黒の刷新
休みの最初の午後だった。
真昼の陽はまだ高く、白い石造りの邸宅は夏の光を眩しく照り返していた。
アスティとリシェリアを伴い、俺は館内を案内することになった。数度は訪れたことのある邸だから、主だった場所は覚えている。
まず向かったのは、東棟の礼拝室だった。
湿気を抑える香が焚かれた簡素な石造りの部屋で、壁には円環と、花と水の文様が刻まれている。窓は高く、小さい。昼の光は届いているのに、石壁の奥には古い影が沈んでいた。
「初めて来たけど、少し威圧感があるわよね」
イェルス家の礼拝室は、祈りの場にしては確かに少し重い。長い年月のうちに、表向きの栄光と、その暗がりの両方を吸い込んできたような静けさがある。
聖堂というより、家そのものの喉奥にある小部屋に思えた。
「まあ……イェルス家は歴史が長いからな」
それだけ答えて、俺は手短に祭祀の次第を述べた。
アスティはそれ以上踏み込まなかった。彼女も、こういう場所の沈黙には慣れている。
リシェリアが静かに祈る。
声はほとんど聞こえない。けれど、彼女が祈ると、部屋の空気が柔らかく、深く、透明になる。
それまで石の隙間に沈んでいた古い影まで、少しだけ薄まるようだった。
やはり――聖女だな。
そう思うたび、胸の奥が少し静かになる。彼女を一人の女性として見ている自分がいる一方で、こうして祈る姿を前にすると、そこには手を伸ばしきれない神聖があった。
隣でアスティが、ほんのわずかに息を吐いた。
リシェリアが無事にそこに立っていることを確かめるような、静かな呼吸だった。
簡略な儀式を終えたあと、俺たちは館内のサンルームへ移動して、午後の茶を楽しむことになった。
南向きの大きな窓から陽射しが惜しみなく入り、白いタイルの床を明るく照らしている。レースのカーテンは時おり風に揺れ、花台には土地の花がいくつも飾られていた。甘い香りが茶の匂いと混ざり、時間そのものが少しゆるんでいくようだった。
庭では、リシェリアが庭師としゃがみ込んで談笑している。
王都では見かけない葉の形をした植物に興味を示し、指先でそっと触れていた。白い夏服の裾が土に触れそうになっても、彼女はあまり気にしていない。庭師の説明に頷きながら、葉脈の形を確かめるように指を滑らせる横顔には、城の中で見る聖女の静けさより、もっと幼く、もっと素直な好奇心が浮かんでいた。
その様子を、アスティと俺は椅子に座って眺めていた。
「静かな時間、調度品、庭園の美観、快適な温度、美しい聖女……。うん、いい休みね」
頬杖をつきながら、アスティがぽつりと呟く。その表情は、いつもの張り詰めた士官の顔ではなかった。肩の力が抜け、まつ毛が伏せられ、声にもわずかな眠気に似た柔らかさがある。年若い娘のような、素直な言葉だった。
「あんたも顔だけは良いしね」
アスティの……いや、メイスン家の業は知っている。隣領同士で、父たちも友人だったから、幼い頃はそれなりに出入りがあった。アスティの父上であるイングラム様に連れられたメイスン家兄妹が、我が母や姉に会えると目を輝かせていたのを覚えている。
「それは良かった。好きに眺めていてくれ」
俺も気の抜けた声で応じた。
あの頃は知らなかったが、今は知っている。俺の顔も当然、その鑑賞対象なのだろう。
好きに眺めていろとは言ったものの、今まさに鑑賞されているかもしれないと思うと、急に気まずさが増した。
涼菓を一口、口に運ぶ。優雅さを保つ気が急に失せて、雑に噛み砕いて呑み込んでしまう。
「ちょっと! 所作が汚いと見るに堪えない。台無しにしないで」
……やはり見られていたか。
飲み下したあと、すぐに次の提案を思いついた。口にすれば、この妙な居心地の悪さも少しは逸れる。
「そうだ。この後、セランが戻ったら、夕食までリシェリアを渡して邸の周りでも散策させようと思う。敷地内なら安全だろう。……まあ、アスティはついていってもいかなくてもいい」
言いながら、自分自身が思ったほど焦っていないことに気づいた。
以前なら、こんな提案をするだけで胸の奥がざらついたはずだ。リシェリアをセランへ渡す。それだけで焦燥が湧いた。何か理由をつけて引き止めようとしたかもしれない。だが今は違った。戦略も打算もある。けれど、それだけではない。二人の間に残ったわだかまりをほどく場を作りたいという気持ちも、確かにあった。
「あら、ずいぶん余裕ね」
アスティは俺をちらと横目で見ながら、使用人に二杯目の茶を注がせた。湯気が立ち上り、花と茶葉の香りがふわりと広がった。
「うん? そうだな。焦るの、やめたよ。結局いつまでも後追いだしな。それに、リシェリアにはいろいろ段階が必要だ……まあ、俺も」
アスティは少しだけ驚いたように目を細めた。見直すような、どこか慈母めいた眼差しだった。そういう目で見られると、少し腹立たしい。だが、以前ならその腹立たしさをすぐ言葉にしていただろう。今はそこまでの棘が出ない。
