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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
24章 夏の前奏
284/362

聖女の空白

最近、空白が多い。

心の中にも、時間の中にも。


庭に、私以外の人が来ない日が増えた。

風の通る音だけが聞こえる。

いつもなら、誰かの足音や笑い声が混ざるはずなのに。


セランは――また来なくなってしまってしばらくたつ。

謹慎、……この間、門限破りが問題になってしまったらしい。

噛み傷が見えるところにあったのも、良くなかった。

かすり傷だけど、私は自分を治せないから、医務官を通さないわけにはいかなくて、隠せなかった。


噛んだのが蛇か栗鼠か、それともセランかなんて、私の中では大きな違いではなかった。けれど、怪我をしてしまうこと自体は、護衛であるセランの責任になってしまうのだと、私は忘れていた。


全部がセランのせいじゃないのにな。

たぶん、うまく話せなかったり泣いたりしてしまった、私のせいもある。


朝露が残る芝の上に、ひとりで立つと、陽光の粒が細かく跳ねるのに、申し訳なくて、心の中は凍ったままでいる。


あ。セラン。


たまに、廊下の向こうや回廊の先に赤い髪がちらりと見えることがある。

でも、すぐに姿が消える。

まるで同じ世界にいないみたいだ。


会えたのに、寂しい。

……会えたとは言えないか。見えただけ。


今は、仕事以外しちゃいけない決まりだから。

言葉を交わすことも、出来ない。

もちろん、様子もわからなかった遠征の時よりずっといいけれど。


……また、セランも寂しがってないといいけど。


国境の時も、私の方が寂しかったと思っていたのに、その後はセランの方がずっと、ぐずって甘えてきてた。

思い出して、心配なのに少し笑ってしまう。


カイルも、最近は忙しそうだ。

もちろん、日常の公務では顔を合わせている。

けれど少し前のように、冗談を交えたり、ふざけて距離を詰めたりするようなことは鳴りを潜めた。

恋の熱を帯びたあの空気――あれがもう、ずいぶん静かになったように感じる。


「結局、あまり庭も手伝えなくて、申し訳ない」

 

カイルは机の上の書類を整理しながら言った。

淡い陽が彼の髪にかかり、灰の色が銀に見える。


「今度、君はアスティと、イェルス領保養地に休暇に行くことになっただろう? ……ちょっと事前の執務調整が必要でね。君にしかできないことを先にやっておいてもらうために、今まとめているところなんだ。まあ、留守番は俺に任せて楽しんでおいで」


「カイルも、ご一緒なのかと思っていました。そうなんですね」


言ってから、胸の奥に小さな空洞ができた。

勝手にそう思い込んでいただけなのに、違うと知ると、少しだけ庭の風が冷たくなる。


そう返すと、彼は一瞬だけ微笑んだ。

その笑顔は、静かな春の風のようで――もう、胸が苦しそうな雰囲気はなかった。


「うん。その代わり、一緒の休みの時にでも、ゆっくり話を聞かせてほしい。楽しみにしているから」


今までだったら、きっと彼は私の手を握ろうとした。

それで、『禁止じゃなかったでしたっけ』って私は言ってあげる。

次にカイルが、わざとらしく『そうだった』と手を止める。

制止されるのがわかっているのに、触れてもいないのに、顔だけはもう手に触れた時みたいに照れていたりして……


でもそれもない。


「……分かりました。何かお土産探してきますね」


軽く笑って、そう言った。

彼の視線が、私を包み込む。

優しくて、温かくて、まるでちょうどいい温度の毛布のようだった。


息がしやすい。

昔よりもずっと。

カイルの苦しそうな顔も、もうほとんど見ない。

もしかしたら――カイルは、私への恋をやめてくれた、のかもしれない。

 

