前哨の指導戦
湯殿前の騒動から逃げ込んだシガールームには、まだ酒と煙の匂いが残っていた。灯りは低く、磨かれた木の壁に琥珀色の影を落としている。さっきまでのくだらない言い合いも、煙草の残り香に紛れるように少しずつ薄れていった。
そんな空気がようやく落ち着いた頃、カイルがふと棚の奥へ目を向けた。
「グラント、久々に相手を頼む」
そう言ってカイルが取り出したのは、館に備え付けられていた、軍棋という盤上遊戯だった。
普段、祭祀庁ではあまり見せたことのない、遊びの顔だった。目が妙に楽しそうに輝いている。
「いいだろう。また泣きたいようだな」
涼やかに応じたグラント様の笑みには、かつての勝敗を思い出しているような余裕があった。何の話か知らないが、よほど面白い過去があるらしい。
「ルールをまだ満足に覚えてもいなかった子供に、本気を出した時のことかい? 偉そうに自慢することではないぞ」
「全ての駒を取られるまで、降りないというなら仕方ないではないか」
軽口を交わしながら二人の間に盤が置かれ、黒と白の駒が整えられていく。
カイルは一通り配置を整えながら、当然のように俺の腕を引いて隣に座らせた。
「セランはそっち。戦術の勉強にもなる。説明しながらやってやるから観戦しておけ」
「はあ……」
生返事をしながらも、俺はおとなしく腰を下ろした。正直、盤上の駒の動きなんてさっぱりだった。弓や剣ならまだしも、小さな木彫りの駒が斜めだの真っ直ぐだの進んで何が戦術だ、と思わなくもない。
だがカイルは、自分の打つ手ごとに説明を加えてくれた。
どの駒がどの動きをするのか。どこを狙い、何を誘い出し、相手の選択肢をどう削るのか。言っていることは面倒くさいのに、声はやたらと弾んでいる。隠しきれないくらい楽しそうにしている。
……はしゃいでる。
やっぱり、こいつ。澄ましてることの方が多いが……結構子供っぽいところがあるよな。
初戦は俺に見せるためなのか、カイルが自分の手の内を晒しながら定石の戦い方を示していく。おそらく俺に見せるために、グラント様も相当手を抜いて応じている。盤を挟んだ二人は、普段の上下関係とは違う、昔からの知り合いみたいな空気を持っていた。
「ええと。これで」
「おい。なんで兵をそんな場所に単独で置く!?」
酒も入って、何戦か交互に続けるうちに、勝敗も場の空気も少しずつ混沌としてきた。俺もカイルと交代しては打たされていた。
「いや、王を落とす遊戯なんだろ。あと一矢で足りるだろうが」
「お前の現実とは違うんだよ!」
何言ってんだ……?
じゃあ、そもそもこんなの役に立たねえだろ。そう思ったが、カイルは本気で俺に何かを教えようとしている顔をしていた。
「これじゃ王手する直前に、相手の騎兵が間に合ってこちらの王が取られる。常に相手が取る次の手の方を想像するんだ」
カイルが駒を握り、俺の目を見て力説する。俺は考えるのは得意じゃない。……実際、俺はこういう場では言われて動く駒の方なのだから。
「ほら、負けただろ。くそ……次はまた俺の戦いを見ておけ」
グラント様が、カイルが言った通りに手を進めて俺を敗北させた。
「カイル。あまり性急すぎても頭に入らんぞ」
苦笑しながらグラント様が茶々を入れる。俺も本当にそう思う。
「……大体。俺がこれに強くなっても、意味がないだろ」
「違う。そうやって考えることを覚えるんだ。使われる兵の方が指揮官の思考を読む。そうすれば誰より早く動け……」
カイルが熱弁の途中で言葉を止めた。俺もさっきから気がついていた。戸口で様子をうかがう気配がしていたが、ようやく入ることにしたらしい。
扉が、そっと開いた。
「随分、楽しんでるのね」
アスティが先に立ち、リシェがその腕に軽く手を添えていた。
湯の熱も引いた後で、火照った雰囲気はもうない。ふたりとも髪をほどき、夜着に着替えている。
