掴めない男
グラントの負けだった。
どう取り繕おうと、盤面はそれを明白に示していた。駒の配置も、残された手筋も、すべてが白の勝利を物語っている。彼はいつも通り、慎重に、冷静に受けていた。崩れず、隙を与えず、手堅く守りを積み重ねる盤面だった。けれど、私の駒はその慎重さの先を少しずつ削り、わずかな隙間へ踏み込み、彼の防備の外側を囲い込んでいた。
酒のせいもあるかもしれない。
カイルからの連戦の疲れもあるだろう。……けれど、それだけではないはず。
私は、これまでになく鮮やかに押し切ってみせた。
それでも、彼は、敗北に気がついてすらいないようだった。
グラントの指が、黒の王から離れなかった。
握り潰すほどではない。ただ、置き場所を見失ったように、指先だけが駒の頭を押さえていた。
「……き、君まで……まさか。とんでもないことを、考えていやしないだろうな……?」
その声には、いつもの涼しさがなかった。
言葉を飲み込んでいたグラントが、口を開いたのは敗北宣言ではなく、新たな問いかけだった。
それほどまでに黙って聞き逃せなかった発言だったのかもしれない。私の言葉は、彼にとってあまりにあけすけで、大胆で、そして――恐ろしかったらしい。責めるような、目が私を射抜く。
王位簒奪を企むのか。そう言外に聞いている。
彼にとって、言葉にするのも憚られる不遜不敬な言葉なのだろう。
私邸の奥、誰に聞かれることもない場所とはいえ、最大限にひそめられた響きには、明確な動揺が滲んでいた。王位継承権を保持したまま、筆頭公爵家であるイェルス家を取り潰す。そんな発想が浮かぶこと自体、危険すぎるのだろう。領地を分割し、勢力を削ぎ、あるいは家ごと取り込む。それが可能になった時点で、私のもとには王家すら揺るがすだけの影響力が集まる。
グラントの問いは慎重で、真剣だった。けれど私の返答は対照的だった。
……私は、家であまりにも日常でその意思を聞き過ぎている。聞き飽きている。
問われたところで少しも揺らがない。
うんざりだ。それは自分の権利を奪うことでしか作れない者たちの言葉だ。頭にも浮かべたくないほどに嫌いだ。
「別に。でも何かは常に起こりうる。その時に振れる旗は持っておきたいだけ」
声に重みも焦燥も乗せなかった。
私にとって王位など、所詮は起こりうる可能性の一つでしかない。高くもない継承順位に過剰な野心を抱くほど暇ではない。
ただ、備えているだけだ。生き残るために。
叔父の子息たちまで何か不幸にあった時。回り回ってわたしに戻る時、政治に無知や無責任でいたくない。割を食うのは常に下、民なんだ。
必要な時に、選べる手札を持っていたいだけ。
だいたい、と、私は続ける。
「……貴方の家に輿入れしたって、揉めるものは揉めるでしょ。あなたのところは強すぎる。ここで子が生まれれば、確実に次世代の王家へ影響力がある。……あなたは生まれた子を王家に入れて、摂政にでもなるつもりなの?」
測るように問いを重ねながら、私の指は無意識に盤上の黒の王を弄んでいた。
グラントはその様子を見ながら、低く苦く答える。
「……それは結果に付随する事象というだけだ。それが目的じゃない」
本心なのだろう。
だが、それこそが彼の誤算だった。
「私だってそうよ。なら構わないでしょう? あなたは勝敗どちらにせよ欲しいものが手に入る。本当に私を落としたいだけなのなら」
私の言葉が落ちた先を、グラントの視線が追う。
そこには、私が先ほど打った白の女王があった。盤上の駒というより、卓上に置かれた私自身の象徴のように、彼の前へ差し出されている。そんな位置だった。
「それを賭け代にするのは、些か愚かではないだろうか。……君の人生なんだぞ」
言葉の重さを、ようやく彼も実感したのだろう。
グラントの手は動かなかった。
