赤の刷新
強い陽射しの中、巡回を終えて戻ると、カイルとアスティに迎えられた。
「リシェリアとの散歩、頼んだわよ」
「近隣の見どころはここ、夕食前には戻れ」
ふたりの手際はまるで訓練のようで、こちらの思考を挟む隙もなく再び外へと送り出される。
ようするに『時間をやるから、きちんと切り替えろ』ってことだった。
謹慎が明けて、今日が初めてカイルやリシェと顔を合わせた日だった。
リシェとは話し合って和解したあとだったはずなのに。
頭では何もないと理解していたのに。胸の奥の、うまく言葉にできない部分がずっと重くて、俺自身の中に残っていた劣等感や罪悪感が勝手に膨らんで、それがリシェへの態度に、そしてカイルへの視線に滲み出ていたのだと思う。
なのに――
旅の前に言われていた。
イェルス家麾下に入り、さっそく旅の同道を命じられて荷支度をしていた時のこと。
「今回の一連の手配、カイルの発案だから。あんたは知っておきなさい」
戸口にアスティが立ってそう言い放った。
「旅も、召し抱えの件も」
「は……。え。何で」
「あんたら、謹慎前に会ったんでしょ? セランが随分しょげてたって、カイルが心配したのか探りにきたわよ」
「……」
会った。
また醜い言い争いをした記憶しかないのだが……。
思い返せば、あのとき――思っていた以上におかしかったのかもしれない。
そうか。そこまで見られていたんだな。
「もちろん、具体的にあんたらが何をやったかってのは知らせてないわよ。ちょっとリシェリアと揉めたって感じに言っといた。それ以外は知らない。……察しが良すぎて怖いんだけどね」
苦笑しながら、俺を気遣うように。
「あいつが、俺に便宜を……?」
なんだか、拍子抜けだった。
リシェを巡っての対立も、嫉妬も、すべて置いて、あいつは、何かを見抜いて、案じて、動いたっていうのか。
俺の中で膨らんでいた敵意が、急に形を失ってしぼんでいくのを感じた。
カイルにさえ、これほど大人として振る舞われてしまった。
反発や嫌悪なんかじゃなくて――ただただ、自分の小ささに気づいて、情けなくなった。
「あんたら似てないようで、吸ったり噛んだり……変なとこ似てるのよね。実は、気が合うんじゃない」
は?
「ちょっと待て、吸うって、何だよ」
「あ」
アスティにしては、本当に珍しく『口が滑った』という顔をして狼狽していた。
――振り返ると、今そのアスティとカイルが並んで何か話しながら館の玄関から邸内に戻っていくのが見えた。
まだ気を使ってもらってる。
また支えてもらっている。
せめてすっかり切り替えて、立ち直らないと。
「……よう、リシェ。なんかまた久しぶりになっちゃったよな。いくか」
俺は少しだけ気恥ずかしさを押し込めて、声をかけた。
「うん。案内して」
リシェはすぐに笑ってくれた。
馬に乗せ、俺もその後ろに乗る。
説明を交えながら、風景を見せていく。
相乗りなんて、本当に久しぶりだ。
小さな背中。
細い肩。
あたたかい体温。
夏の午後の風が、胸の奥まで吹き抜けていくようだった。
ふいに、彼女が振り返り、遠ざかっていく館の屋根を見上げた。
その視線の先には、きっとカイルがいる。
「カイル、変わることにしたみたいだね」
言葉は穏やかで、それでいて確信を持っていた。
まだ進行形だと、そうリシェは判断した。
“変わった”ではなく“変わる途中”。
「そうだな。偉いと思う」
頷いた。
嘘じゃない。
あの頑固で、誇り高い男が、あんなふうに振る舞えたのだから。
……じゃあ、俺は?