カイルがリシェの姿を見るなり、明らかに顔を赤くしたのがわかった。頬だけじゃなく、耳まで染まっている。思わず眉間に皺が寄った。
なにがそんなに珍しいんだよ。
俺は、そういう格好のリシェを見慣れてる。夜着なんて持つようになったのはアスティに拾われてからだが、メイスン家で飽きるほど見た。
……いや、それはどうでもいいな。どうでもよくないが、今は口に出すべきじゃない。
さすがに公的な場でも通用するようなものだから、透けるでもなく、くつろぎすぎてるわけでもなく、誰に見られて困る格好ではなかった。
……それでも、やっぱり見られたくない。
「いいところに。アスティ、交代してくれ。だいぶグラントを疲れさせたから……あとは頼む」
カイルがふらりと立ち上がったと思えば、足をもつれさせてよろけた。
咄嗟に横にいた俺が腕を掴む。カイルの腕の筋肉の張りが指先に伝わった。
「おい、危ないぞ」
声をかけると同時に、アスティも一歩踏み出す。
「ちょっと、大丈夫?」
「あ、ああ。すまない。酒を入れすぎてたな……」
カイルはそう言って笑った。手を振って「平気だ」と示しているが、俺にはわかった。目の動き、瞳孔の開き方、首筋や肩の筋の緊張。酒に呑まれている人間の反応じゃない。
……策士が。
俺は内心で舌打ちしながら、カイルの肩を担ぎ上げた。仕方ない。ここは乗ってやるしかない。
「グラント様。ちょっと部屋に連れて行って休ませてきます」
カイルは何も言わず、目を閉じて体を預けてきた。やけに素直で、それがまた腹立たしい。グラント様も察したのか、ただ静かに頷いた。
「頼む」
扉を出る前に、リシェを振り返る。
それもこいつの期待だろう。
先ほどカイルが言った、”指揮官の策を兵が読む”場面。今がその時だということなんだろうな。
「リシェ、悪いけどついてきてくれ。寝かせたら、症状にあわせて治癒を頼む。おい、吐くのはやめろよ」
「まだ、平気だ……頭が痛いが」
「うん。わかった」
リシェは察しているかはわからないが、素直に頷いて、ついてくる。
「では、我々は本日はそのまま下がります。失礼します」
そう言って辞して――俺はカイルを客室ではなく、書斎へ運んだ。
こいつがこんな芝居を打った理由を考えれば、運ぶ先はたぶんこっちだ。
「ほらよ。これが望みだろ」
長椅子に下ろす――というより、雑に転がす。
「優しくないな」
すぐにぱちりと目を開けて、カイルは皮肉げに笑った。
「なんで荷物に優しくしなきゃいけないんだよ」
「価値の高い貨物を持つ練習と思って欲しかったな」
「抜かせ。覚醒してる時の反応だからな……まあ意図は察した」
やれやれ。
読みはあっていたようだった。アスティとグラント様を強制的に盤へ向かわせるために、あえてこの手を取ったのだ。
「協力、感謝する」
カイルは静かに、だが真面目に礼を言った。
言葉は軽くない。それがわかるから、俺も小さく頷いた。こういうところは面倒だ。
嫌な奴だと思ってきたのに、たまにきちんと礼を言うから、全部を雑に扱いづらくなる。……敵でいられなくなる。
「リシェリア、そういうことだから治癒は要らない。ありがとう。あとは解散してくれ。二人で好きにゆっくりしていい」
リシェは、カイルの顔色と俺の反応を見比べて、ようやく状況を理解したように瞬いた。
そう言うなり、カイルはもう書類に目を落としていた。既にペンを手にしていて、まるで最初からこれが目的だったみたいに気を切り替えている。
俺も、気づいていた。
昼、一度は止めたが、やはりグラント様のために仕事を手伝おうとしている事を。
だから意を汲んで運び先を“書斎”にした。
なら、ここは――手伝うところだよな。
隣のリシェを見ると、彼女も俺を褒めるように頷いてくれた。
「私は普段の執務で慣れていますし、できることはあると思います。手伝います」
自信ありげに、静かに宣言してカイルの隣に座るリシェ。その姿がなんとも可愛くて、有能で、俺は一瞬、ただ見とれるしかなかった。
