公女の避難先
食事を終えた瞬間、息を継ぐように席を立った。
もう一刻もあの空気の中にいたくなかった。
重く冷たい視線を背に、礼を形だけ整えて、馬車に乗り込む。
別邸へ。
そこは私にとって、やっと呼吸ができる場所だった。
本邸から少し離れた森の外れ。
元々は狩猟や避暑のために設けられた季節の館を、手を入れて年間通して居られる住まいにしてあった。
外には小川が流れ、風が通り抜ける音が心地よい。
鳥の声、木の葉のそよぎ、陽の匂い。
この静けさに包まれると、ようやく体の緊張が解けていく。
母はここを嫌っている。
数年前、リシェリアたちの保護と教育のために、二年ほどここに住まわせた。
その時の“平民の香り”が染みついていると、露骨に顔を背けた。
おかげで、母はもう寄りつかない。
それは、私にはこの上ない幸運だった。
「はああ……疲れた……来月こそは何か口実を見つけておかないと……」
ソファに腰を下ろし、胸元のリボンをゆるめる。
首筋に残る緊張がようやく溶けていく。
卓上に積まれた招待状の束を手に取る。
どれもこれも、母がねじ込んできた“社交”という名の義務だ。
封蝋を剥がすたび、溜息が深くなる。
「うわ……誰もかれも『ぜひ聖女もご同伴で』って。リシェリア狙いじゃない。あれ……これ、ノード公って……ネーヴェリアの貴族じゃないの」
ノード公。
そう呼ばれてはいるが、ノード領は以前の領主の名がそのまま残った土地で、現在の領主は後に拝領したアドラー家だ。
我が領に半分ほど隣接する、ネーヴェリアの国境領。
かの領主ランバルト・アドラー辺境伯は、降誕祭にも参列していたはずだ。
カイルが、リシェリアを三人の息子の誰かと縁づけようとしていたと憤慨していたことを覚えている。
まったく、どいつもこいつも。
聖女を招けば王家に取り入る足がかりになると思っている。
聖女は人の心を癒すけど、社交界の病までは癒せない。
そんなことを思っていたら、背後から軽い声がした。
「アスティ、来ていたのか。……ああ、今日は昼餐の日か」
「イオ兄様。何でいてくれないのよ」
イオラント――兄。
今日のあの地獄の食事会に不在だったのは、用事ではなく、ただ“忘れていたことにしておいた”らしい。
さすがだ。そういう図太さ、嫌いじゃない。
「『おっと、忘れていたな』で済ませた方が楽だろう? 理由を作れば、そちらを動かせと言われるんだからね。どうせ御母上は毎回同じことを繰り返すだけだ」
淡々とした声。
母を切り捨てるようでいて、どこか穏やかでもある。
兄はもう、母を超えてしまっている。
父よりも冷静で、私よりも聡明で、母よりも遥かに“人間”だ。
「ひどい。可愛い妹が集中砲火だったのよ」
冗談めかして言ってみせると、兄は肩を竦めて笑った。
私も、兄も、互いに踏み込まない。
その距離が心地よい。
兄は家督を継ぎ、私は王国軍と聖女の側にいる。
互いに干渉せず、協力し合う――それで十分だ。
「可愛い? この部屋で見目麗しいのは侍女たちだけのようだが」
兄の視線が、部屋に控える侍女たちを一巡した。
確かに、私は美しいものが好きで、自分の目の保養になる者ばかりを集めている。
その嗜好は兄の前では周知の事実だ。
「リシェリア嬢が来ていたのなら、呼ばれなくても守りにいったのに」
調子のいいことを言って笑う。
昔からこうだ。何でも軽く言って人の反応を楽しむ。
「鍛えた私の鋼の手刀を味わいたいのね」
わざと口を尖らせると、兄は屈託なく笑った。
「ははは、許せ」
父も兄も、結局似たようなところがある。
美しいものを好み、美しい人を愛でる。おそらくメイスン家の人間たちは、私を含めてみな綺麗なものに弱い。
――母も、その”美しさ”で父を捕らえたのだろう。
今ではもう、母の顔は憎しみに歪んで美しかった面影すら失っているが。
「大体、リシェリアと一回りは違うのだから、鼻の下を伸ばすのはご遠慮いただける?」
「何を言ってるんだ? 別に交際を申し込むわけでなし。……婚約者のイェルス公だって、私とそう変わらないじゃないか。それに美しい花を愛でるのに歳は関係ないだろう? 君なんか同性だけど?」
「……そういえばそうね。失礼」
つい苦笑する。
兄の飄々とした言葉には敵わない。
「どちらかといえば、婚約をよくあの猟犬が許したと思うよ」
「ああ見えて、セランも慣れると、意外と人懐こいの。イオ兄様と初めて会わせた時から随分丸くなったわよ」
その時の光景がふと脳裏に浮かぶ。
まだ少年の面影を残したセランが、リシェリアの傍を離れまいとするように、私たちを睨んでいた。
まるで大切な巣を守る獣のように。
――それが今では。
ふたりはもう、貴族の前にも出られるようになった。
最初に会った時は栄養状態も悪く、年齢よりも心も体も幼かった。
それが、痩せていた肩も今では逞しく、見違えるほどだ。
つい先日、リシェリアに倫理を説いたことも、セランを叱咤したことも、確かに記憶に新しい。
まだ拙いところは沢山あるけれど、それは向かい合って対等に話せるほどに、彼らが成長した証でもある。
「……まったく、年月って怖いわね」
思わず漏らした呟きに、兄は目を細めて微笑んだ。
彼の眼差しには、あの頃と同じ、少しの優しさと諦念が滲んでいた。
「そんなことより、イオ兄様こそ、成人そこそこの聖女を思い出すより、そろそろ見合う年の奥様を迎えられてはいかが?」
こんな地獄のような家庭に育ったからか、兄も私も婚姻というものに積極的になれていない。私はどうせ政略に使われる身分であるし構わないが、兄は違う。昔、兄自身に似たようなことを聞いた時には、自分は養子であるし、自身もそのうち養子をとればいいと言っていた。
それでも、もし愛する相手がいるのなら。
我が家の犠牲になった兄を支える相手がいればいいのにと、つい聞いてしまった。
「ははは。まだ売れ残ってもいない男より、自分を心配したほうがいい。秋にある君の生誕祭は、例年より招待客が多く選ばれているようだよ。母の眼鏡にかなう貴公子が何人も呼ばれているぞ。侍女長が張り切って君の衣装を手配すると言っていた」
「げえ」
聞かなければ良かった。忘れていた。すでに押し付けられた社交もあるのに、生誕祭も見世物のような予定が組まれているとは。
聞きたくなかった。
聞いてしまった。
「ははは。その顔でいればみんな逃げ出すぞ」
「お兄様、酷い」
笑っていられるのは、この別邸の中だけだ。
だが、卓の上にはまだ、母が勝手に受けた招待状の束が残っている。
秋になれば、私はまた、あの白い食卓とは別の場所で、母の王国の駒として引きずり出される。
とりあえずは、忘れよう。
もうすぐグラントから招待を受けた休暇が控えている。
なんとなく、誰かさんの企みは読めているけれども、完全にしがらみから外れる時間というのは抗いがたい誘惑がある。
何より、あそこには美味しい葡萄酒の産地がある。
久しぶりに色々忘れて寛げそうだと思えば……案外、楽しみなのだ。
ランバルト・アドラーは ep.97 聖女に絡みつく喧騒 に登場した外交大使です。