ああ。
俺だって、今からでも、変わっていいんじゃないか。
もういらない存在かもしれないけど。
何者でもないかもしれないけど。
それでも、変わっていいって、思ってもいいんだろうか。
リシェが変わるように、カイルが変わろうとしているように――俺も、一緒に変わりたい。
今度は間違えないように。
――そう思っただけで、なんだか、胸がいっぱいになった。
そのあたりに人影がないことを確認して、俺はリシェの耳に顔を近づけた。
誰にも聞かれたくない、俺の弱音を打ち明けるために。
「リシェ。俺も変わりたい。癪だけど、あいつを見習って頑張るから……応援してくれ」
声が少し震えたのは、情けなさと、それでも前を向ける気がしたせいだ。
少し泣きそうになっていた。
俺はリシェのせいにしていた。
俺がこれだけ尽くしたんだから。
リシェのせいで、俺も人生を浪費したんだから。
それに見合う見返りがあるはずだと傲慢に勝手に思っていた。
リシェを普通の女の子にしてやりたいと思っていた一方で、リシェが誰より輝く特別な存在だということをどこかで誇っていた。
その特別な人の、特別でありたかった。
そうじゃないかもしれないことに耐えきれなかった。
だけど。
もうリシェのせいにして苦しんだり、喚いたり、そういうのはやめよう。
心に決めた。
間違えても、悔やまないように生きよう。
きっとそれができれば、どんなに死にたくなることがあっても、リシェの前では――どうにか繕っていける。
……俺だって、同じ人間なんだからできるはずだ。
「もちろん」
リシェは、俺が何に悩んでいたかなんて知らないはずだ。
それでも、何も問わず、優しく抱き返してくれた。
「セラン、おかえり」
ただいま。
胸の中だけで答えた。
胸のつかえが降りた途端、視界にあるものすべてが妙に鮮やかに見えた。
久しぶりの屋外。
久しぶりのリシェ。
久しぶりの、二人きり。
風の流れまで、どこか懐かしくて優しくて――まるで世界の色がひとつ増えたようだった。
はーぁ。
こんなに間近にいる。
謹慎中、会いたくて会いたくてたまらなかった俺のリシェが……今、ちゃんとここにいる。
夏用の軽い生地のドレス。
普段より少しだけ抜け感のあるお嬢様風。
髪は珍しく後ろでまとめ、横にさらりと流していて、大人びて見えた。
陽に透ける薄布から伝わる肌の温度が、いつもより距離を縮めてくる。
息を吸うたびに、その近さが胸を刺す。
久しぶりに会うと、こんなに感動するのか。
あの日の帰りはあれほど気まずかったのに、馬上というだけでここまで自然に寄り添えることも――嬉しかった。
心って、不思議だ。
田園の道を馬で進みながら、リシェと道外れの祠に寄って祈りを捧げる。
少し坂を上って、海が見える崖まで行く。
浜へ下りる道の手前で馬を降り、手綱を木陰へ引いて景色を見まわす。
かもめを追ったり、崖からそっと巣を覗き込んだり、「明日は何するんだろうね?」なんて他愛のない話を交わす。
胸の奥が緩む。
普通の会話が、こんなにも心を温かくしてくれるものか。
「謹慎中、たまに遠くに見かけてたけど、話せなくて寂しかった」
リシェリアがふっと微笑んでくれた。
「会えて嬉しい」
「俺も。会いたかった」
自然に出た言葉だった。
手綱を握る手に、力がこもってしまう。
会うと嬉しい、会えないと寂しい。俺がかつて国境で語った言葉だ。今、それをリシェが同じように思ったと、返してくれている。
なんてことない言葉なのに、甘く響く。
……なんか、甘やかしてくれてるな?
「怒られて謹慎だったんだってね。門限破らせて、ごめん」
心配そうに眉を寄せる。
そうか、リシェなりの罪悪感からなのかもしれない。
「いいんだ。あの日は俺が悪かったから」
あの日にまつわる全部を、ひとつの言葉でまとめて飲み込む。
もう蒸し返す必要もない。
「ま、これからはよく会えるようになるぞ。なんたってグラント様の従士だから。公務でもそれなりに一緒になる」
わざと明るく笑って、安心させた。
「失敗してたら、ばっちり見えるから気をつけろよ」
「セランこそ! 裾、踏まないでよね」
リシェが頬をふくらませて、顔をしかめた。
こんな風に気軽な会話が、やっと戻ってきた。
「……と、そろそろ帰る時間だ。ほら、馬に乗りな」
手を差し出した、その時だった。
リシェが俺の袖をちょん、と掴んだ。
「……ね、ねぇ。久しぶりだから、今日はまあ、別にちょっとくらい。……“充填”してもいい……けど?」
息が止まりそうになった。
「!?!」
少しだけ、気恥ずかしそうに、俺の顔を上目遣いで覗いてきた。
青い瞳が、射抜くようにまっすぐ。
……は!?
理性が、一瞬真っ白になる。
甘やかしにしても、程があるだろ。俺の理性を殺す気なんだろうか?
幸い、謹慎期間で干からびたのか、あの暗い獣は静かにしている。
とはいえ、本能が全力で理性を壊し始めている。目を覚ましかねない。
確かに、問題にされたことの中に、口づけそのものは含まれていない。
アスティが言及したのも場所に関することで、城内や庭を使うなとは言われたけれども……行為自体を咎められたわけではなかった。
リシェがされて嫌がってなかったなんて、あの時アスティから聞けて安心したし。
でももう、あの日にまだ恋人じゃないことをお互い認識した。
反省もした。
だから、改めて恋人になるまではしないつもりしかなかったのに。
なのにリシェから許可が出た。
どういうことだよ。
……まさかとは思うが。
リシェは、あれを。
家族や親しい人へは許される類の……親愛の挨拶のひとつとでも――勘違いしていないか?
