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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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赤と黒の対話

休暇とはいえ、領主であるグラントは、到着早々、領地内の簡単な巡視に出た。

「晩餐の前までは邸内で自由に過ごしていてくれ」と言い残して。


それが、実質的に“俺たちの自由時間”ということになる。

……まあ、セランがいるなら、女性二人の護衛兼相手は任せておけるだろう。


俺は少しでも仕事を減らしておいてやるか。

領主が戻った時にすぐに片づけられるよう、書面の整理くらいは済ませておこう。


荷を部屋に置き、涼しげな廊下を抜けて書斎に向かう。

扉の前に差しかかると、ちょうど向こうから誰かが現れた。


セランだ。


光沢を抑えた紺の上衣に、落ち着いた革の靴。

いかにもグラント好みの仕立てを纏っていた。

普段よりいくぶん洗練されて見える。

なるほど――従士としての見栄えを心得ている。


「随分整えられたな。このくらいなら見られなくもない」


無意識にそんな批評が口から漏れた。


「お疲れ。悪いが令嬢二人の相手は頼む。俺は仕事があるので晩餐まで外す」


軽く言い置いて、すれ違おうとする。

別に、仲良くするつもりはない。

これまでのこともあるし、わざわざ踏み込む理由もない。

だが、セランは俺の言葉を遮るように一歩踏み出した。


「いや、待ってくれ」


低く、静かな声。


「グラント様から、カイルが仕事しそうだったら止めるように命を受けているんだ」


「……何?」


なんとまあ、余計な策士め。

和解したと思ったら、今度は気遣いの名を借りた監視役か。

腹の探り合いも再開とは、実に趣がある。


しかも、完全に先手を取られている。

旅にも有無を言わさず連れてこられたし、やはり策謀は、グラント兄にはまだまだ敵わないものだな。……抜け目がない。


どうしたものか。


こちらが言葉を継ぐより早く、セランが続けた。


「それに、悪いけど俺も出るので、こちらこそ二人のことを頼みたいんだ。グラント様の御領地とはいえ、俺には新しい土地だし、一通り見回って、気をつける範囲を把握しておきたい」


もっともな話だ。警備を兼ねた見回り。

職務でもある納得せざるを得ない。


つまり、残されるのは俺と令嬢方だけになる。

……なるほど。

代理の主人役を押しつけられたわけか。


「ああ、承知ひた。そういうことなら請け負おう。こちらからもお願いする、よろしくな」


口調も自然に戻る。

リシェリアが絡まない限り、俺たちは普通に話せるのだ。


……いや。

思い返せば、最初から俺が勝手に喧嘩を売っていただけか。

熱くなりすぎていた。

今さらながら、羞恥のような息苦しさが胸に広がる。

冷静に考えれば、セランは少なくとも任務や庭に対してはずっと実直で、俺が勝手に敵に仕立てていただけなのかもしれない。


……今後は気をつけよう。


さて、と気を取り直して、ひとまず部屋に書類を置いてから、応接室か客室を覗くか――そう思って踵を返したその時だった。


まだこちらを見ている視線に気づく。

振り向くと、セランが立ち止まったまま、じっと俺を見ていた。

その眼差しは言葉を選んでいるようで、妙に静かだ。


「……まだ何かあるのか?」


「いや、その。……従士への取り立てとか、休暇とか。全般、手を回してくれたと聞いた」


セランは言いにくそうに眉を寄せ、しかしまっすぐにこちらを見た。

陽光に赤い髪が照らされている。夏の午後の光の中で、その色はどこか焦げつくような赤銅に見えた。

目を伏せることも、照れを誤魔化すこともない。

素朴すぎて、かえって真っ直ぐ刺さる。


――ははん。


礼を言いたくてわざわざ待っていたのか。

律儀というか、やっぱり犬だな。

恩を嗅ぎ取って、きちんと首を垂れるあたり、まさしく本能的。

それは美徳であるが……なんとなく素直に受け取りたくなかった。


「何のことだかわからないな。即ち礼を言われる筋合いもない。お前の抱える事情など知らないし、お前のためでもない」


嘘ではない。

この旅の段取りも、彼の復帰も、すべて“リシェリアのため”の一手だ。

彼女を取り巻く空気をほぐすために、最も有効な駒を動かしただけ。

俺はいつだって理屈で動く。

感情で手を出したことは、一度もない――と、自分に言い聞かせる。


「それでも礼をしたいのなら」


言葉を継ぎながら、口調を少しだけ和らげた。


「リシェリアとわだかまりなく過ごせ。……そうでないなら、徹底的に嫌われてくれ。そのほうが、助かる」


激励と、ほんの少しの本音。

あの二人の間に中途半端な曖昧さが残るのが一番厄介だ。どうせなら、いっそ決裂してくれたほうが――俺は楽になる。

そんな黒い冗談を胸の内で苦く噛みつぶす。


セランは、しばらく俺を見つめていた。

まるで言葉の意味を測るように。

そして次の瞬間、目を丸くして――吹き出した。


「ぶはははは!」


予想外に大きな笑い声。

屋敷の回廊に響くほどの声で、腹を抱えて笑っている。

背中を丸め、涙でも滲ませて。

その無防備さに、こっちが面食らう。


やっぱり、品がない。

だが、それが少しだけ羨ましい。

笑えるほどまっすぐで、曇りを抱えてなお、声に出して笑える。


「本っ当にぶれないよな、あんた! はー……あー、笑った」


彼は息を整えながら肩をすくめた。


「じゃ、ありがとな。また夕食で」


軽い足取りで、赤い影が廊下の先に遠ざかっていく。

一歩ごとに、陽の光が髪に反射して揺れた。


その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。

――不思議なことに、胸のどこかが少しだけ軽くなっていた。

長く張りつめていた見えない壁が、ほんのひび割れ程度には崩れたのかもしれない。


リシェリアを任せるのが平気になったわけではない。

けれど、任せられない男ではないのだと、ようやく認める気になった。


今度こそ。

お互い、歩き始める。


俺は踵を返し、書斎とは反対の方へ歩き出した。

まずは、待たせている二人を退屈させないことからだ。

代理の主人役など柄ではないが、押しつけられた以上、最低限は務めるしかない。

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