「ふーん? どういう心境の変化?」
「……ただ近すぎて、目が眩んでいたんだ。今も満開の花よりリシェリアのほうが愛らしいな、とか心から感動しているし、この想いに変わりはない。そのへんを聞きたいのならいくらでも語るが」
「結構よ」
アスティは鼻先で笑って、そのまま話を流した。
俺は自分の言葉を噛みしめるように、庭のリシェリアへ視線を戻す。花の傍にしゃがみ込む彼女は、確かに絵のように美しかった。けれど今は、その美しさへ急いで手を伸ばさなくてもいい気がした。
「冷静になって考えたら、最終的に隣に座ってもらうから、焦る必要はないと気が付いた。将来いつでも膝の上の至近距離で愛でられる。それなら今しかできない遠目を、焼き付けておくのもいいと思えたんだ」
恋の楽しみ方を変えた、というか、勝ち筋の取り方を変えた。
最後に勝てばいい。
それがすべてだ。
「俺とリシェリアの組み合わせは美男美女で、君のお眼鏡に叶うだろ。応援してくれるなら、生涯、間近で鑑賞する許可を差し上げるが」
「いらないって。見たきゃ勝手に見るし」
せっかくの提案を、またしてもアスティに切られる。
……いや、勝手に見ないでくれ。
そう思いながら、軽く笑って茶を飲み干したとき、遠くで蹄の音が聞こえた。
セランが戻ったのだ。
蹄の音に、庭先のリシェリアが顔を上げる。庭師の言葉に返事をするより早く、視線が門の方へ向かった。その動きがあまりに正直で、俺は思わず茶器を置く手を止める。
胸が痛むかと思った。
だが、予想していたほどではない。
彼女の視線が赤い髪を探すことを、俺はもう知っている。知ってなお、目を逸らさずにいられるようになった。そう思うと、少しだけ自分が進歩したような気さえした。
俺はアスティへ目配せを送る。
「戻ってきたみたいだな。リシェリア、迎えに行こう」
今回の休みには、もう一つの目的がある。セランとのわだかまりをほぐすこと。
アスティにも、その意図は先ほど伝えてある。だから彼女も、俺の提案に乗ってくれていた。
「じゃあ、リシェリア。セランとちょっと散歩に行ってきて」
アスティは使用人が持ってきた帽子をリシェリアに被せながら、その背を押して、玄関に立つセランの方へ向かわせた。セランはそれを見て、数瞬、瞬いた。
「え? あれ、お二人は?」
「私はちょっと午睡する。久しぶりにゆっくりできるしね。カイルは何かすることあるみたいよ」
わざとらしく眠そうなそぶりをしながら、アスティはそのまま、馬の手綱を握ったままのセランへ近づいていく。
俺はそれを見て、リシェリアに顔を寄せ、耳打ちした。
「グラントとアスティに逢瀬の時間を捻出したいから、俺はグラントの仕事をこっそり手伝っておきたいんだ。だけどさっきもセランに邪魔されてさ。客人に仕事をさせるなと厳命されているらしい。だから君にはセランを引きつけておいて欲しい」
彼女の視線は、俺の言葉を聞きながらも、どうしても玄関先の赤い髪へ戻っていく。戸惑いながら、俺とセランの間を行き来していた。
それでもリシェリアは、たぶん俺の意図に気づいてくれた。
こちらを褒めるような、ひどく優しい笑みを向けてくれる。
「はい。お任せください。……ありがとうございます」
その笑みに、胸の奥が少し温かくなる。リシェリアは優しい。
だから俺の嘘にも、建前にも、その奥の善意を探そうとしてくれる。
いつかその優しさに甘えすぎないようにしなければならないと思いながら、俺はセランへ荘園敷地内の見どころを指示し、帰る時間だけ指定した。
広大ではあるが、ここはイェルス家の敷地内だ。管理は行き届いている。大きな治安の問題はない。せいぜい鳥獣程度だが、何かあってもセランなら対応できる。今の二人を送り出すには、一番安心できる機会でもあった。
セランは一言も返さなかったが、彼は彼でアスティから計画を説明されたのだろう。
俺に目だけで礼を言うように会釈して、リシェリアの手を取り、馬の傍へ向かった。
先に彼女を乗せ、それから自分も軽く鐙を踏む。少しだけ急いたような手際で、二人は屋敷の門を出ていった。
その後ろ姿を、俺は黙って見送った。
――少しだけ、胸が疼いた。
なぜか、もう永遠に会えないかもしれない錯覚だった。
馬の背に乗って去る二人の後ろ姿は、かつてアーレンス領を襲った水害の夜の記憶と重なった。雷雨が凄まじい最中、屋敷を出ていった家族の最後の姿。あれが二度と戻らないものになるなど、あの時の俺は知らなかった。あれが、俺にとっての別れの象徴なのだ。
今のこれは違う。
敷地内の散策で、帰る時間も決めている。誰かを失う場面ではない。けれど、馬の背で遠ざかる二人の影は、どうしても胸の奥の古い傷へ触れてきた。
俺は焼き付けるように、二人の影が見えなくなるまで目を離さなかった。
それから、静かに邸内へと戻った。




