静かに戻る朝
夜の名残を引くような早朝の光が、硝子越しに淡く差し込んでいた。
透明な壁面がぐるりと囲むサンルームは、夜の冷気をまだ少し抱いたまま、外から入り込む草の匂いと混ざり合い、静かな湿り気を漂わせている。
薄いカーテンの影が揺れ、床に花の形を描いていた。
知らない天井の下では、なかなか眠れなかった。
知らない空気も、寝具に残る知らない香りも、どこか落ち着かない。今日は皆で海へ遊びに行くのだと思うと、ほんの少しだけ心がざわめいた。
サリーナの朝が、記憶の底で微かに揺れた。
海辺の町を飲み込んだ、あの大波。悪夢の始まりとなった場所。
イェルス領は、あの土地とはまるで違う。植生も地形も、似たところなどひとつもない。何ひとつ似ていない浜へ来ているはずなのに、潮騒を思うと胸は微かに疼いた。
それでも、どこかで小鳥の声がして、朝の光が差し込んでくる。それだけでようやく、ここもまだ、私の知っている世界の続きなのだと思えた。
昨夜の館には、酒精の匂いに紛れて、何か重いものの余韻が残っていた。私には、その輪郭まではわからない。ただ、朝になっても胸の奥に残る知らない場所の緊張だけが、少し眠りを遠ざけていた。
保養邸の朝は、城とは違って音が少ない。
まだ人の足音もせず、食器の触れる音も遠い。私の知る使用人たちは誰もおらず、静けさの奥にいるのは知らない顔ばかりだった。服の色も、生地も、纏っている香料も違う。
結局、あまり落ち着けないまま早朝を迎え、客室を抜け出して、館の端にあるサンルームまで来てしまった。
本来なら、朝の庭に出て草木の声を聞く時間。
でもここでは、私の手の届く仕事は何もない。
せめて緑の匂いだけでも、と窓辺に置かれた大きな鉢植えの下へ膝をつき、濃い葉の重なりを仰いでいた。
葉の縁から、露がぽたりと落ちる。
それを見上げていたときだった。
「リーシェ。みっけ」
葉の向こうから覗き込んできたのは、朝の光を受けて鮮やかに赤く映える頭だった。
その髪を見ただけで、胸の中に残っていた警戒が、すうっとほどけていく。
「セラン。早いね、おはよう」
「まあな。王都じゃもう起きてる時間だしな。ここは寝具も飯も兵舎と違って、豪華すぎて落ち着かねぇんだよな。部屋にいても暇だから、素振りでもしようと出てきたら、お前の気配がした」
ふふ。セランは、やっぱりすぐに見つけてくれる。
謹慎を終えたセランは、もうあの焦げつくような不安定さを纏っていなかった。以前の親しみやすい気配を取り戻しながらも、その奥には、前にはなかった慎重さが静かに根を張っている。
「休みなのに、訓練しようなんて偉いね」
「別に。習慣だからな。……お前のほうはよく寝られたのか?」
「うん、大丈……ううん! 寝られなかった! 心臓の音を聞かせてほしいし、おまじないも要求します」
いつものように、大丈夫と返事をしようとしてやめた。
悪夢を見たわけでも、枕が合わずに寝苦しかったわけでもない。それでも、久しぶりのセランの心音や温もりを、しっかり分けてもらいたくなった。
会えなかったから、寂しい。
ようやく帰る場所へ戻れたような安心が、胸に広がる。
恋しいということは、恋とは違う。
それでも私は、確かにセランが恋しかった。
「ぜってー嘘じゃん。笑顔で言うな」
あれ?
