赤と黒の対話
休暇とはいえ、領主であるグラントは、到着早々、領地内の簡単な巡視に出た。
「晩餐の前までは邸内で自由に過ごしていてくれ」と言い残して。
それが、実質的に“俺たちの自由時間”ということになる。
……まあ、セランがいるなら、女性二人の護衛兼相手は任せておけるだろう。
俺は少しでも仕事を減らしておいてやるか。
領主が戻った時にすぐに片づけられるよう、書面の整理くらいは済ませておこう。
荷を部屋に置き、涼しげな廊下を抜けて書斎に向かう。
扉の前に差しかかると、ちょうど向こうから誰かが現れた。
セランだ。
光沢を抑えた紺の上衣に、落ち着いた革の靴。
いかにもグラント好みの仕立てを纏っていた。
普段よりいくぶん洗練されて見える。
なるほど――従士としての見栄えを心得ている。
「随分整えられたな。このくらいなら見られなくもない」
無意識にそんな批評が口から漏れた。
「お疲れ。悪いが令嬢二人の相手は頼む。俺は仕事があるので晩餐まで外す」
軽く言い置いて、すれ違おうとする。
別に、仲良くするつもりはない。
これまでのこともあるし、わざわざ踏み込む理由もない。
だが、セランは俺の言葉を遮るように一歩踏み出した。
「いや、待ってくれ」
低く、静かな声。
「グラント様から、カイルが仕事しそうだったら止めるように命を受けているんだ」
「……何?」
なんとまあ、余計な策士め。
和解したと思ったら、今度は気遣いの名を借りた監視役か。
腹の探り合いも再開とは、実に趣がある。
しかも、完全に先手を取られている。
旅にも有無を言わさず連れてこられたし、やはり策謀は、グラント兄にはまだまだ敵わないものだな。……抜け目がない。
どうしたものか。
こちらが言葉を継ぐより早く、セランが続けた。
「それに、悪いけど俺も出るので、こちらこそ二人のことを頼みたいんだ。グラント様の御領地とはいえ、俺には新しい土地だし、一通り見回って、気をつける範囲を把握しておきたい」
もっともな話だ。警備を兼ねた見回り。
職務でもある納得せざるを得ない。
つまり、残されるのは俺と令嬢方だけになる。
……なるほど。
代理の主人役を押しつけられたわけか。
「ああ、承知ひた。そういうことなら請け負おう。こちらからもお願いする、よろしくな」
口調も自然に戻る。
リシェリアが絡まない限り、俺たちは普通に話せるのだ。
……いや。
思い返せば、最初から俺が勝手に喧嘩を売っていただけか。
熱くなりすぎていた。
今さらながら、羞恥のような息苦しさが胸に広がる。
冷静に考えれば、セランは少なくとも任務や庭に対してはずっと実直で、俺が勝手に敵に仕立てていただけなのかもしれない。
……今後は気をつけよう。
さて、と気を取り直して、ひとまず部屋に書類を置いてから、応接室か客室を覗くか――そう思って踵を返したその時だった。
まだこちらを見ている視線に気づく。
振り向くと、セランが立ち止まったまま、じっと俺を見ていた。
その眼差しは言葉を選んでいるようで、妙に静かだ。
「……まだ何かあるのか?」
「いや、その。……従士への取り立てとか、休暇とか。全般、手を回してくれたと聞いた」
セランは言いにくそうに眉を寄せ、しかしまっすぐにこちらを見た。
陽光に赤い髪が照らされている。夏の午後の光の中で、その色はどこか焦げつくような赤銅に見えた。
目を伏せることも、照れを誤魔化すこともない。
素朴すぎて、かえって真っ直ぐ刺さる。
――ははん。
礼を言いたくてわざわざ待っていたのか。
律儀というか、やっぱり犬だな。
恩を嗅ぎ取って、きちんと首を垂れるあたり、まさしく本能的。
それは美徳であるが……なんとなく素直に受け取りたくなかった。
「何のことだかわからないな。即ち礼を言われる筋合いもない。お前の抱える事情など知らないし、お前のためでもない」
嘘ではない。
この旅の段取りも、彼の復帰も、すべて“リシェリアのため”の一手だ。
彼女を取り巻く空気をほぐすために、最も有効な駒を動かしただけ。
俺はいつだって理屈で動く。
感情で手を出したことは、一度もない――と、自分に言い聞かせる。
「それでも礼をしたいのなら」
言葉を継ぎながら、口調を少しだけ和らげた。
「リシェリアとわだかまりなく過ごせ。……そうでないなら、徹底的に嫌われてくれ。そのほうが、助かる」
激励と、ほんの少しの本音。
あの二人の間に中途半端な曖昧さが残るのが一番厄介だ。どうせなら、いっそ決裂してくれたほうが――俺は楽になる。
そんな黒い冗談を胸の内で苦く噛みつぶす。
セランは、しばらく俺を見つめていた。
まるで言葉の意味を測るように。
そして次の瞬間、目を丸くして――吹き出した。
「ぶはははは!」
予想外に大きな笑い声。
屋敷の回廊に響くほどの声で、腹を抱えて笑っている。
背中を丸め、涙でも滲ませて。
その無防備さに、こっちが面食らう。
やっぱり、品がない。
だが、それが少しだけ羨ましい。
笑えるほどまっすぐで、曇りを抱えてなお、声に出して笑える。
「本っ当にぶれないよな、あんた! はー……あー、笑った」
彼は息を整えながら肩をすくめた。
「じゃ、ありがとな。また夕食で」
軽い足取りで、赤い影が廊下の先に遠ざかっていく。
一歩ごとに、陽の光が髪に反射して揺れた。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。
――不思議なことに、胸のどこかが少しだけ軽くなっていた。
長く張りつめていた見えない壁が、ほんのひび割れ程度には崩れたのかもしれない。
リシェリアを任せるのが平気になったわけではない。
けれど、任せられない男ではないのだと、ようやく認める気になった。
今度こそ。
お互い、歩き始める。
俺は踵を返し、書斎とは反対の方へ歩き出した。
まずは、待たせている二人を退屈させないことからだ。
代理の主人役など柄ではないが、押しつけられた以上、最低限は務めるしかない。




