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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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前哨の指導戦

湯殿前の騒動から逃げ込んだシガールームには、まだ酒と煙の匂いが残っていた。灯りは低く、磨かれた木の壁に琥珀色の影を落としている。さっきまでのくだらない言い合いも、煙草の残り香に紛れるように少しずつ薄れていった。


そんな空気がようやく落ち着いた頃、カイルがふと棚の奥へ目を向けた。


「グラント、久々に相手を頼む」


そう言ってカイルが取り出したのは、館に備え付けられていた、軍棋(チェス)という盤上遊戯だった。


普段、祭祀庁ではあまり見せたことのない、遊びの顔だった。目が妙に楽しそうに輝いている。


「いいだろう。また泣きたいようだな」


涼やかに応じたグラント様の笑みには、かつての勝敗を思い出しているような余裕があった。何の話か知らないが、よほど面白い過去があるらしい。


「ルールをまだ満足に覚えてもいなかった子供に、本気を出した時のことかい? 偉そうに自慢することではないぞ」


「全ての駒を取られるまで、降りないというなら仕方ないではないか」


軽口を交わしながら二人の間に盤が置かれ、黒と白の駒が整えられていく。


カイルは一通り配置を整えながら、当然のように俺の腕を引いて隣に座らせた。


「セランはそっち。戦術の勉強にもなる。説明しながらやってやるから観戦しておけ」


「はあ……」


生返事をしながらも、俺はおとなしく腰を下ろした。正直、盤上の駒の動きなんてさっぱりだった。弓や剣ならまだしも、小さな木彫りの駒が斜めだの真っ直ぐだの進んで何が戦術だ、と思わなくもない。


だがカイルは、自分の打つ手ごとに説明を加えてくれた。


どの駒がどの動きをするのか。どこを狙い、何を誘い出し、相手の選択肢をどう削るのか。言っていることは面倒くさいのに、声はやたらと弾んでいる。隠しきれないくらい楽しそうにしている。


……はしゃいでる。


やっぱり、こいつ。澄ましてることの方が多いが……結構子供っぽいところがあるよな。


初戦は俺に見せるためなのか、カイルが自分の手の内を晒しながら定石の戦い方を示していく。おそらく俺に見せるために、グラント様も相当手を抜いて応じている。盤を挟んだ二人は、普段の上下関係とは違う、昔からの知り合いみたいな空気を持っていた。


「ええと。これで」


「おい。なんで兵をそんな場所に単独で置く!?」


酒も入って、何戦か交互に続けるうちに、勝敗も場の空気も少しずつ混沌としてきた。俺もカイルと交代しては打たされていた。


「いや、王を落とす遊戯なんだろ。あと一矢で足りるだろうが」


「お前の現実とは違うんだよ!」


何言ってんだ……? 

