若き女王の一手
肩に担がれたカイルと、それを送るふたりの後ろ姿を、私は黙って目で追った。
音を立てずに書斎の扉が閉じる。先ほどまで騒がしかった気配が廊下の向こうへ遠ざかり、部屋には私とグラントだけが残された。
灯火は静かに揺れ、卓上には途中で投げ出された盤がある。カイルがこちらに託したはずの盤面は、残念ながら彼の『転倒劇』のせいで跡形もなくなっていた。駒は倒れ、布陣は崩れ、読み筋も何もあったものではない。
先ほどまでの盤面はかなり拮抗していたようではあったけれども――ここまで崩れては、続きを拾い直す気にもならない。グラントも同じだったのだろう。しばらく無言で盤を見下ろしていたが、やがてあっさりと駒を崩した。
「仕切り直しで構わないな?」
「そうね」
私も異論はなかった。崩れた勝負にしがみつくほど、未練がましい性分ではない。
ふたりで盤を整え直す。灯火の下で、駒がひとつずつ指先から定位置へ戻っていく。その静かな音は、先ほどまでの騒動の後始末のようでもあり、別の勝負を始めるための儀式のようでもあった。
「お手柔らかに」
グラントが苦笑まじりにそう言って、私の杯へ新しい酒を注いだ。それから、当然のように先手を譲ってくる。
香の強すぎない、軽い蒸留酒だった。口あたりは悪くない。喉を通る熱も柔らかく、油断すれば杯が進む。もちろん、私はこの程度で崩れることはないけれど、酒が思考の端を少しだけ滑らかにする感覚はあった。
「君はいささか軽率だな。これで決まりだ。五手先で詰む」
「……いいわ。降りる。次よ」
また負けた。それでも、先ほどより粘れた。
その後も盤を改め、二度、三度と戦った。一度は中盤まで食らいつき、次は女王を失いながらも王だけは長く逃がした。それでも勝ちには届かない。けれど対局を重ねるたび、酒杯を重ねるたびに、グラントの守りにはわずかな綻びが増えていった。
そして、とうとう目に見えて鈍りはじめた。
読みが浅い。視線が逸れる。普段なら拾うはずの筋を、一拍遅れて見る。
これは、勝てるかもしれない。
唇の端が、自然と上がった。模擬戦では幾度も私に苦い敗北を味わわせてきた相手だ。まともに斬り合えば厄介で、隙を見せれば、すぐに首筋まで刃を届かせてくる男。
戦術戦でも堅牢な防護を誇り、先手後手に関係なく、相手に肉薄する隙を与えない。
――けれど、今宵は違う。
白の駒を握る私の前で、黒の駒を構えるグラントの切れ味は、酒気に少しだけ緩んでいる。
「しかし、こうやって仕事なしに卓を囲むのも久しいな」
「あなたが仕事を溜め込んでいるからね」
私はまず陣形を整えた。彼を相手にするときは、守りを固めることから始めるべきだと、これまでの敗北から掴んでいる。不用意に中央へ出れば、どれほど軽い駒でも急所に化ける。だから言葉は皮肉にしても、視線は盤から外さない。
駒をすべらせる音が、静かに部屋へ落ちる。
一手、一言。打つたびに言葉が交わされていく。それは火花というより、炭火に近い会話だった。表面は穏やかで、けれど内側には互いの温度が残っている。手なりに盤が組まれ、互いに王を守る布陣を築いていく。
「先日の件は、すまなかった。我が家まで来ていただいた淑女に向かって、晩餐にも誘えないとは不覚だった」
淡々と謝罪するグラントの手が、王を自陣に囲わせる。その動きを見ながら、私はあの夜のことを思い出していた。あの場にあったのは、職務と責任の滲んだ書類だけだった。
「淑女なんていなかったから」
私もまた、自分の王に防壁を築いた。場の言葉遊びにも聞こえるだろう。けれど、本音は駒の動きのほうに出る。互いに隙を見せず、守るべきものをまず囲う。そういうところは、腹立たしいほど似ている。
「そんなことはない」
「……あそこにいたのは、あなたの職務上の部下でしょ」
短い応酬の中に、互いの立場だけが残った。見てしまった以上は補うしかない。それが副総長という役目だし、私が登った立ち位置でもある。どれほど面倒でも、目の前で崩れかけたものを放置できないなら、拾うしかない。
序盤は互角だった。
定石通り、慎重に、精緻に。けれど、その均衡を崩したのは盤上の手ではなく、次に投げられた話題だった。
「赤と黒の賭けの件だが」
グラントの視線が、まっすぐ私へ向けられる。
私は表情を変えずに、駒を見下ろしたまま返した。
「何かしら」
「実は……図らずも介入してしまった。両名から進捗を聞いてしまってね」
