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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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水辺の期待

左右から海へ伸びた岩の岬が外海の波を遮り、その内側には、半月形の小さな砂浜が抱かれていた。沖では深い青をしていた海が、浅瀬へ近づくにつれて淡い緑へ変わり、水底に刻まれた砂紋まで見通せる。波は低く、白く砕けることもなく、砂の上へ柔らかく寄せては戻っていた。


入江の奥、満潮でも波の届かない砂地には、地元の使用人たちが朝のうちに仮設の水亭を組み上げていた。


太い杭へ張られた帆布の庇は、海から吹く風を受けて緩やかに膨らみ、強い日差しだけを柔らかく遮っている。足元には砂を避けるための板と編み茣蓙が敷かれ、低い卓には水筒、果実水、塩気のある焼き菓子が並んでいた。


庇の左右には、男女別の着替え用天幕が離して設けられている。その奥には、海水を流すための真水の樽と手桶、乾いた布や羽織物を整えた小さな洗い場まであった。さらに岩陰には使用人の控え所があり、浜へ降りる道と入江の外では、イェルス家の警護が目立たないよう配置されている。


休暇の水遊びにしては、いささか物々しい。


だが、王姪と聖女と大公爵が揃って海へ入るのだ。これでもグラント兄にしてみれば、ずいぶんと簡素に抑えたつもりなのだろう。


着替えを終え、軽く汗の引いた髪を撫でつけながら、俺は更衣用の天幕から庇の下へ戻った。


俺が着せられたのは、膝上までの濃灰の脚衣と、裏地もない薄手の麻の上衣だった。襟元と腰を紐で留めただけの簡素な作りで、乾いている今でさえ、海風を受けるたびに布が身体へ寄る。普段の衣服に比べれば、ひどく心許ない。


「待たせた。次、セラン」


「う。やっぱり俺にも着替えがあるのか……」


「当然だ」


「下穿き一枚でいいだろ。来る時に見かけた近くの村民も、そんなもんだったのに」


「お前がよくても、女性陣へ晒すべきじゃない。配慮というものだ」


「アスティは軍部だ。そこら中に兵士の裸なんて転がってんだぞ。リシェだって、治癒や傷の検めの場で見るから、恥ずかしがるようなことじゃない。意味あるか?」


……そうなのか。


この場で、薄着に耐性がないのは俺だけらしい。


いや、違う。

そういう問題ではない。


「……それとこれとは、目的も場も違うだろう。それが、ここでの礼儀なんだ。いいから着ておけ」


「了解」


控えていた使用人から服を渡され、セランは面倒そうに顔を顰めながら、渋々と俺とすれ違って更衣用の天幕へ入っていった。


今回は従士ではなく同行者として扱われることが、どうにもむず痒いらしい。天幕を設営する者へ手を貸したり、荷を運ぼうとしたりしては、そのたびに使用人から客人側へ戻されていた。


庇の下では、グラント兄がすでに腰を落ち着けていた。水筒を手に、黙って遠くを見ている。


しばらくして、セランが更衣用の天幕から戻ってきた。


同じような脚衣こそ穿いていたものの、上衣は片方の肩へ引っ掛けているだけだった。日に焼けた胸も腹も、すでにほとんど晒している。どうせ水へ入る前には脱ぐのだから、着たことにしておけばいいという顔だった。


「それは着たうちに入らないだろう」


「着替えろとは言われた。着ろとは言われてねえ」


屁理屈を言いながら、セランも庇の下へ腰を下ろした。


その直後、グラント兄の視線が僅かに動いた。


俺も同じ方向を見る。


海沿いの小道を、二人の女性がゆっくりとこちらへ近づいてきていた。


陽射しを受ける水辺衣は、いつもの装いよりもずっと軽やかだった。絹をわずかに混ぜた薄い麻地の上衣は、膝を覆うほどの丈で、腰を細い帯で留められている。二人とも、その下には、水に入っても動きを妨げないよう仕立てられた、ふくらはぎの中ほどまでの細身の脚衣を穿いていた。


肌を大きく晒すような格好ではない。けれど、幾重もの裾や重い外衣が取り払われた姿は、それだけで普段より身体の線を素直に伝えていた。


歩くたびに薄い裾が風を含み、陽に照らされた脛がその下から覗く。水辺に合わせて広く取られた襟元からは首筋と鎖骨が見え、髪は濡れないよう高くまとめられていた。いつもなら髪や襟に隠されているうなじが、陽の下へすっかり現れている。