リシェは、もう昔の何も知らない子供じゃない。城で学んだものを、ちゃんと自分の手元に置いている。
「俺も。最近グラント様の下で従士働きしはじめたから、ちょっとは覚えた……計算以外は」
正直に、でも少し自信なさげに俺も付け足す。丸椅子を引き寄せて、卓を挟んで二人の目の前に座る。
カイルは目を伏せたまま、ふっと微笑んだ。
「助かる」
カイルは手元の束から、開封済みで分類だけなら問題なさそうな書類を選び出していく。無造作に見えて、その実、俺たちが触れていい範囲をきっちり分けているのだろう。そういうところが、腹立たしいくらい抜け目ない。
「セラン、仕分けは日付ではなく処理する優先度で。封蝋の色か……匂いで覚えろ」
耳に届いた瞬間、条件反射のように背筋が伸びた。
カイルの声は淡々としているのに、妙に鋭い。部屋に漂う紙とインクと蝋の匂いが、急にはっきり鼻についた。封蝋の色、香、紙の厚み、差出人の癖。言われてみれば、確かに全部違う。
「リシェリア、三月分だけ分けておいて。それ以外はいつも通り」
「はい」
リシェが手元の書面を読み、ペン先を一瞬止める。そのほんのわずかな間を拾ったのか、カイルが顔も上げずに言った。
「そこ、誤字」
まったく。
この部屋では、気を抜けるタイミングがひとつもない。
カイルは書類となると、祭祀官というより本職の行政官みたいだった。封の開き方ひとつ、言葉の選び方ひとつで、その文の意図も差出人の癖も読み取る。
本人はグラント様より下だと言うが、おそらくそれは背負っている責任と、人を動かす政治力の差の話だ。
教師としての才なら、明らかにカイルのほうが上だと思う。
俺もリシェも、さっきからずっとそう感じていた。軍棋でも、書類でも、こいつはさりげなく指示しつつ、全体の流れを整えてしまう。
「ふう。……こんなもんだろう。兄……グラントの確認がいるもの以外は終わり。二人ともありがとう」
乾いた声でまとめを告げるカイル。疲れているくせに、言葉にはきちんと労いの意が含まれていた。
「ん」
「はい」
俺とリシェが素直に返すと、カイルは「じゃあ……」とでも言うように一枚の書面を取り上げた。
「最後にもう一回だけ見ておくか」
目線は紙の上だが、声の調子は“ここで区切り”を告げていた。
「少し確認したら書斎を閉めるだけだから、二人とも帰っていいよ。おやすみ……?」
だが、俺もリシェも動かなかった。
カイルの視線が紙からゆっくり上がってくる。不審がる顔が、照明の下で少しだけ崩れた。
「本当にもうないぞ?」
聞かれて、俺は小さく肩をすくめる。気が抜けたというより、なぜか名残惜しかった。さっきまでただの手伝いだったはずなのに、三人で何かを片づけた時間が、妙に悪くなかった。
そんな空気を察したのか、リシェがそっとカイルの腕に手を添えた。
「休まないんですか?」
その声は穏やかで、どこか気遣いに満ちている。けれど同時に、確かに踏み込む意思があった。
カイルの手がわずかに震えた気がする。眉間がきゅっと寄って、一瞬だけ表情が読めなくなる。
……む。
胸の奥が、ちくりとした。
だが、これはこの程度で嫉妬などするまい。するまい、と思っていたのに、やっぱり少しだけうずいた。
「じゃあ、夜も遅いし。リシェリアは俺が部屋に送るとして……セランにはこの部屋の戸締りを頼むか」
カイルがあっさりと調子良く言い出した。真顔で、なんのてらいもなく。
「ふざけろ」
即座に返した。
この流れで従えるか。俺は犬じゃない。
「もう。三人で、帰りましょうよ」
その時だった。
リシェがやわらかく微笑んで、俺とカイルの手を両方取った。自分の指を絡めて、まるで何気ないことのように。
熱が、肌から伝わる。
俺は少しだけ息を止めた。
……今夜だけ。
許してやるか。
このぬくもりに身を任せて、俺たちは三人で書斎をあとにした。




