王冠なき母の国
メイスン家本邸、アスティの家庭の事情
初夏の陽光が白い外壁を照らしていた。
久しぶりに戻ったメイスン領の本邸は、いつもより静かに感じられる。
月に一度の義務的な昼餐――今月は逃げる口実を作れず、仕方なく帰ってきた。
食堂には銀器が触れ合う乾いた音だけが響く。
高窓から射し込む光は澄んでいて、白いクロスの上に整然と並ぶ皿の縁を細く輝かせていた。
給仕たちは必要最低限の所作を終えると、母の一瞥で壁際へ退いていた。声を潜める必要はない。ここでは、聞いてはならない言葉を聞かなかったことにするのも、使用人の仕事だった。
卓の端と端。
向かい合っているのは、私と、母クラウディア・メイスン。親王家の女当主。
この家には父もいる。
母の配偶者として、メイスンの名を帯びる男が。
けれど、この家の中心は常に母だった。父はあくまでその影にあり、母の意志を遮ることはない。
この家は、最初から母の王国だった。
その父は、今日は領内視察という名目で不在。
次期メイスン家当主である兄イオラントも、本来なら席に着いているべき日だった。だが、彼の席には料理だけが置かれている。本人は来ていない。理由すら告げられていない。
父は名目を整えて逃げ、兄は名目すら整えずに逃げた。
残されたのは、逃げ損ねた私だけだった。
長いテーブルの真ん中に並ぶ料理は、香りも温度も申し分ない。元王女である母のために、きっと味も最高に整えられている。
それなのに、口に運んでも、何ひとつ味がしない。
私と母、二人の間を隔てるのは、銀の器でも花飾りでもなく、見えない氷の壁。
私は顔だけは笑みを浮かべたまま、息をする。
この席では、それが鎧だ。
「アストリット。いつまで女だてらに軍務だと称して、ふらふらと城内に詰めている? 本邸に顔を出すのは、いつも月の数度だけではないか」
母はナイフを皿に置き、わずかにため息をついた。
その仕草ひとつにすら威圧がある。
刃物の光よりも、その視線の方が鋭い。
「お前が拾ってきた、あの胡乱な子ネズミども。聖女などと取り繕われて、望外に働きを見せていることは、まあ良い。その後見で祭祀庁にも発言力を得た。それも良い。ただ、アストリット。お前を平民の使用人にするために学ばせたのではないということを思い出しなさい。クラウディア・ルート・シルヴィナスの嫡子であり、いずれその頭に王冠を戴くもの。その時のために、もっと磨くべきことが他にあるはずでは?」
母の声は、いつだって叱責の形をしている。
褒め言葉すら、刃に似ていた。
「母上、我が家はメイスン家にございます。私は、メイスン家の名を守り高めるために日々奮闘しております」
「メイスン家を高める? この家はイオラントが勝手につなげば良いのだから、打ち捨てておけば良い」
イオラント――兄上の名を出され、息が詰まる。
義兄。養子に迎え入れられた父の血族の子。
その後、遅れて私が母の直系として生まれてしまった。
幸い、母は家督に執着しなかった。
だが、彼女の視線はいつだってもっと遠く――“王権”を見ている。
私には、まだ第四位の継承権がある。
母はそれを“剣”のように扱う。
「王権などにこだわらず、メイスン家を筆頭公爵に押し上げ、政に食い込むほうが、しがらみなく権勢を振るえましょう?」
「この家など、王権に戻れば全てがかしづくというのに。そんなことをしている暇があるのなら、身を繕って社交へ出向きなさい。廷臣と繋がり、如何に宮廷で人を動かすかに邁進なさい。公女が聖女の付人なんて、どう考えても――」
「……誰に聞かれているやもしれません。王家に関わる言葉は、どうか慎んでください」
「所詮、仮の名にすぎぬ」
短く切り捨てられたその言葉が、胸の奥に鈍く響いた。
――そう。母にとってこの家も、この姓も仮だった。
この家のすべては、まだ、彼女が王家へ戻るための仮住まいにすぎない。
祖父王が母を後継に指名しなかったことを、母は未だに不服に思っている。
代替わり後も足掻き続けている。
王である弟の失策を探し、穴や損害を必要以上に掘り返し、責め立てる口実を探している。
いずれ引きずり落とすつもりで。
それは、この家では日常の話題として扱われている。