少しくらい心配してもらおうと思っていたのに、私の顔は、意図とは違う表情を作っていたらしい。
以前は、心配ばかりして、不安な顔をしていた。だからもう、私の顔のほうが、そんな表情を作ることに飽きてしまったのかもしれない。
「またすぐ謹慎するかもしれないから、貯めておこうかなって」
私は誤魔化すために少し意地悪く言って、隣の床を軽く叩いた。
座ってよ、という無言の合図。
セランは小さく息をつき、露骨に眉を上げた。
「貯めるって……お前は栗鼠かよ」
それでも、ちゃんと隣へ腰を下ろしてくれる。
冷たい床の上で、肩の距離だけが近くなった。
「そんなにほいほい謹慎させないでくれよ。もうしない。……多分」
「じゃあ、だめ?」
膝のあたりへ身体を傾けて、そっと顔を覗き込む。
本当は、海へ出る前に、ここにあるセランの生命を確かめておきたかった。けれど、それをそのまま口にすれば、胸の疼きまで形になってしまいそうで、甘えに包んで頼み込んだ。
セランが一瞬、言葉を止めた。
「おまえさあ……」
低く零れた声は、息に紛れて最後まではよく聞き取れなかった。
やがて、ため息がひとつ落ちる。
「ん。お好きにどうぞ」
視線を泳がせながら、左右を確認している。
鉢植えの影、硝子の角度、人の気配。
律儀に、周囲の目を気にしている。
ここは城内ではないし、この早い時間なら、誰かに見られて小言を言われる可能性も低いはずだ。
それでもセランは、きちんと周りを気にしてくれていた。
その慎重な仕草を見ていると、あの時のような危うさは、もう遠くへ退いたように思えた。嬉しくて、胸の内側にじんわりと温かさが広がった。
……ありがと。
言葉の代わりに、彼の胸元へ寄り添った。
セランの体温が、薄い布越しに静かに伝わってくる。胸の奥で鳴る音が、私の耳の奥まで届く。息と鼓動の間に、世界が収まっているような気がした。
ただそれだけで、胸の奥に残っていたざわめきが、少しずつ静まっていった。
セランも黙っていた。
互いの呼吸だけが溶け合う時間。
外では、遠くの木立の葉が風に鳴っている。それさえ今は、すべて心地よい眠りの子守唄のように感じられた。
「セランが来ないうちに、庭はもう夏になったよ」
彼の心音へ耳を傾けながら、言葉がぽつりと溢れた。
責めるつもりはなかったのに、胸の内へしまっておくことができなかった。本当は、庭で一緒に見たいものがたくさんあった。それなのに、ひとつの季節のほとんどを、彼はいなかった。
「……休暇が終わったら、また庭に戻るから」
セランは少しだけ気まずそうに、それでも言い訳をせず、これからするつもりのことだけを淡々と言った。
「本当かなぁ」
「ちゃんと行くって。……そうだ。兵舎を出て、イェルス家の従士用宿舎に移るから、少し近くなる。庭に」
「そうなの。よかったね」
「ま、食堂とか詰め所は遠くなるんだけどな」
「同じ食堂で、ここみたいに、みんなで一緒に食べられたらいいのにね。それか、セランが祭祀庁の職員食堂に入れたら」
この館では、休暇中の同行者ということで、セランも珍しく晩餐を同じ卓で取ることを許されていた。アスティの家にいた時以来で、それだけでも、この休暇へ来てよかったと思えた。
「いや、気を張るから俺は御免被るね。グラント様との食卓じゃ、下座にいたって作法のことばっか気になって、腹いっぱいにならねえ」
「ええ? そのうち慣れていくよ」
そんな他愛のない話が、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
何も起こらないこの穏やかさが、どんな宝よりも尊いもののように思えてしまう。
瞼を閉じる。
すぐに、閉じた瞼へ二つの小さな温もりが触れた。
私たち家族の安眠のおまじない。
これは決して、効果を約束された異能なんかではなく、エナやダレン、そして今はセランが私のためにしてくれる、優しい願いの仕草。
私は、これほど純粋で無償な愛を、他には知らない。
「礼は……今日はいい。俺の分も一緒に貯めといてくれ」
そうだった。
少なくとも、セランは無償ということにはしてくれない。
心の中で、そっと訂正する。
今は、セランの頬へ同じ願いを込め、口づけを返すのが二人の決まりになっている。
「ん。わかった。……じゃあ、おやすみ」
このおまじないの後は、安心を胸に抱え、その余韻に浸りながら瞼を閉じて眠る。それが、いつもの儀式めいた手順だった。
安心は、すぐにまどろみを連れてきた。
おまじないの後は眠るものなのだから、私が二度寝へ入るのも、きっと正しい流れだ。
「おい、寝るな。すぐ朝餉に呼ばれるぞ」
まどろみに引かれ、彼の胸へ預けた頭が少しずつ重くなる。セランの腕が背へ回り、床へ傾かないよう支えてくれた。
ほんの少しくらい、いいじゃない。
その声を子守唄に、世界がゆるやかに遠のいていった。
次回、海へ。