じゃあ、そもそもこんなの役に立たねえだろ。そう思ったが、カイルは本気で俺に何かを教えようとしている顔をしていた。


「これじゃ王手する直前に、相手の騎兵が間に合ってこちらの王が取られる。常に相手が取る次の手の方を想像するんだ」


カイルが駒を握り、俺の目を見て力説する。俺は考えるのは得意じゃない。……実際、俺はこういう場では言われて動く駒の方なのだから。


「ほら、負けただろ。くそ……次はまた俺の戦いを見ておけ」


グラント様が、カイルが言った通りに手を進めて俺を敗北させた。


「カイル。あまり性急すぎても頭に入らんぞ」


苦笑しながらグラント様が茶々を入れる。俺も本当にそう思う。


「……大体。俺がこれに強くなっても、意味がないだろ」


「違う。そうやって考えることを覚えるんだ。使われる兵の方が指揮官の思考を読む。そうすれば誰より早く動け……」


カイルが熱弁の途中で言葉を止めた。俺もさっきから気がついていた。戸口で様子をうかがう気配がしていたが、ようやく入ることにしたらしい。


扉が、そっと開いた。


「随分、楽しんでるのね」


アスティが先に立ち、リシェがその腕に軽く手を添えていた。


湯の熱も引いた後で、火照った雰囲気はもうない。ふたりとも髪をほどき、夜着に着替えている。


カイルがリシェの姿を見るなり、明らかに顔を赤くしたのがわかった。頬だけじゃなく、耳まで染まっている。思わず眉間に皺が寄った。


なにがそんなに珍しいんだよ。

俺は、そういう格好のリシェを見慣れてる。夜着なんて持つようになったのはアスティに拾われてからだが、メイスン家で飽きるほど見た。


……いや、それはどうでもいいな。どうでもよくないが、今は口に出すべきじゃない。


さすがに公的な場でも通用するようなものだから、透けるでもなく、くつろぎすぎてるわけでもなく、誰に見られて困る格好ではなかった。


……それでも、やっぱり見られたくない。


「いいところに。アスティ、交代してくれ。だいぶグラントを疲れさせたから……あとは頼む」


カイルがふらりと立ち上がったと思えば、足をもつれさせてよろけた。


咄嗟に横にいた俺が腕を掴む。カイルの腕の筋肉の張りが指先に伝わった。


「おい、危ないぞ」


声をかけると同時に、アスティも一歩踏み出す。


「ちょっと、大丈夫?」


「あ、ああ。すまない。酒を入れすぎてたな……」


カイルはそう言って笑った。手を振って「平気だ」と示しているが、俺にはわかった。目の動き、瞳孔の開き方、首筋や肩の筋の緊張。酒に呑まれている人間の反応じゃない。


……策士が。


俺は内心で舌打ちしながら、カイルの肩を担ぎ上げた。仕方ない。ここは乗ってやるしかない。


「グラント様。ちょっと部屋に連れて行って休ませてきます」


カイルは何も言わず、目を閉じて体を預けてきた。やけに素直で、それがまた腹立たしい。グラント様も察したのか、ただ静かに頷いた。


「頼む」


扉を出る前に、リシェを振り返る。

それもこいつの期待だろう。

先ほどカイルが言った、”指揮官の策を兵が読む”場面。今がその時だということなんだろうな。


「リシェ、悪いけどついてきてくれ。寝かせたら、症状にあわせて治癒を頼む。おい、吐くのはやめろよ」


「まだ、平気だ……頭が痛いが」


「うん。わかった」


リシェは察しているかはわからないが、素直に頷いて、ついてくる。


「では、我々は本日はそのまま下がります。失礼します」


そう言って辞して――俺はカイルを客室ではなく、書斎へ運んだ。

こいつがこんな芝居を打った理由を考えれば、運ぶ先はたぶんこっちだ。


「ほらよ。これが望みだろ」


長椅子に下ろす――というより、雑に転がす。


「優しくないな」


すぐにぱちりと目を開けて、カイルは皮肉げに笑った。


「なんで荷物に優しくしなきゃいけないんだよ」


「価値の高い貨物を持つ練習と思って欲しかったな」


「抜かせ。覚醒してる時の反応だからな……まあ意図は察した」


やれやれ。

読みはあっていたようだった。アスティとグラント様を強制的に盤へ向かわせるために、あえてこの手を取ったのだ。


「協力、感謝する」


カイルは静かに、だが真面目に礼を言った。


言葉は軽くない。それがわかるから、俺も小さく頷いた。こういうところは面倒だ。

嫌な奴だと思ってきたのに、たまにきちんと礼を言うから、全部を雑に扱いづらくなる。……敵でいられなくなる。


「リシェリア、そういうことだから治癒は要らない。ありがとう。あとは解散してくれ。二人で好きにゆっくりしていい」


リシェは、カイルの顔色と俺の反応を見比べて、ようやく状況を理解したように瞬いた。