「私もそうね。セランとカイルの馬鹿な行動を間近に見て、聞いた。その上、リシェリアにもいろいろお説教しちゃったわ」
それぞれの立場で、当事者たちから情報を受け取っていた。そしておそらく、互いに同じ程度には見えている。あの赤と黒が、どこまで本気で、どこまで愚かで、どこまで足を踏み入れているのか。
「ある程度、趨勢も見えただろう。……ここらで手打ちといかないか」
「賭けをやめるってこと? グラント様ともあろう方が、負けるのが怖いのかしら?」
私は軽く笑ってみせた。口調はあくまで軽やかに、挑発的に。そうでなければ、面白くない。
「このままだと負けるのは君だ」
私は少しだけ目を細めた。中央へ向けて、自陣の兵士を押し出す。
「どちらが勝つかなんて、まだ決まったとは言えない」
盤上の攻防は、言葉よりも正直だった。駒は次々とぶつかり、戦線が入り乱れていく。
グラントは盤上でも賭けでも、言葉で私を退かせようとしている。
けれど私は、退く気はない。
「払った手間だけで赤字ではないかな? 私は執務に追われ、君は小競り合いの尻拭い。正直、出費の方が多い」
ぼやくように言われて、内心ではその通りだと思った。実際、赤と黒の小競り合いは、本人たちだけで完結してくれない。周囲を巻き込み、余波を残し、結局こちらが整えることになっている。
「今なら賭け代もお互い開示していない。損も得もないと思うが」
グラントの黒の司祭が、長い斜線を回り込むようにこちらの陣へ迫る。それを追いかけるように、私は白の女王を動かした。
「そうね。でもそれなりに楽しいわ。私たちのようなものでは得られないものが見られた。焦って席を立つ必要もないんじゃないかしら」
勝ち負けだけなら、もっと早く見切っている。
けれどこれは、私にとってももう、単なる恋愛の賭けではなくなっていた。
あのリシェリアが何を知り、何を選び、どこへ進むのか。それを一番近くで見守りたいと思ってしまっている。
かといって、本心をグラントにわざわざ晒すつもりもない。
「偽装婚約の方はどうする気?」
話を逸らす問いを投げると、グラントの指が一瞬だけ止まった。
けれど止まったのはほんの一瞬で、すぐに駒が動く。
「それとこれとは別の話だ。もちろん、当然継続するさ。だが、来年の夏までが限度だ。その頃には具体的に婚礼の手配を始めていないといけなくなってしまう。だから、それまでは待てん」
「あら? 婚礼してもいいんじゃなかったの」
私はいたずらな笑みを浮かべながら、攻勢を強めた。中央を制圧し、グラントの陣形を崩していく。
「……私には意中の女性がいて、重婚や不義密通は道に反するんだ。あまり誤解をさせたくない」
私を見据える視線に、不意にまっすぐな光が宿った。
私は一瞬だけまばたきをした。酒のせいではない。こちらの隙を突くための冗談でもない。彼は本気で、まだその話をしている。
「へえ、そう」
駒を進める手は止めず、言葉だけを切り捨てた。
「じゃあ、来年はもうここには来られないわね。せいぜい今を楽しませてもらうわ」
私はリシェリアの成年後見人としてここへ来た。そうでなければ、家同士は絶縁しているのだから。リシェリアが来年にはグラントの婚約者でなくなるのなら、もうここを訪れる理由はない。
そう言って、私は女王を前に出した。
グラントはそれでも、引き下がらなかった。
「……君のことを賭けに巻き込んですまなかった。君を口説く口実になるかと思った。私は卑怯者だった」
低く、静かに告げられた声に、盤上の音が一瞬遠くなる。
これは、この夜で初めてのまっすぐな本音だった。
「賭けに勝てば、君に結婚を申し込むつもりだったし、負けても別に困らない。秘密を共有して、君との縁を深めたかった。賭けが有耶無耶になったとしても、聖女殿や周囲の目によって、君の天秤が多少はこちらへ傾くだろうとも思っていた。……まさか、耳も傾けてもらえないとはね」
数瞬、何もかもが静止し、沈黙が降りる。グラントが卓上の手を静かに握りしめた。
「君に結婚を申し込みたい」
聞こえた。
歯の浮くような言葉も、花も贈り物もない。情緒もなく、ただひたすらに事柄だけ。
女泣かせの色男だという風聞には、まるでそぐわないほどの、不器用な求婚だった。
耳から入った音がようやく腑に落ちたとき、私は顔を上げた。
「メイスン家まで申し込むのは構わないわよ。当主クラウディアに認められるよう頑張って」
声の調子は真面目に保った。感情は表に出さない。出したところで、何が変わるわけでもない。