いや、思ってるくさいな。
じゃあ……いいか、しても?
したい。
したくないわけない。
全身で求めている。
ここは城内でも公共の場でもなく、私有地だ。
王都ですらない。人目もない。
……鳥くらいしか。
あれは俺が早合点から、勝手に求めた行為で、リシェが“恋の仕草”だと知らずに受け入れているのなら。
禁止された行為じゃなくても、……するのは誠実じゃない。
……やっぱり違う。
それに、これは。
わかってる。
俺を簡単に堕とす毒だ。
深みがあって、抜け出せなくなる依存だ。
あの引き摺り倒されるような恍惚に自分を見失うのが怖い。
……今、飲むべきじゃない提案だ。
どうやってやり過ごすか――と考えていたら、
「セラン?」
動かない俺に、リシェが怪訝そうに顔を近づけてきた。
伏せた睫毛が震え、恥ずかしそうに見上げてくる。
あぁ。
俺のリシェ。
可愛いがすぎる。
どうにかなりそうだ。
どう考えても、相思相愛だよな。
本人だけがよくわかってないみたいだが、その無自覚さがまた、俺を野生に戻しそうに誘ってくる。
したい。
したいしたいしたい。
生まれ変わるのは、明日からでいいか。
いいだろ?
だってリシェがしてもいいって……。
……。
……。
いや、ダメだ。
せめて、リシェからしてくるくらいじゃないのなら、してはだめだ。
……リシェからしてくれてもいい。
してくれ。
「なんでもない」
消えろ邪念。
ないまぜな気持ちを悟られないように、そして自分の決断を鈍らせないように、そう答えて、頭を振った。
抱擁くらいは、大丈夫だ。
俺は馬の陰にリシェを抱き寄せた。
指が震える。
髪をなでつけるだけで胸がざわつく。
抱きしめただけで、体温が跳ね上がる。
危ない。
油断したらむしゃぶりつきたくなる。
……だから、ひとまず――時間稼ぎに、リシェリアの頭に顎を置いた。
「ちょっと! 重いよもう」
あごの下でリシェが笑って震えた。
身じろぐたびに懐かしい匂いがする。
「しないの? 帰る?」
「いや、まてって」
鼻孔をくすぐる、あの甘くて柔らかい香り。
久しぶりすぎて、吸うだけで体の奥が震える。
……まずい。
これだけで、十分に危ない。
……ん? いや、これでいいな。
いい着想ができた。
それを実行に移すため、深呼吸して気持ちを落ち着ける。
とりあえず“挨拶”の範囲で、頬に口づけ――
……を、通り越し、耳の後ろあたりで止める。
ちゃんと聞こえるように、わざとらしく。
リシェの近くで思いきり空気を吸った。
すぅーーーーー……
「!?!!」
リシェリアがびくりと跳ねた。
「え、なに!? なに!?」
「吸ってる」
俺は言い放った。
口が滑ったアスティから聞き出した、カイルがやっている『吸う』というやつだ。
あの時は一瞬で、沸騰しそうに不快を感じたが、冷静に考えれば触ってないしな。
許容範囲ではある。ギリギリ攻めてきやがって、あの野郎。
だが今は褒めてやろう。
そして俺にとっても、いい落としどころだ。
「え……嫌! それ苦手なの! やめて!」
言葉の意味より、反射的に身体が離れる。
ばっと俺から逃れるリシェの仕草。
その顔には、不快というよりも、ただひたすら意味がわからないことへの戸惑いが浮かんでいる。
「ねえ、なんでそういうことするの!?」
……はは。喚いてる。可愛い。
よく考えたら、昔っからリシェの匂いは嗅いでいる。
そもそも俺の鼻にかかれば、わざわざ嗅ぐ動作をする必要なんてない。
子供の遊びに等しいくらいの他愛ないじゃれ合いだ。
「だはははは。俺もしばらくこれがいいなって」
「何が!? どうしてそうなるの!?」
笑いとともに、自然と口から漏れる。
あの、甘くて恐ろしい空気。
俺を獣に戻してしまうような、沼の入口みたいな引力。
それに呑まれかけたけど――
今は切り替えられる。
また、この距離に近づける幸せ。
こうして、彼女の隣に戻れた幸せ。
もう、十分だ。
明日もまた、同じ景色を隣で見られたらいい。
そう思いながら、俺はそっとリシェの背に手を添え、帰路へ向かった。




