水辺の期待
左右から海へ伸びた岩の岬が外海の波を遮り、その内側には、半月形の小さな砂浜が抱かれていた。沖では深い青をしていた海が、浅瀬へ近づくにつれて淡い緑へ変わり、水底に刻まれた砂紋まで見通せる。波は低く、白く砕けることもなく、砂の上へ柔らかく寄せては戻っていた。
入江の奥、満潮でも波の届かない砂地には、地元の使用人たちが朝のうちに仮設の水亭を組み上げていた。
太い杭へ張られた帆布の庇は、海から吹く風を受けて緩やかに膨らみ、強い日差しだけを柔らかく遮っている。足元には砂を避けるための板と編み茣蓙が敷かれ、低い卓には水筒、果実水、塩気のある焼き菓子が並んでいた。
庇の左右には、男女別の着替え用天幕が離して設けられている。その奥には、海水を流すための真水の樽と手桶、乾いた布や羽織物を整えた小さな洗い場まであった。さらに岩陰には使用人の控え所があり、浜へ降りる道と入江の外では、イェルス家の警護が目立たないよう配置されている。
休暇の水遊びにしては、いささか物々しい。
だが、王姪と聖女と大公爵が揃って海へ入るのだ。これでもグラント兄にしてみれば、ずいぶんと簡素に抑えたつもりなのだろう。
着替えを終え、軽く汗の引いた髪を撫でつけながら、俺は更衣用の天幕から庇の下へ戻った。
俺が着せられたのは、膝上までの濃灰の脚衣と、裏地もない薄手の麻の上衣だった。襟元と腰を紐で留めただけの簡素な作りで、乾いている今でさえ、海風を受けるたびに布が身体へ寄る。普段の衣服に比べれば、ひどく心許ない。
「待たせた。次、セラン」
「う。やっぱり俺にも着替えがあるのか……」
「当然だ」
「下穿き一枚でいいだろ。来る時に見かけた近くの村民も、そんなもんだったのに」
「お前がよくても、女性陣へ晒すべきじゃない。配慮というものだ」
「アスティは軍部だ。そこら中に兵士の裸なんて転がってんだぞ。リシェだって、治癒や傷の検めの場で見るから、恥ずかしがるようなことじゃない。意味あるか?」
……そうなのか。
この場で、薄着に耐性がないのは俺だけらしい。
いや、違う。
そういう問題ではない。
「……それとこれとは、目的も場も違うだろう。それが、ここでの礼儀なんだ。いいから着ておけ」
「了解」
控えていた使用人から服を渡され、セランは面倒そうに顔を顰めながら、渋々と俺とすれ違って更衣用の天幕へ入っていった。
今回は従士ではなく同行者として扱われることが、どうにもむず痒いらしい。天幕を設営する者へ手を貸したり、荷を運ぼうとしたりしては、そのたびに使用人から客人側へ戻されていた。
庇の下では、グラント兄がすでに腰を落ち着けていた。水筒を手に、黙って遠くを見ている。
しばらくして、セランが更衣用の天幕から戻ってきた。
同じような脚衣こそ穿いていたものの、上衣は片方の肩へ引っ掛けているだけだった。日に焼けた胸も腹も、すでにほとんど晒している。どうせ水へ入る前には脱ぐのだから、着たことにしておけばいいという顔だった。
「それは着たうちに入らないだろう」
「着替えろとは言われた。着ろとは言われてねえ」
屁理屈を言いながら、セランも庇の下へ腰を下ろした。
その直後、グラント兄の視線が僅かに動いた。
俺も同じ方向を見る。
海沿いの小道を、二人の女性がゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
陽射しを受ける水辺衣は、いつもの装いよりもずっと軽やかだった。絹をわずかに混ぜた薄い麻地の上衣は、膝を覆うほどの丈で、腰を細い帯で留められている。二人とも、その下には、水に入っても動きを妨げないよう仕立てられた、ふくらはぎの中ほどまでの細身の脚衣を穿いていた。
肌を大きく晒すような格好ではない。けれど、幾重もの裾や重い外衣が取り払われた姿は、それだけで普段より身体の線を素直に伝えていた。
歩くたびに薄い裾が風を含み、陽に照らされた脛がその下から覗く。水辺に合わせて広く取られた襟元からは首筋と鎖骨が見え、髪は濡れないよう高くまとめられていた。いつもなら髪や襟に隠されているうなじが、陽の下へすっかり現れている。
