聖女の空白
最近、空白が多い。
心の中にも、時間の中にも。
庭に、私以外の人が来ない日が増えた。
風の通る音だけが聞こえる。
いつもなら、誰かの足音や笑い声が混ざるはずなのに。
セランは――また来なくなってしまってしばらくたつ。
謹慎、……この間、門限破りが問題になってしまったらしい。
噛み傷が見えるところにあったのも、良くなかった。
かすり傷だけど、私は自分を治せないから、医務官を通さないわけにはいかなくて、隠せなかった。
噛んだのが蛇か栗鼠か、それともセランかなんて、私の中では大きな違いではなかった。けれど、怪我をしてしまうこと自体は、護衛であるセランの責任になってしまうのだと、私は忘れていた。
全部がセランのせいじゃないのにな。
たぶん、うまく話せなかったり泣いたりしてしまった、私のせいもある。
朝露が残る芝の上に、ひとりで立つと、陽光の粒が細かく跳ねるのに、申し訳なくて、心の中は凍ったままでいる。
あ。セラン。
たまに、廊下の向こうや回廊の先に赤い髪がちらりと見えることがある。
でも、すぐに姿が消える。
まるで同じ世界にいないみたいだ。
会えたのに、寂しい。
……会えたとは言えないか。見えただけ。
今は、仕事以外しちゃいけない決まりだから。
言葉を交わすことも、出来ない。
もちろん、様子もわからなかった遠征の時よりずっといいけれど。
……また、セランも寂しがってないといいけど。
国境の時も、私の方が寂しかったと思っていたのに、その後はセランの方がずっと、ぐずって甘えてきてた。
思い出して、心配なのに少し笑ってしまう。
カイルも、最近は忙しそうだ。
もちろん、日常の公務では顔を合わせている。
けれど少し前のように、冗談を交えたり、ふざけて距離を詰めたりするようなことは鳴りを潜めた。
恋の熱を帯びたあの空気――あれがもう、ずいぶん静かになったように感じる。
「結局、あまり庭も手伝えなくて、申し訳ない」
カイルは机の上の書類を整理しながら言った。
淡い陽が彼の髪にかかり、灰の色が銀に見える。
「今度、君はアスティと、イェルス領保養地に休暇に行くことになっただろう? ……ちょっと事前の執務調整が必要でね。君にしかできないことを先にやっておいてもらうために、今まとめているところなんだ。まあ、留守番は俺に任せて楽しんでおいで」
「カイルも、ご一緒なのかと思っていました。そうなんですね」
言ってから、胸の奥に小さな空洞ができた。
勝手にそう思い込んでいただけなのに、違うと知ると、少しだけ庭の風が冷たくなる。
そう返すと、彼は一瞬だけ微笑んだ。
その笑顔は、静かな春の風のようで――もう、胸が苦しそうな雰囲気はなかった。
「うん。その代わり、一緒の休みの時にでも、ゆっくり話を聞かせてほしい。楽しみにしているから」
今までだったら、きっと彼は私の手を握ろうとした。
それで、『禁止じゃなかったでしたっけ』って私は言ってあげる。
次にカイルが、わざとらしく『そうだった』と手を止める。
制止されるのがわかっているのに、触れてもいないのに、顔だけはもう手に触れた時みたいに照れていたりして……
でもそれもない。
「……分かりました。何かお土産探してきますね」
軽く笑って、そう言った。
彼の視線が、私を包み込む。
優しくて、温かくて、まるでちょうどいい温度の毛布のようだった。
息がしやすい。
昔よりもずっと。
カイルの苦しそうな顔も、もうほとんど見ない。
もしかしたら――カイルは、私への恋をやめてくれた、のかもしれない。
それが少し、安心で。
それでいて、ほんの少しだけ、カイルが遠く感じた。
ジェスは、数日に一度は顔を見せてくれる。
けれどそれも業務の合間で、長くは話せない。
少し負担をかけているし、疲れを隠して笑う彼に、今はあんまり無理はさせたくなかった。
アスティも、グラント様も、それぞれ忙しくしている。
誰も間違っていない。
皆、それぞれの場所で懸命に生きている。
だから、私だけが取り残されたように感じるのは――ただの、わがままなのかもしれない。
私の日常が、空白だ。
音のない頁のように、静まり返っている。
だから、あんな不思議な夢を見たのかもしれない。
あの時。私は夜に浮かんでいた。
夢なのかな。
夢、だよね。
風の流れが衣を撫でていた。
見上げれば、月があまりにも近い。
まるで手を伸ばせば触れそうなほど、白く大きく息づいている。
私がいたのは――大樹の梢。
いつのまに知覚の目を開いていたのか、
実在の枝葉のほかに、淡く光る枝がいくつも重なり、夜の闇の中に星屑のような光を灯していた。
