赤と黒の融和
セランとグラント兄にうまく足止めされて遅れはしたが、最初の予定通り、書斎に辿り着くことができた。
静かに持ち込まれていた仕事の書類箱を覗き込み、俺が触れそうなものを見分けていく。
祭祀庁関連は巻き取れる。
騎士団系はやめておこう。
領地経営のものも、ある程度は手伝えるな。
……うちと規模が違いすぎるのが興味深い。あとで過去の帳簿の数値も見せてもらおう。
なんだかんだ言って、こういう時間は胸が弾む。
前にもリシェリアが言っていたように、今の俺はきっと楽しそうな顔をしているんだろうな。
「あんたの口出しのせいで、セランがイェルス家に取られたじゃない」
空気を壊す声が入る。
アスティだ。
「……午睡するんじゃなかったかい?」
確かに俺の口出しだ。
それを責められると決まりが悪い。
わざとらしく話を逸らす。
「二人で行かせる方便に決まってるでしょ。それよりどうしてくれるのよ」
セランは結局、イェルス家の麾下を選んだ。
なんだかんだ言って、アスティはあの二人を相当可愛がっている。手元で守っておきたかった。
それが不服なのだろう。
「……確かに進言はした。旅も、召し抱えも。でも、受けるかどうかは本人の意思もあるだろう。拾ったからと言って、セランは君の飼い犬でもないんだから」
「そうだけど。……そんなことわかってるわよ。そうね。うちより、イェルス家の方が。……簡単よね」
アスティの責任感なのだろうか。声はなぜか悲壮な翳りを帯びた。
単純に、俺が進言して動かせるのはグラントくらいしかいない。使える一番大きい権力を使っただけ。
アスティに頼まなかった理由もある。
俺もグラントも一家の当主で、本人が決めれば何でも動かせる。だが、アスティはそうではない。
……メイスン家には女王のような方がいて、リシェリア達が想像しているほどには、アスティの権限は自由ではない。盤面を動かしたい時、先手を取りにくい。
だからグラントに頼んだ。
「悪かった。別に君を蔑ろにしたかったわけじゃない。……ただ、和解を急いでやりたかったんだ」
アスティの沈痛さに思わず本心が溢れた。さっきセランの前では誤魔化した本音だった。
「……うん。わかったわよ。まあ主家を選んだのは結局セランだから文句言うのはお門違いだったわ。……というか。グラントって、カイルにかなり融通するわよね。……何なの? 実は弱みでも握ってるの」
相手に利益を用意して気持ちよく答えてくれるように整然と手筈を整えているだけ。書類申請の手続きのようなものに近いと思っていたのだが……。
そう言われれば、そうか?
確かに割と耳を傾けてくれている気はする。
でも弱みなんてあっただろうか。
つい最近まで俺の方が避けて手紙すら読まなかった頃ですら、向こうは変わらぬ態度でいてくれたのだからな。
本心なんて知りようもない。
……ただ俺が可愛いだけかもしれないじゃないか。
だとしても、ひけらかすつもりもない。
「……そうだな。まあ、日頃の勤勉な態度と成果を正しく評価してくれているということだろう。アスティも真面目に勤めた方がいいと思うぞ」
アスティが日々、誰よりも真摯に勤めていることは、誰もが知っている。女だ、お飾りだと侮られないために奮闘していて、気が張り詰めていることも。
だから、あからさまな冗談にして、話をそこで終わらせた。
「蹴ってやるから、机から離れてそこに直りなさい」
怖。
「やめておこう。君は今、自分がスカートを履いていることを思い出したほうがいい。そろそろ彼らも戻る時間だろう。晩餐のために着替えたらどうだい?」
話を変えるために外へ目を凝らすと、ほのかな不安とは裏腹に、指定の時刻に二人が戻ってくるのが見えた。
庭先に先導の馬の足音が響き、門番が合図を送る。
夕暮れ前の穏やかな空。陽は少し傾き始めていて、館の壁を金色に染めていた。