それが少し、安心で。

それでいて、ほんの少しだけ、カイルが遠く感じた。


ジェスは、数日に一度は顔を見せてくれる。

けれどそれも業務の合間で、長くは話せない。

少し負担をかけているし、疲れを隠して笑う彼に、今はあんまり無理はさせたくなかった。


アスティも、グラント様も、それぞれ忙しくしている。

誰も間違っていない。

皆、それぞれの場所で懸命に生きている。


だから、私だけが取り残されたように感じるのは――ただの、わがままなのかもしれない。


私の日常が、空白だ。

音のない頁のように、静まり返っている。


だから、あんな不思議な夢を見たのかもしれない。


あの時。私は夜に浮かんでいた。


夢なのかな。


夢、だよね。


風の流れが衣を撫でていた。

見上げれば、月があまりにも近い。

まるで手を伸ばせば触れそうなほど、白く大きく息づいている。


私がいたのは――大樹の梢。

いつのまに知覚の目を開いていたのか、

実在の枝葉のほかに、淡く光る枝がいくつも重なり、夜の闇の中に星屑のような光を灯していた。

それは揺れながらも静かで、まるでこの場所そのものが呼吸しているみたいだった。


高すぎて、見慣れた鳥も栗鼠も、ここまでは来ないだろうな。

生き物の気配が少なくて、ただ風と光と私だけ。

孤独なのに、不思議と怖くはなかった。


「ふふ……こんなところに登ったの、初めて……わぁ」


枝の外を覗くと、果てのない景色が広がっていた。

塔の頂から見下ろすより、ずっと高い。

空気が冷たいのに、頬が熱い。


街の方を見れば、夜更けでもまだらに光が灯っている。

夜警の松明、不寝番のランプ。

遠くの繁華街のほうでは、祭りの名残のように光が瞬いていた。

まるで人々が夢の中でまだ笑っているみたいだ。


城内を振り返ると、そこは静寂の海。

回廊には巡回の灯りが点々と揺れ、窓の奥に、夜勤の明かりがちらほら。


「セランの部屋はどの辺なんだろ……」

 

ぽつりと呟く。

そういえばこの城内で、兵舎は行ったことがない。

最近はセランに会えていない。

この時間なら寝ているだろうけど、寝顔なら会ったことにならないよね。


……だから、こっそり見に行っちゃおうか、なんて。


自分の思考に、思わず笑ってしまった。

 

「カイルはまだ仕事していたりして……」

 

窓の外から顔を出して、驚かせたらどんな顔をするだろう。


――ああ、楽しい夢。

いつもこんな夢ならいいのに。


私は枝葉の上を歩いた。

緑の海に波紋が広がるように、足元の光がゆらめく。

枝の一本一本が私の呼吸に合わせて揺れ、まるで世界が私の歩みに付き添ってくれているようだった。


どこまで続くのか知りたくて、走って、笑って、転んで、見渡す限りの枝の海に寝転がった。

空が近い。

月が見下ろして、私の胸の鼓動を照らす。


「誰かいればいいのに」


ひとり言が、風に攫われて消える。

見上げると銀の月光が枝葉にこぼれて、その反射が幾重にも揺れていた。

まるで無数のシャンデリアが天に吊られているようで、綺麗で、静かで――涙が出そうだった。


ううん。シャンデリアだけじゃない。

見上げた空そのものが、肉眼では見えなかった霊質の枝に支えられていて、どこか硝子の天蓋みたいに見えた。

丸く、透きとおって、月と星を外側に抱えながら、この大きな大きな梢を覆っている。

まるで空を支えている、透明な殻。

その下に、緑の海と、光の枝と、息をする葉がすべて閉じ込められている。


大きな大きな植物園。

ううん、硝子の器に閉じ込められた、小さな世界。

……テラリウム。


いつもは私が外から覗き込んでいるはずの、あの小世界。

苔や葉や、湿った土と小さな命を入れた硝子の器。

その中に、自分が入り込んでしまったような錯覚を覚えた。


手を伸ばせば、空の硝子に触れられそうだった。

けれど触れた瞬間に、この夢も、この光も、全部ひび割れてしまいそうで。

私はただ、息をひそめて、月明かりに満ちた緑の底に横たわっていた。


「……大樹は、少しは治ったのかな」


枝の間からのぞく葉は、瑞々しく光っている。

こんなに元気そうなのに。

毎回、傷んだ場所を癒しても、次に見に来る時にはまた小さな“死”がくっついている。

私は癒しを与えても、与えても、ほんの少しずつ、何かが擦り切れていく。


カイルが教えてくれたことを思い出す。

「言葉にすると、思考が整理される」

悩みも、不思議も、名前を与えれば怖くなくなる。

だから今、ひとりでも、言葉を編んでみた。


「大樹も疲れちゃってるんじゃない?

千年もずっと頑張ってるなら、ちょっとは休みたいよね」


ほんの少し、そう思っただけ。


休みたい。

眠りたい。

何も実らせず、何も支えず、ただ終わりたいと思うことも、あるのだろうか。


「……大樹は……死んじゃいたいの?」


その瞬間、風が変わった。

光の枝葉がざわめき、緑の粒が宙に舞い上がる。

空気が震え、私の足元がほどけるように揺れる。

光の蔓が生きているように伸び、私の手を掴んだ。


目が、眩む。

白が弾け、音が消えた。

否定なのか、肯定なのか。

大樹の声は、どちらにも聞こえた。


――視界が白んで、気づけば朝。


寝台の上で、私は息を吸った。

胸がまだ早鐘を打っている。


夏の朝日が窓から差し込んで、部屋を金色に染めていた。


「リシェリア様、起きてらっしゃるのですね。おはようございます。……あら、昨晩は風が強かったんですね」


サフィアの声。

窓の外の露台には、大樹の葉が何枚も吹き込んでいた。

そして、床の上――

外から帰ってきたかのように、濡れた裸足の足跡が、窓の方から寝台へと続いていた。


活動報告を更新しました


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8/8~15の期間、夏休みの為 不定期更新予定です。

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