そう言うなり、カイルはもう書類に目を落としていた。既にペンを手にしていて、まるで最初からこれが目的だったみたいに気を切り替えている。


俺も、気づいていた。

昼、一度は止めたが、やはりグラント様のために仕事を手伝おうとしている事を。

だから意を汲んで運び先を“書斎”にした。


なら、ここは――手伝うところだよな。


隣のリシェを見ると、彼女も俺を褒めるように頷いてくれた。


「私は普段の執務で慣れていますし、できることはあると思います。手伝います」


自信ありげに、静かに宣言してカイルの隣に座るリシェ。その姿がなんとも可愛くて、有能で、俺は一瞬、ただ見とれるしかなかった。

リシェは、もう昔の何も知らない子供じゃない。城で学んだものを、ちゃんと自分の手元に置いている。


「俺も。最近グラント様の下で従士働きしはじめたから、ちょっとは覚えた……計算以外は」


正直に、でも少し自信なさげに俺も付け足す。丸椅子を引き寄せて、卓を挟んで二人の目の前に座る。

カイルは目を伏せたまま、ふっと微笑んだ。


「助かる」


カイルは手元の束から、開封済みで分類だけなら問題なさそうな書類を選び出していく。無造作に見えて、その実、俺たちが触れていい範囲をきっちり分けているのだろう。そういうところが、腹立たしいくらい抜け目ない。


「セラン、仕分けは日付ではなく処理する優先度で。封蝋の色か……匂いで覚えろ」


耳に届いた瞬間、条件反射のように背筋が伸びた。


カイルの声は淡々としているのに、妙に鋭い。部屋に漂う紙とインクと蝋の匂いが、急にはっきり鼻についた。封蝋の色、香、紙の厚み、差出人の癖。言われてみれば、確かに全部違う。


「リシェリア、三月分だけ分けておいて。それ以外はいつも通り」


「はい」


リシェが手元の書面を読み、ペン先を一瞬止める。そのほんのわずかな間を拾ったのか、カイルが顔も上げずに言った。


「そこ、誤字」


まったく。


この部屋では、気を抜けるタイミングがひとつもない。


カイルは書類となると、祭祀官というより本職の行政官みたいだった。封の開き方ひとつ、言葉の選び方ひとつで、その文の意図も差出人の癖も読み取る。

本人はグラント様より下だと言うが、おそらくそれは背負っている責任と、人を動かす政治力の差の話だ。


教師としての才なら、明らかにカイルのほうが上だと思う。


俺もリシェも、さっきからずっとそう感じていた。軍棋でも、書類でも、こいつはさりげなく指示しつつ、全体の流れを整えてしまう。


「ふう。……こんなもんだろう。兄……グラントの確認がいるもの以外は終わり。二人ともありがとう」


乾いた声でまとめを告げるカイル。疲れているくせに、言葉にはきちんと労いの意が含まれていた。


「ん」


「はい」


俺とリシェが素直に返すと、カイルは「じゃあ……」とでも言うように一枚の書面を取り上げた。


「最後にもう一回だけ見ておくか」


目線は紙の上だが、声の調子は“ここで区切り”を告げていた。


「少し確認したら書斎を閉めるだけだから、二人とも帰っていいよ。おやすみ……?」


だが、俺もリシェも動かなかった。


カイルの視線が紙からゆっくり上がってくる。不審がる顔が、照明の下で少しだけ崩れた。


「本当にもうないぞ?」


聞かれて、俺は小さく肩をすくめる。気が抜けたというより、なぜか名残惜しかった。さっきまでただの手伝いだったはずなのに、三人で何かを片づけた時間が、妙に悪くなかった。


そんな空気を察したのか、リシェがそっとカイルの腕に手を添えた。


「休まないんですか?」


その声は穏やかで、どこか気遣いに満ちている。けれど同時に、確かに踏み込む意思があった。


カイルの手がわずかに震えた気がする。眉間がきゅっと寄って、一瞬だけ表情が読めなくなる。


……む。


胸の奥が、ちくりとした。


だが、これはこの程度で嫉妬などするまい。するまい、と思っていたのに、やっぱり少しだけうずいた。


「じゃあ、夜も遅いし。リシェリアは俺が部屋に送るとして……セランにはこの部屋の戸締りを頼むか」


カイルがあっさりと調子良く言い出した。真顔で、なんのてらいもなく。


「ふざけろ」


即座に返した。

この流れで従えるか。俺は犬じゃない。


「もう。三人で、帰りましょうよ」


その時だった。


リシェがやわらかく微笑んで、俺とカイルの手を両方取った。自分の指を絡めて、まるで何気ないことのように。


熱が、肌から伝わる。

俺は少しだけ息を止めた。


……今夜だけ。


許してやるか。

このぬくもりに身を任せて、俺たちは三人で書斎をあとにした。

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