夏の入り口
きつい夏の日差しの中、大きな荘園の前に馬車がとまった。
空は白く焼け、蝉の声が遠くでけたたましく鳴いている。ここは、イェルス領にあるグラント兄の別邸――普段から避暑に使われる歴史ある保養邸で、貴族らしい瀟洒さと、長い年月に磨かれた落ち着きがあった。
高い石垣の向こうには葡萄棚が続き、硝子飾りのように房が揺れる。夏草の匂いが濃く、土の香ばしい熱気が足元から立ちのぼってくる。
「……格好つけたんだけどな」
馬車を降りながら、思わず苦笑した。
留守番は俺に任せて楽しんでおいで、なんてリシェリアに笑って、グラント兄のために祭祀庁の調整に奔走して、いかにも物分かりのいい男の顔をしていたはずなのに。
その結果がこれだ。
グラント兄に首根っこを掴まれ、俺はこうしてイェルス領の避暑邸まで連れてこられている。
いつもの黒衣を脱ぎ、今日は明るい灰青の軽衣をまとっている。日差しを吸わないよう薄手の麻で、胸元を少し開けて風を通す。
涼しげな装いを意識したのに、額にはもう汗がにじんでいた。
――結局、どんな服を着ても中身は“カイル・ラス・アーレンス”なのだ。
涼やかな男にはなりきれない。
「あんな殊勝なことを書かれて、大事な弟分をおいてはいけぬさ」
軽やかな声。
グラント兄が後ろから降り立ち、陽光の中で肩を軽く回した。
鎧を脱いだ獅子のような男だ。夏の光を浴びても気品を崩さず、白い麻の上衣を着ているだけで周囲の空気が変わる。
「その代わり結局、業務を持ち込んでるじゃないか」
少し皮肉を混ぜて言うと、彼は涼しい顔で笑う。
「夜に寝酒でも飲みながら軽くやればすぐ終わる。お前が手伝ってくれるんだろ」
まるで親戚の兄弟のようなやりとり。
彼に対して敬語を忘れられるのは、ほんの数人の特権だろう。
「そういう約束だからね」
俺も肩をすくめて返す。
仕事の顔は、とりあえず城に置いてきた。
視線の先――
次の馬車の扉が開く。
淡い布のカーテンを押し分けて現れたのは、柔らかく光を纏った彼女だった。
リシェリア。
白百合のような色の夏服。透ける袖口から、手首の細さがこぼれる。
彼女の頬には旅路の疲れではなく、陽の下の花のような血色が宿っていた。
その微笑みがこちらに向けられるだけで、空気が変わる。
「カイルも来られて良かったですね」
その一言が、日陰の冷水のように心に沁みた。
ああ、良かったと思ってくれている――それだけで、この旅は報われる気がする。
だがその感傷を、アスティの鋭い声が遮る。
「リシェリアにも感謝しなさいよ。他の祭祀官への割り振りと、あんたの分を調整してくれたんだから」
笑みを浮かべながらも、彼女の言葉には労りと警戒が同居している。
姉のように、彼女はいつも俺の行動を見張っている。
「だって。カイルが一番おやすみが必要じゃないですか?」
リシェリアが続けて言った。
やわらかな声音。優しい。
それがかえって胸に刺さる。
休みなんて――欲を言えば、彼女と二人だけで過ごせる時間なら、どんな場所でもいい。
だが今回は違う。
俺は裏方で来た。
そう決めていた。
恋を隠して、表情を整え、深く息を吐く。
いつもの“祭祀官の仮面”を被り直す。
「アスティ、リシェリア、長旅お疲れ様。お二人ともご不便はなかったでしょうか」
言葉を整えながら、馬車の傍へ進む。
「……リシェリア、その夏服、素敵だね。グラント兄、どうぞ」
ほんの一言。
でもそれ以上は、言葉にすれば崩れる気がして。
手を差し出し、彼女をエスコートして、すぐにその手をグラント兄へと渡した。
ほんの数秒。
彼女の体温が、指先に残る。
その温もりを手放すとき、心の奥で何かが音を立てて沈んだ。
アスティが、少し口角を上げて言う。
「やればできるじゃない」
「やればできるさ……どうぞ」
照れ隠しに笑って、俺は貴婦人に手を差し出す。
アスティも今日は士官服ではなく、軽やかなスカート姿だ。
女らしい装いに見慣れていないせいで、ほんのわずか目を奪われる。
「ま、あなたが転ばせたらリシェリアが悲しむでしょうしね」
「そんなこと、するもんか」
軽口を交わすと、アスティは涼しい笑みを浮かべ、俺の腕にそっと手を添えた。
柔らかい感触。
けれど俺の意識は、もう別の方角を見ている。
石畳の先で、グラント兄がリシェリアに日傘を差し出していた。
その光景は、誰が見ても美しく、正しい。
俺の胸の中に残るのは、熱と、ほんの少しの痛みだけだった。
グラント兄に依頼した通り、セランも旅に随伴している。
彼は出立の直前、正式にイェルス家、グラント付きの従士となったらしい。
謹慎明けという扱いからして、即座に従騎士待遇ではなく、控えめな立場での復帰――それでも、異例の早さだ。
グラント兄の計らいだろう。あの男は情に厚いが、情を見せないまま恩を売るのが上手い。
セランは馬車に同乗せず、従者として馬で追走していた。
陽光を受けて赤い髪が揺れる。
一度抜けた立場に戻るのは、さぞ複雑な気分だったろうが、黙々と任務を果たしていた。
館に着くと、他の従士たちに指示を出して馬を降り、御者から荷を受け取った。荷物を持ち、汗を拭いもせず黙って館内へと運び入れるその背中に、妙な静けさがあった。
俺たちの輪にも加わらず、完全に“働き手”としての顔をしている。
リシェリアは、その姿をずっと目で追っていた。
口にこそ出さないが、気にかかって仕方がないという目だ。
セランの方も気づいていないはずがないのに、荷を運ぶ手を止めない。仕事という名の壁を、自分の前に置いているようにも見えた。
玄関前では、館の管理人らしき老爺が、到着の挨拶もそこそこに薄い書付をグラント兄へ差し出している。グラント兄はリシェリアのために日傘を傾けたまま、それを一瞥して、ほんのわずかに目を細めた。休暇とはいえ、領主は領主だ。土地に足を踏み入れた瞬間から、彼の背にはまた別の責務が乗る。
荷の中には、祭祀庁から持ち出した書類箱がひとつ混じっていた。休暇に似つかわしくない角張った箱を見て、俺は内心だけで小さく息を吐く。
……結構な分量持ち込んでいるな。
なら、晩餐までに少し目を通しておけば、夜の作業を効率化出来るな。
荷を運び終えたセランに、グラント兄が何か短く告げるのが見えた。セランは一度だけこちらへ視線を向け、それから無言で頷く。何を命じられたのかは聞こえなかったが、すでに主従の呼吸はずいぶん馴染んでいるようだった。セランは一度だけこちらへ視線を向け、それから荷を見回すと、無言で頷く。妙に息が合っているようにも見えて、少しだけ嫌な予感がした。
――まだ、話してはいないんだろうな。
セランは謹慎が明けてすぐ、この旅に同行することになったはずだ。
リシェリアとまともに顔を合わせるのは、ここが初めてになると、先ほど馬車内でグラント兄から聞いたばかりだった。
二人の間に、どんな沈黙と思いが流れているのか。
気にはなる。
だが、俺の口を挟むことではない。




