湯煙に惑う男達
イェルス家の保養邸には、城館にも匹敵するほどの湯殿がある。
石造りの大浴場、香草の蒸気が満ちる浴槽、磨き上げられた銅の器具。
社交場としても用いられるため、湯上りの客をもてなすサロンまで完備されている。
雑務の途中だった。館に戻られたグラント様の洗濯物を抱え、洗い場に届ける使い走りをしていた。
明日以降の訪問先への連絡手配、近隣名士からの機嫌伺いの付け届けの処理などなど。グラント様付きの先輩従者に教えてもらいながら過ごしていたのだ。
――そんな場所の廊下で、俺は立ち止まった。
耳が勝手に音を拾った。
それが何なのか、理解した瞬間、呼吸が止まる。
「……!」
心臓が跳ね上がる。
廊下の静けさの中、柔らかく混じった吐息が確かに聞こえた。
湿った空気の奥から、馴染みすぎる声。
リシェ――。
思わず左右を見て、慌てて口を押える。
まさか。まさか、そんなはず。
「うん……んっ」
くぐもった声。息を混ぜるような響き。
全身が凍りつく。
声の主を知っている俺だからこそ、逃れようがなかった。
「だいぶ良くなってきたみたいね。ほら、こっち向いて」
あ、あ、相手はアスティか。
心臓が喉から落ちそうになって、胸の奥で跳ね返る。
よかった。よかったが……よくない!! それも破廉恥がすぎる!!
湿気を帯びた湯気が廊下に流れてくる。
混ざり合うのは香草の香りと、肌の熱。
濡れた素肌が触れ合う気配に、理性が危うく崩れ落ちる。
水音に混じって、布を絞る音がした。
湯桶を置く小さな音。香油の瓶を開ける乾いた音。侍女たちが低く交わす確認の声。
「……次はおみ足をほぐして参ります」
考えるまでもない。
貴人の湯浴みには、介助がつく。
身体を流し、髪を洗い、湯上がりには香油で肌や肩をほぐす。
リシェが何をされているのかなんて、冷静に考えれば按摩か手入れの類だとすぐわかる。
わかる。わかっている。
それなのに、声がだめだった。
「リシェリア。このツボが効くから。手を貸して」
「あ……すごく、気持ちいい。そこ。好き」
リシェの息が、湯気の向こうで震えていた。
耳が勝手に拾ってしまう。
熱の籠もった声の粒が、皮膚の内側まで刺さってくる。
「アスティわたしも。してあげるね。……どう?」
おそらく、相手の肩か腕にでも手を添えて、小首でも傾げて覗き込んでいそうな――
だめだ、考えるな!
目を閉じても、情景が浮かぶ。
頭が火照って、頬が焼けていく。
廊下に一人で立っているのに、体の芯がのぼせてしまいそうだ。
逃げよう。
今すぐ逃げないと。
後ずさった瞬間、背中が硬い何かにぶつかった。
振り返ると――グラント様。
しかも、無表情のまま耳を澄ましている。
「え、いいって……あ、ちょっ……まって」
アスティが珍しく狼狽えるような声。
……だめだ! これはもう聞いちゃいけないだろ!!
脳が悲鳴をあげているのに、足が動かない。
俺だけでも逃げようと身を引いたところを、グラント様が無言で腕をつかんで、羽交い締めにした。全力で抵抗したが、驚くほど重い。
……リカリオのおっさんと別種の強さを感じる。
いや、今はそんなことじゃない。
――あんた何やってんだよ!?
顔で全力で訴えた。眉も目も総動員で。
けれどグラント様は涼しい顔のまま、まるで戦況を見定めるように聞き耳を立てている。
そして――通りかかったカイルまで手招きした。
おい!? 何呼んでんだよ!?!?
「……」
カイルは、目の前の異様な光景を見て、一瞬だけ無言の硬直。
そうだよな。カイルは基本的に呼び止めても、すぐ止まってくれることは少ない。面倒を避けようという気質なんだろう。だから、きっと来ないはずだ。来るなよ。
次の瞬間、なぜか悟りの表情でこちらに歩み寄る。
くそ! こういう時だけ素直に来やがって!
「やだ。ふふ」
「そう、それでね」
湯殿の扉の向こうでは、女性ふたりの気配が重なり合っていく。
笑い声、囁き、艶のあるざわめき。
耳が熱くなって、視界が霞む。
俺の鼓動が鳴りすぎて、何を言っているのかも曖昧になっていく。
カイルは眉をひとつ動かし、真面目な顔で――まるで調査の一環みたいに耳を澄ます。
グラント様は腕を組み、音楽でも聴いているように楽しげに頷いている。
図太ぇ!!!