母、クラウディアが、イェルス家に頷くはずがない。娘への縁談を降伏勧告だと思って激昂する姿が、容易に想像できる。
グラントが、両家と王家の確執を知らないはずはない。それでも申し込むというのなら、母にとっては求婚ではなく、降伏勧告にしか見えないだろう。
「君の御母堂ね。問題は認識しているつもりだ。……まあ、手を尽くせば、決して不可能ではない。もちろん、君には王位継承権を正式に放棄してもらうことにはなるだろうが、なんとでもしてみせる。大事なのは意思だ。承諾さえあれば、当家は万難を排すことに全力を尽くす。それで、君の気持ちはどうだろうか」
探るような、けれど逃げない目が、盤面と私を往復する。
攻め手が見えないまま、それでも可能性を探している。守りに回りながら、まだ勝ち筋を捨てていない。そういうところは、嫌いではない。
けれど、私の答えは決まっている。
「答えが二つに一つしかないなら、もちろん好ましく思ってる。そうじゃなきゃ、つるんでない。背中を預けるには安心だし、遊び心もあって楽しい。でもこれは恋とか、愛とか、そんなんじゃない。……あなたもそうだと思っていたけど?」
グラントの司祭が、追い詰められて逃げ回る。私の駒は、じわじわと盤面を制圧していた。酒の熱が身体を巡っているせいか、いつもより言葉が多い。けれど、言葉が多いからといって、内容が曖昧になるわけではない。
「そんなことはない」
グラントは苦しげに、けれど真っ直ぐな目で答えた。
私はそれを受け止める気になれなかった。
「私は」
「君のことを愛しているんだ、とか言い出したら、さすがに一発蹴りを入れるわよ。あんたが捨てた女を何人見てきたと思ってるの」
駒を打ち込む音が、思ったより強く響いた。
盤上でも、言葉でも、グラントは後手に回っていた。
「……言い訳はしない。だが、種類が違う」
「あ、そ。どうでもいいけど」
彼の過去を責めたいわけではない。けれど、それをなかったことにして、今だけ清らかな顔をされるのは御免だった。私が見てきたものを、私自身に忘れろと言うのなら、それはあまりにも都合がいい。
「……アストリット。そうじゃない、私は。……そうだな、君を守りたい」
「何それ。馬鹿にしているの? 私は一人で立てる」
返す言葉が追いつかないまま、彼の王の周囲から守りが消えていく。逃げ場も、反撃の糸口も、もうほとんど残っていない。
「それに、公爵夫人なんてごめんよ。乗ってほしいなら、私が欲しいものを賭けなさいよ」
私は迷いなく、白の女王をつまんだ。
「君は何を求める? 私が用意できるものなら、勿論応じる」
それは敗者の最後の問いだった。盤の終わりを悟ったグラントの、静かな敗北宣言にも聞こえた。
私は笑った。
「あは、残念! 公爵様ならどんな素敵な提案があるかと思ったのに。女性にそのまま聞くなんて、なんて野暮なの?」
「……」
「私に、誰かに与えられるもので欲しいものなんてない。だって、この身の上、自分で大抵得られるもの。私の主人は私だけ。自分で切り開き、勝ち取ってみせる」
言いながら、休暇の前に母から投げられた言葉が頭をよぎった。
自由など、幻想だ。
母の声は、いつでも冷えている。娘の人生も、家も、婚姻も、未来も、すべて盤上の駒のように扱えると思っている。実際、そうなのだろう。私の運命は、母の言葉ひとつで形を変える。その現実には、うんざりするほど慣れていた。
だから、グラント・イェルスに変わったところで、それが何だ。
母の盤から、イェルス家の盤へ。王姉の娘から、公爵夫人へ。名前と席が変わるだけで、誰かの恩讐を背負わされるのなら、それは私の自由ではない。
「ああ、それなら、あなたが私に婿入りしたら? すべてを捨てても追ってくるっていうなら、考えてあげなくもない。あなたの家は取り潰しちゃおうか。あなたが蹴落とした兄弟姉妹の誰かに、家督を譲ってもいい。確か、家督を競っていたお兄様がいたわよね。それができるなら、結婚してあげる」
口調は軽くした。そうしなければ、言葉の奥にあるものが重くなりすぎる。
私は誰かの褒美になりたいわけではない。誰かの家に収まるために生きてきたわけでもない。母の思惑も、王家の都合も、イェルス家の重責も、私を飾る檻になるなら同じことだ。
私の手が、盤上の女王をすべらせる。
白の女王が、黒の王を追いつめた。
王は、数手前に詰まされていた。
――チェックメイト。