夏そのものを纏って歩いてくるようだった。
……うん。目に楽しい。
あの姿を見て何も感じない男がいたら、それはたぶん精霊か老人だけだろう。
「なるほど。水辺用の服をわざわざ用意する意味はあったな」
セランがぽつりと言った。感慨深げに。
何の意味に納得したのかは、さきほど俺が説いた礼儀とは明らかに違う気がしたが、俺も同意するので訂正はしなかった。
「カイル、さっきは悪かった。あれは良いものだ」
「そうだろ。全面的に同意する」
俺も自然と頷く。
「異論ない」
グラント兄が短く言い、目を逸らさない。逸らすつもりもないのだろう。
……まったくもって同感だが、脚派のグラント兄は、殊更お気に召したらしい。
今回の休暇で最も待ち望んだ景色だ。
どうぞ心ゆくまでご覧になっていただきたい。
その兄の背後で、セランがふと思い出したように俺を見る。
「そういえば、この機会にカイルに言いたいことがあるんだった」
視線がまっすぐ来たので、少しばかり身構える。
何か企みでもあるのかと思えば――
「なんだ? 将来リシェリアを頂くんだから、これ以上は礼も何もいらないぞ」
冗談めかして先手を打ってやる。今は目の保養を堪能している時間なので、あまり野暮な話を持ち込まないでほしい。
「もうその手の話は一切返さねえから」
呆れたようにそう返されて、ほんの少し寂しい気もするが、仕方ない。
セランは、やや慎重に、しかし興味深げに口を開いた。
「……いや、お前、“吸う”らしいじゃん」
「ん? ああ……」
なるほど、そういう話か。
グラント兄が余計なことを吹き込んだか。従者になったことで、そういった話をいくらでもできる隙がある。
「グラント兄?」
視線を逸らさずに尋ねる。
「なぜ私だと確信しているのか、甚だ心外だな。……まあ、言われたくなければ、特殊な行為は人前でしないことを勧める」
涼しい顔であしらわれた。
兄以外に誰が言うんだ。
いや、植物園では往来で実演して見せたのだった。通行人や、イェルス家の警護にも見られているかもしれない。
……軽率だったか。
だがな、嗅ぐくらい、いいだろう。
「いや、あのさ」
「なんだ? 手で触れてないんだから、以前の禁止行為にだって含まれてないだろう。そこまで……責められたくない」
軽く拗ねる。
この際、正当性を主張しておきたい。
だが、セランはそんな俺へ、意外にも真剣な面持ちで答えた。
「責めるとか、そうじゃなくて。それこそ、礼だ。吸うっての、割といい……というか。やってみたら結構よかった。ありだ」
……なんだと?
思わず勢いよくセランの方を向いた。
まさか、理解者が現れるとは。
誰にも通じない感覚かと思っていたのに。
「わかるか!」
思わず声が大きくなる。手を差し出す。興奮気味に。
「そう、健全でありながら幸福度が高いよな!」
セランは少し照れたように笑いながら、その手を握ってくる。
ひとつの秘技を分かち合った戦友のような、妙な連帯感が生まれた。
「わかる。ありがとう」
……この短い一言の中に、どれほど深い共感と癒しが込められていることか。
「……おかしいのが増えてしまったか」
グラント兄がため息交じりに言う。
胡乱げな視線。
だが、俺たちは堂々としていた。幸福度の高い人種は、理解されないことにも耐性がある。
「アスティにやってみたらいい。理解するさ」
俺は真顔で勧めた。あの人なら、きっとわかってくれる。
「……そこは聖女殿を嗅げと言わないのか」
そういう冗談を言うグラント兄へ、すかさず牽制を飛ばす。
「やってみろ。この赤い猟犬をけしかけてやるからな。グラント兄の喉笛を噛みちぎるぞ。行け、セラン」
ちらりとセランを見る。
黙って立っていても、彼の守りたいものへの執念は底なしだ。
「行かねえよ」
すげなく断ち切られる。
多少誇張して言ったが、実際にそんな状況になれば、たぶん俺が命じずとも、こいつはやるだろう。
風がそよぎ、天幕の影が少し揺れた。
遠くから、二人の足音が近づいてくる。
もうすぐ、二人が着く。