おかしい、この場の理性が俺ひとりしか残ってない。
でも――でも聞きたくない。
聞きたくないのに、耳が勝手に拾ってしまう。
リシェの声。
柔らかく、幸せそうで、時折くすぐったそうに笑っている。
それが、胸の奥でぐるぐると渦を巻く。
俺の知らないリシェの表情が、誰にも見せたくない声音が、今この向こうにある。
――いやだ。
誰にも聞かれたくない。
けど、俺だけは――俺だけは、聞きたい。
その矛盾が、全身を焼く。
湯気よりも熱い羞恥と嫉妬が、喉を塞いだ。
幸か不幸か。
いや、あれはもう――完全に、不幸だった。
カイルがもう一歩前に乗り出したその瞬間だった。
古い木材で組まれた床が、三人分の荷重に耐えかねて「ぎぃ」と低く呻いた。
湯殿前の廊下は、湯の熱気で微かに膨張していたのだろう。
張りつめていた空気のなかで、そのわずかな家鳴りはまるで爆音だった。
三人、固まった。顔を見合わせる。
――終わった。
俺とカイルが目を見開いたまま、グラント様を両脇から引っ張り、風のような素早さでその場を離脱した。
重い上着の裾を翻し、革靴の音をできるだけ忍ばせながら、まるで何事もなかったかのように――とにかくその場を離れた。
途中、俺たちの肩の中でグラント様が小さく笑っていた気がする。
笑いを堪えるように口元を歪めて、それでも顔は平静を保っていた。
「セラン、そこの部屋に身を隠すぞ」
カイルに指示されて逃げ込んだ先は、館の隅にあるシガールームだった。
奥まった場所にあり、重厚な扉が音を遮る設計。
淡い灯りが天井から垂れ、壁には洋書と葉巻が並ぶ。
背もたれの高い革張りの椅子と、磨かれた卓。
あれ?
いつの間にか主導関係が反転していた。
グラント様が俺たちを片手ずつ掴み、中へ押し込むようにして、最後に自ら扉を閉めた。
「俺はまだほとんど聞けてなかったのにな」
カイルはそう言いながら、ため息まじりに棚から酒器を取り出し、手早くグラスを三つ並べた。
「私もさほど違いはない」
グラント様も葉巻を選びながら惜しそうに言う。
葉巻に火をつける所作が、妙に優雅で緩やかだった。
最初から余裕があった人間の振る舞いだ。
「セランもそこへ座れ。だがなかなか楽しかった。……来た甲斐があるな」
「あ、は、はい」
グラント様に促され、俺は所在なさげに椅子に座った。
どうしていいかわからず、手も足も落ち着かず、膝の上で手を握ったりほどいたり。
この部屋の作法も、座り方も、飲み方もわからない。
ただ、グラント様の横顔は穏やかで、心なしか休日の顔をしていた。
ああ、この人も少しは休めてるんだと思ったら、少し気が抜けた。
葉巻を出してくれたけど、俺は小さく首を振った。
煙はどうも苦手だ。呼吸が浅くなるし、なにより鼻が利きすぎてむせる。
「そいつは良かった。まあ明日は本命の海があるから、せいぜい目をこらしてくれ」
窓辺に陣取ったカイルが、俺たちに酒杯を手渡してきた。高そうな器だった。縁が薄くて、金彩が入っていて。
「俺もいただいてしまっていいんですか」
小声で問うと、カイルは肩を竦めて、いつもの調子で答える。
「ま、今は勤務外だろ。完全な従者というわけじゃないんだ。公務や戦地での付人が主務なんだから」
それはわかっている。
それでも急には切り替えられない。
「今回セランは慣らしということで、館の者らにも客人扱いでいいと通達してある。気負いすぎる必要はない。振る舞い方はそのうち慣れるだろう」
グラント様も続けた。
ふたりとも、俺を追い詰めないように言葉を選んでくれているのが伝わった。
少し、嬉しい。
迎え入れられているように感じてしまう。
その直後だった。
なぜか唐突にグラント様が、さらっと爆弾を落とした。
「しかし、セランが聖女殿は女性と絡んでるのがあまりに艶めかしくて助けに入るのを躊躇ったと言っていただけあったな。……やはり絵師を手配するか」
「いや! そこまでは言って……」
顔が真っ赤になった。
そんなこと言ってねえ。ただ想定外の光景すぎて硬直しただけだ。勝手に誇張しないでくれ。
いや、確かに、そりゃ来るもんがないとは言わない。けど。
慌ててカイルに向かって否定したが、時すでに遅し。
「はぁ?」
くるりと首だけをこちらに回したカイルが、まるで怨霊でも見るような表情で俺を見据えてくる。
「卑劣極まりないな。軽蔑する。目に焼き付けるために、助ける手を緩めるなんてずるいじゃないか」
「おい、違うからな! ……あ? ずるいってなんだよ!?」
その目には粘着質な怒気が宿っていた。
「……なんか変な感じだな」
呟いてから気づく。
そうだ。
こういう感じ――妙に騒がしくて、くだらなくて、どうでもよくて笑えるやりとり。
ジェスや同僚の兵とバカやってるようなノリ。
最近、少なかった。
ずっと悩んで、焦って、怒って、嫉妬して、何もかもが空回りしてたから。
でも今は、酒と、煙と、夜風と。
なぜかグラント様とカイルと三人で、誰かを咎めるでもない時間を過ごしている。
「扉を開けてみたかったものだ」
グラント様が頷きながら想像に耽っている。
「俺も。見たい。聞きたい。さっきはしっかり聞こえなかったし。責任取ってセラン開けてこい。途中までは一緒に行ってやるから」
カイルのふて腐れが、いつもより数倍タチが悪い。
「アスティに殺されるだろうが!!」
叫んだ言葉は、まさに本音だった。
脳裏に蘇るのは――
かつて見た、アスティの怒気、そして威圧感。
あの女の怒声は、壁も時間も貫通して記憶に刻まれている。
一歩でも湯殿の扉に近づいたら、命はない。
その恐怖すら、今夜は妙に笑えて、三人の間に流れる空気は、どこか肩の力が抜けていた。
なんだかんだで。
上官と高位祭祀官と従士という妙な組み合わせのくせに、そこには叱責も命令もなかった。
あるのは、酒と煙と、くだらない悪巧みと、逃げ遅れた男たちの連帯だけ。
男三人の距離は、そうして少しだけ縮まった気がした。