「貴方はそんなことを考えて常に生きているの?」
今までのように読み切れない。盤面も、私の言葉も、私の思考も。これほど彼が私を読めなかったのは、おそらく初めてなのだろう。
「グラントって、本当に恋をしたことあるの? 大領地を治める公爵当主、王の騎士、大樹の僕、王弟の末裔、そして一人の男。どの立場で私に求婚してるの? ……貴方は誰?」
「待ってくれ。頼む」
低く、真剣な願いの声だった。
私はその言葉に呆れたように、それでもほんのわずか残念に思いながら息を吐いた。
「賭博好きが聞いて呆れる台詞ね。安全なところで遊んでいるだけで、勝負師ぶっていたのなら、話はあなたの降参で終わりよ」
指先にあった白の女王を見下ろす。
掴まれなかったその駒は、最後まで私の手の中で、気まぐれのように回されていた。
「ねえ、グラント。この休暇はありがとう。感謝しているわ。でもこの話はもう出さないでね。素直に楽しみたいから。……あなたにも時間が必要でしょ? もし粘るのであればだけど」
声は穏やかに保った。責めるつもりはない。ただ線を引くだけだった。
私は彼を憎んでいない。嫌ってもいない。むしろ、気は合うと思っている。だからこそ、はっきりしている。
その申し出は、私を縛る。枷になる。
王位継承権に執着しているわけではない。あれは、私のものではなく――母のものだ。
クラウディア・メイスン。
あの人は今でも、自分が、あるいはその血が、王権を取り戻す可能性を信じている。だから私を使う。婚姻も、政略も、配置も。
けれど、イェルス家だけは違う。
現王派筆頭。あそこへ嫁ぐことは、取り込まれることではない。屈することだ。あの人がそれを認めるはずがないし、私自身もまた、それを選ぶ気にはなれなかった。
私は、誰かに与えられるだけの人生が嫌いだった。選べず、決められず、ただ流されていく未来を、当然のものとして受け入れることが耐えられなかった。
だから軍務に就いた。
武を鍛え、指揮権を得て、令嬢としての価値を自ら削いだ。婚姻という最大の枷から逃れるために。
その先で、リシェリアを見つけた。
自分の力を押し込めて、自分を小さくして、生きている子。あの子を見た時、似ていると思った。だから、解放したかった。選び方を教えたかった。自由になる方法を、知ってほしかった。
あの子は、私の鏡。かつて守られたかった私の写身で、――今は私が守りたい臣民だ。
だから守る。
私の持てるものすべてを使って。
だから、誰かの横に添えられるだけの立場なんていらない。私は、グラントの影にはならない。もしついてくるなら、勝手についてくればいい。
大樹を癒し、この国を救う。その功で、私自身が居場所を得る。
それが、私の行きたい道だ。
だから結婚だとか、個人の幸せだとか、そんなことにかかずらっている暇はないだけなの。
ほんの少しだけ失望をにじませた笑みを浮かべた。
惜しいとは思った。
この男と肩を並べる時間は、嫌いではない。むしろ、退屈しない数少ない相手だった。
隣で走りたいと言われたら、きっと迷っていた。
だからこそ、檻へ連れていこうとする手だけは許せない。
手の中で遊ばせていた白の女王は、結局、誰にも掴まれないまま。静かに卓へと置いた。指先から離れたその駒は、もうただの木片だ。けれど、それが示しているものは、あまりにも明確だった。
終わり。
この勝負も、この話も。
「勝負は楽しかった。……片付けは敗者に頼むわね」
言葉は柔らかくした。微笑みも、艶やかに作った。けれどそこに含めたのは、間違いなく明確な終わりの意志だった。
俯いたまま言葉を返せないグラントの耳元へ、そっと囁くように「おやすみ」と残し、私は立ち上がる。
これで、あの場での二度目の交渉も終わった。
赤と黒の賭けを続けるかどうか。
その答えは、今夜の盤の上には残らなかった。