夏そのものを纏って歩いてくるようだった。


……うん。目に楽しい。


あの姿を見て何も感じない男がいたら、それはたぶん精霊か老人だけだろう。


「なるほど。水辺用の服をわざわざ用意する意味はあったな」


セランがぽつりと言った。感慨深げに。


何の意味に納得したのかは、さきほど俺が説いた礼儀とは明らかに違う気がしたが、俺も同意するので訂正はしなかった。


「カイル、さっきは悪かった。あれは良いものだ」


「そうだろ。全面的に同意する」


俺も自然と頷く。


「異論ない」


グラント兄が短く言い、目を逸らさない。逸らすつもりもないのだろう。


……まったくもって同感だが、脚派のグラント兄は、殊更お気に召したらしい。


今回の休暇で最も待ち望んだ景色だ。

どうぞ心ゆくまでご覧になっていただきたい。


その兄の背後で、セランがふと思い出したように俺を見る。


「そういえば、この機会にカイルに言いたいことがあるんだった」


視線がまっすぐ来たので、少しばかり身構える。


何か企みでもあるのかと思えば――


「なんだ? 将来リシェリアを頂くんだから、これ以上は礼も何もいらないぞ」


冗談めかして先手を打ってやる。今は目の保養を堪能している時間なので、あまり野暮な話を持ち込まないでほしい。


「もうその手の話は一切返さねえから」


呆れたようにそう返されて、ほんの少し寂しい気もするが、仕方ない。


セランは、やや慎重に、しかし興味深げに口を開いた。


「……いや、お前、“吸う”らしいじゃん」


「ん? ああ……」


なるほど、そういう話か。


グラント兄が余計なことを吹き込んだか。従者になったことで、そういった話をいくらでもできる隙がある。


「グラント兄?」


視線を逸らさずに尋ねる。


「なぜ私だと確信しているのか、甚だ心外だな。……まあ、言われたくなければ、特殊な行為は人前でしないことを勧める」


涼しい顔であしらわれた。


兄以外に誰が言うんだ。


いや、植物園では往来で実演して見せたのだった。通行人や、イェルス家の警護にも見られているかもしれない。


……軽率だったか。


だがな、嗅ぐくらい、いいだろう。


「いや、あのさ」


「なんだ? 手で触れてないんだから、以前の禁止行為にだって含まれてないだろう。そこまで……責められたくない」


軽く拗ねる。


この際、正当性を主張しておきたい。


だが、セランはそんな俺へ、意外にも真剣な面持ちで答えた。


「責めるとか、そうじゃなくて。それこそ、礼だ。吸うっての、割といい……というか。やってみたら結構よかった。ありだ」


……なんだと?


思わず勢いよくセランの方を向いた。


まさか、理解者が現れるとは。

誰にも通じない感覚かと思っていたのに。


「わかるか!」


思わず声が大きくなる。手を差し出す。興奮気味に。


「そう、健全でありながら幸福度が高いよな!」


セランは少し照れたように笑いながら、その手を握ってくる。


ひとつの秘技を分かち合った戦友のような、妙な連帯感が生まれた。


「わかる。ありがとう」


……この短い一言の中に、どれほど深い共感と癒しが込められていることか。


「……おかしいのが増えてしまったか」


グラント兄がため息交じりに言う。


胡乱げな視線。


だが、俺たちは堂々としていた。幸福度の高い人種は、理解されないことにも耐性がある。


「アスティにやってみたらいい。理解するさ」


俺は真顔で勧めた。あの人なら、きっとわかってくれる。


「……そこは聖女殿を嗅げと言わないのか」


そういう冗談を言うグラント兄へ、すかさず牽制を飛ばす。


「やってみろ。この赤い猟犬をけしかけてやるからな。グラント兄の喉笛を噛みちぎるぞ。行け、セラン」


ちらりとセランを見る。


黙って立っていても、彼の守りたいものへの執念は底なしだ。


「行かねえよ」


すげなく断ち切られる。


多少誇張して言ったが、実際にそんな状況になれば、たぶん俺が命じずとも、こいつはやるだろう。


風がそよぎ、天幕の影が少し揺れた。


遠くから、二人の足音が近づいてくる。


もうすぐ、二人が着く。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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