まっている。
このまま禁止事項なんて全部忘れてしまえと、都合のいい声が頭の隅で囁くくらいには。
いや、待て。
まさかアスティが、俺の覚悟を確かめるために、リシェの好きにさせて様子を見ているんじゃないだろうな。
……いや、さすがにそこまではしないか。
でも、アスティだからな。
考えがまとまらないまま、浜を歩くための革底の履物へ足を通しただけで立ち上がると、すぐにリシェに止められた。
「セラン、とりあえず靴だけちゃんと履いて。足の裏、怪我しちゃうよ」
リシェは最初から散策するつもりだったのか、水場用の履物をすでにきちんと編み上げていた。
仕方なくもう一度腰を下ろし、足首から脛の下まで、細い革紐を巻き上げて留めていく。
水場用に作られた履物は、厚めの革を重ねた底で、砂に埋もれた貝殻や、岩場の尖った石から足裏を守るように仕立てられていた。
白っぽい砂が陽を受けて輝き、ところどころに貝殻の欠片や、乾いた海草が散らばっている。革底の下からも、湿った砂の冷たさが微かに伝わってきた。
そうして、ふたりだけで浜を歩くことになった。
たしかに、あの場所のこともあって、少し海を警戒する気持ちはなくもなかった。
……サリーナのことを。
あの町の崩壊と、大波が残した爪痕。瓦礫の中でリシェを探し続けた、あの絶望は、今でも身体のどこかへこびりついている。
もしリシェが何かを思い出して、あの頃のように呼吸さえできなくなったら。
ここまで穏やかに積み上げてきた時間が、一瞬であの夜へ引き戻されるかもしれない。
だから今朝も、海のことを考えて眠れなかったのではないかと心配していた。先に確かめておきたかったのだ。
それなのに、朝のリシェは拍子抜けするほど穏やかだったから、俺だけの杞憂だったのかと胸を撫で下ろしていた。
けれど、俺だけを連れ出したということは、やはり本当は怖いのかもしれない。
だからこそ、皆が何を考えているのかはわからなくても、リシェの誘いを断る気にはなれなかった。
今、リシェが海を前に何を感じているのか、俺が受け止めなければならない。
けれど、この場所の海は、俺の知るサリーナとはまるで違っていた。
波は穏やかで、入江の外には遠い船の帆まで見える。浜に残る人々の声も、のんびりと風に混ざって流れていた。
入江を囲む岬の向こうには、私有地の境を越えて、遠い漁港まで見渡せた。豆粒ほどに小さく見える人影が、岸辺と船の間を忙しなく行き交っている。
空気も、色も、風の匂いも、何ひとつ同じではない。
生きて、活気のある海辺だった。
……少なくとも、俺の知るあの日のサリーナとは、何ひとつ似ていなかった。
そんなことを考えていたとき、不意にリシェが俺の手を強く握った。
「どうした。リシェ、大丈夫か?」
「セラン……大丈夫? 怖い?」
え、と顔を向ける。
心配そうな目が、まっすぐこちらを見上げていた。
「ん?」
「え?」
声が重なり、思わず顔を見合わせる。
「なんだ? 俺は平気だ。海自体は、遠征でも見るからな」
それに、あのときだって――
「あ、そっか……よかった。こんなに近くに海があると、セラン、怖いかもって思ってて」
リシェは胸元へ手を当て、少しだけ眉を寄せた。
……ああ、そうか。
リシェも、俺のことを心配してくれていたのか。
サリーナの記憶に触れて、俺が苦しくなるのではないかと思っていた。
だから、ここへ連れ出してくれたのだろう。
我慢したりしていないか、確かめるために。
もしかすると、カイルやアスティにも事前に話していたのかもしれない。
胸の奥が、ひどく単純に温かくなった。
俺がリシェを案じていたのと同じだけ、リシェも俺を案じてくれていた。
……悪いな、カイル。
こういうところは、たぶん俺にしかわからない。
「ああ……俺も、リシェは海を怖がるんじゃないかって心配はしてた」
皆の視線が届きにくくなったところで、繋いだ指へそっと力を返した。
あのときから。
崩れた世界の中で、必死に掴んだこの手を。
「ふふ。お互い、同じだったね」
リシェが安心したように笑う。
柔らかな光を反射するその笑顔は、海よりも眩しく見えた。
「まあ、俺は全部、事が起きたあとに町へ着いたから、大波そのものを見たわけじゃないんだよな。だから、海自体が怖いとは思ってねえ。リシェの方こそ、嫌なんじゃないかって」
あのときの俺は、すべてが終わったあとの、壊れた町の片隅に立っていた。
瓦礫と濁った水。
染みついた血の匂い。
それなのに波は静かで、空は高く、何もかもがただ虚しかった。
「え、セランが来るまで、閉じ込められてただけだもん。ワインの方が怖いくらい」
……そういえば、そうだった。
リシェはあのとき、地下へ閉じ込められていた。
俺とウルで掘り起こした、あの夜。
崩れた棚の下、ワイン倉庫の床板の上で、割れた瓶と零れた酒にまみれ、リシェは髪まで赤紫に染まっていた。
「はは。そうだな。酒臭かった!」
本当に、あのときの匂いはひどかった。開けた瞬間、潮と酒の臭気がむっと立ち上り、ウルまで一歩退いた。けれど、今は笑って言える。こうして同じ海を見ながら、笑って話せている。
よかった。
少なくとも、海そのものがリシェをあの夜へ引き戻すわけではないらしい。
そういえば、あの頃のことを思い出させるのが怖くて、二人できちんと話したことさえなかった。
ここは、サリーナとは違う海だ。
違う場所で、違う時間。
それでも今また、俺とリシェは手を繋ぎ、並んで海を見ている。あの朝から、ずいぶん遠くまで来た。
何も失わなかったわけではない。
間違えなかったわけでもない。
それでも、こうして同じ場所へ辿り着けたことだけは、確かだった。