外出のあいだ、少しずつ胸の奥に重く溜まっていたものが、音もなく解けていく感覚があった。
……杞憂で済んだようだ。
俺は触れていた書類を箱へ戻し、蓋を閉めた。アスティと目を合わせるまでもなく、二人で書斎を出て、階下の玄関広間へ向かった。
「私は午睡してたことになってるから、部屋に戻って着替えておく。動きやすいようにズボンにしておくわね」
アスティが微笑んで、遠回しに蹴撃予告を残して去った。
門の向こうから現れたセランは、出る前にあった微かな萎縮や気まずさをまとう様子がなくなっていた。
顔色が明るく、目には遠くの光を映している。
すっかり風通しの良い顔に戻っていた。
「……いい空気を吸ってきたようで、何よりだな」
俺は階段を降りながら、玄関口に現れたセランに声を掛けた。
皮肉にならないよう、言葉を選びながら声をかける。
本心からの言葉だった。
肩の力が抜けた顔の彼を見て、素直に思った。
ああ、これは立ち直りかけている顔だ。
ちゃんと、縁が結び直されてきたんだなと。
セランは馬の手綱を厩番に引き渡しながら、こちらを向く。
そのまま、リシェリアを先に下馬させて、俺の前に押し出すように誘導した。
俺が自然に手を伸ばして、彼女を迎え入れると――その横で、セランが口角を上げた。
目元には悪戯っぽさもありながら、どこか憑き物の落ちたような軽さがあった。
「ありがとう。お前の分も、幸せにするから安心しろよな」
一瞬だけ、反射で眉が動きかけた。
だが、不思議と腹は立たなかった。
前回の構図に似ている。
だけど根にある感情は全く様変わりしていた。
「抜かしてろ。お前のほうこそ、俺の施しで今ようやく公平になったところだ。せいぜい足掻くといい」
前回言われた言葉を、当てつけて返す。
「はは! そうか。じゃあそのまま油断しといてくれ。俺は追いつかれないように、先行っとく」
セランはそう言うと、まるで少しはしゃぐように、小走りで追い抜いて先に邸内に入ってしまった。
「おい……」
かつてならば、鼻につくように思えただろう。
だが今は、どこか憎めない。
不思議と嫌味というより、爽やかさが先に立った。
晴れ渡る青空のように、こちらの毒気を抜いてしまうような明るさを帯びていた。
……全身で“リシェリアとの時間”を吸い込んできたんだな、と伝わってくる。
俺とリシェリアが取り残された。
女性を置いて行くなよ。
……いや、色々と手を回した礼のつもりなのかもしれないが。
それにしたって。
気まずく目だけで見下ろすと、リシェリアの方はほんの少し頬をふくらませていた。
大げさな怒りではない。
セランの背を目で追いながら、唇からかすかに言葉が零れる。
「……どうしてそうなるの……全然、わからない……」
小さな呟きが、風に乗って俺の耳に届いた。
彼女の声は確かに戸惑っていたが、そこに切迫や悲壮の色はなかった。
むしろ、不可解なものを前にした少女のような、ややこしくて、でもきっと笑って受け流すような、そんな感情の温度。
何があったのかは、知らない。
けれど、またいつものように――あの二人らしく、戯れ合っていたのだろう。
俺はふと、かつて見たくないと思っていた光景を、今では自然と目にしていることに気づいた。
互いを信頼して、頼り合って、笑い合って、ふざけ合う彼と彼女の姿。
それを日常として受け止めている自分に、苦笑がこみ上げた。
「……ちゃんと話できた?」
「あ。はい! それはもう。……カイルって、ほんとうに優しい人ですよね」
「あれ、今まで気づかなかったのかい? 少し悲しいな」
「そうなんです。最初はとても意地悪なふりをされていましたから」
そう返されると、ぐうの音も出ない。
それを受け止められる程度には、俺自身も変わったということなのだろう。