それは揺れながらも静かで、まるでこの場所そのものが呼吸しているみたいだった。
高すぎて、見慣れた鳥も栗鼠も、ここまでは来ないだろうな。
生き物の気配が少なくて、ただ風と光と私だけ。
孤独なのに、不思議と怖くはなかった。
「ふふ……こんなところに登ったの、初めて……わぁ」
枝の外を覗くと、果てのない景色が広がっていた。
塔の頂から見下ろすより、ずっと高い。
空気が冷たいのに、頬が熱い。
街の方を見れば、夜更けでもまだらに光が灯っている。
夜警の松明、不寝番のランプ。
遠くの繁華街のほうでは、祭りの名残のように光が瞬いていた。
まるで人々が夢の中でまだ笑っているみたいだ。
城内を振り返ると、そこは静寂の海。
回廊には巡回の灯りが点々と揺れ、窓の奥に、夜勤の明かりがちらほら。
「セランの部屋はどの辺なんだろ……」
ぽつりと呟く。
そういえばこの城内で、兵舎は行ったことがない。
最近はセランに会えていない。
この時間なら寝ているだろうけど、寝顔なら会ったことにならないよね。
……だから、こっそり見に行っちゃおうか、なんて。
自分の思考に、思わず笑ってしまった。
「カイルはまだ仕事していたりして……」
窓の外から顔を出して、驚かせたらどんな顔をするだろう。
――ああ、楽しい夢。
いつもこんな夢ならいいのに。
私は枝葉の上を歩いた。
緑の海に波紋が広がるように、足元の光がゆらめく。
枝の一本一本が私の呼吸に合わせて揺れ、まるで世界が私の歩みに付き添ってくれているようだった。
どこまで続くのか知りたくて、走って、笑って、転んで、見渡す限りの枝の海に寝転がった。
空が近い。
月が見下ろして、私の胸の鼓動を照らす。
「誰かいればいいのに」
ひとり言が、風に攫われて消える。
見上げると銀の月光が枝葉にこぼれて、その反射が幾重にも揺れていた。
まるで無数のシャンデリアが天に吊られているようで、綺麗で、静かで――涙が出そうだった。
ううん。シャンデリアだけじゃない。
見上げた空そのものが、肉眼では見えなかった霊質の枝に支えられていて、どこか硝子の天蓋みたいに見えた。
丸く、透きとおって、月と星を外側に抱えながら、この大きな大きな梢を覆っている。
まるで空を支えている、透明な殻。
その下に、緑の海と、光の枝と、息をする葉がすべて閉じ込められている。
大きな大きな植物園。
ううん、硝子の器に閉じ込められた、小さな世界。
……テラリウム。
いつもは私が外から覗き込んでいるはずの、あの小世界。
苔や葉や、湿った土と小さな命を入れた硝子の器。
その中に、自分が入り込んでしまったような錯覚を覚えた。
手を伸ばせば、空の硝子に触れられそうだった。
けれど触れた瞬間に、この夢も、この光も、全部ひび割れてしまいそうで。
私はただ、息をひそめて、月明かりに満ちた緑の底に横たわっていた。
「……大樹は、少しは治ったのかな」
枝の間からのぞく葉は、瑞々しく光っている。
こんなに元気そうなのに。
毎回、傷んだ場所を癒しても、次に見に来る時にはまた小さな“死”がくっついている。
私は癒しを与えても、与えても、ほんの少しずつ、何かが擦り切れていく。
カイルが教えてくれたことを思い出す。
「言葉にすると、思考が整理される」
悩みも、不思議も、名前を与えれば怖くなくなる。
だから今、ひとりでも、言葉を編んでみた。
「大樹も疲れちゃってるんじゃない?
千年もずっと頑張ってるなら、ちょっとは休みたいよね」
ほんの少し、そう思っただけ。
休みたい。
眠りたい。
何も実らせず、何も支えず、ただ終わりたいと思うことも、あるのだろうか。
「……大樹は……死んじゃいたいの?」
その瞬間、風が変わった。
光の枝葉がざわめき、緑の粒が宙に舞い上がる。
空気が震え、私の足元がほどけるように揺れる。
光の蔓が生きているように伸び、私の手を掴んだ。
目が、眩む。
白が弾け、音が消えた。
否定なのか、肯定なのか。
大樹の声は、どちらにも聞こえた。
――視界が白んで、気づけば朝。
寝台の上で、私は息を吸った。
胸がまだ早鐘を打っている。
夏の朝日が窓から差し込んで、部屋を金色に染めていた。
「リシェリア様、起きてらっしゃるのですね。おはようございます。……あら、昨晩は風が強かったんですね」
サフィアの声。
窓の外の露台には、大樹の葉が何枚も吹き込んでいた。
そして、床の上――
外から帰ってきたかのように、濡れた裸足の足跡が、窓の方から寝台へと続いていた。
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