私も口だけは諫めるが、それは形式でしかない。この口を止められないこともわかっている。
それでも諫めるのは、自分の矜持と、いつ、誰に聞かれているかわからないことへの警戒でしかない。
いつか母が誰かに糾される時、「アストリット公女は常に反対をしていた」と証言してくれる者に示すためだ。
その証人が、いつか存在してくれることを願うしかない。
……溜息が出そうだ。
「リシェリアは身分こそ平民ですが、あれは真なる聖女の力を持っています。それを掌握することに、多少の世話を焼くだけで済むのなら、これ以上の成果はございません。知られていないだけで高貴な出自を持つのではないかと、そう見る者すら出るでしょう。それを身中に抱えること、利になりこそすれ、損にはならないと考えております。いずれ母上が手中に収める国土が、枯れ果てた木の根屑であったら、どうなさるのですか」
言いながら、ほんの少しだけ唇の端を上げた。
挑発するつもりはなかったが、母は眉をわずかに吊り上げた。
「雛鳥の餌付けなど、本職の侍女が行えばよい。公女の役目では決してない」
「彼女の後ろに目立つように立ち、機嫌を損ねず大樹を癒させておくことは、母上がいずれ座らんとする玉座を温めることになるのです。私は……」
「使用人まがいのこと、近衛隊勤務も全て、みっともない臣下の真似事にすぎないのがなぜわからぬのか。イングラムめ。狩りや剣など姫に遊びで教えたからこうなる……」
母の不満が、父と幼い私の触れ合いにまで波及していく。
あまりに理不尽で、こめかみの奥が鈍く痛んだ。
「……先日も申しあげましたが。総長の補佐として、副総長にも任じられて数か月経ちます。軍務でもそれなりに権限を預かってございます」
「は……変わらぬ。どうせあのイェルスの小僧に押さえつけられて、ただの小間使いをしているだけであろう」
母はイェルス家を仇敵のように嫌っている。
イェルス家は代々、当代王家を唯一の主として忠誠を尽くしてきた血統だ。
建国王弟が、兄に向ける恭順をそのまま引き継いでいるともいえるし、単なる政権への阿りだという者もいる。
かといって、王家に子供を差し出して配偶者や縁戚として連なるようなことは最低限で、干渉はせず、一定の距離を保ってきた。
実に節度のある方針だが、それで千年の間絶えることなく続いているのだから、その生存戦略は正しいのかもしれない。
恐ろしいほど徹底した政治血統。
それが、私の思うイェルス公爵家だった。
そのイェルス家が、唯一対応を失敗したのが、母クラウディアとの関係なのかもしれない。
かつて王女だった母クラウディアの護衛騎士は、フレデリック・イェルス……グラントの父。そのころにはイェルス家ともそれなりに懇意であったことを、私は知っている。
我が国の王位継承は、長子末子に限らず、そして性別の区別もなく、ただ指名制だ。かつて女王も名を多く連ねたし、庶子であったこともある。
だからこそ王位継承の指名までは、宮廷では長女である母の方が圧倒的に権勢は強かったと聞く。父王にも寵愛され、本人も戴冠を確信していたらしい。それなのにいざ指名されたのは末弟である叔父だった。
何度も異議を訴え、騒乱を起こし、それでも王位は弟に揺らがないとわかった時、母は狂奔した。不服を掲げる旗にイェルス家も加われと、母がフレデリックに迫った時、一蹴されたのだという。
結局その時は指名の混乱もあって、内乱を起こすまでに母は派閥をまとめることが出来なかった。失意の数年のうちに、父王は亡くなり、現王が戴冠した。
母は、正しい王に仕えぬ不忠者だと、彼の家と断絶した。
「聞いている。かの家に休暇へ招かれて参じるなどと、おぞましい」
母の言葉に、銀のフォークを持つ手がぴくりと震えた。
湯気の立つスープは、もう冷えきっていた。
食卓に座っているはずなのに、まるで冷えた石の上にいるようだった。
「……公爵と聖女との婚約は表向きのものではありますが、内外に親しいことを示すためには必要な所作にございます。ですが、あの女性関係で風聞の多いかの方に、当家の聖女を汚させないためには、監視の目が必要です。公爵を跳ね除けられるだけの権威を持つ者は、公女たる私以外にはおりますまい」
「……さっさと済ませて戻りなさい」
早く戻りたい。
城に戻って聖女の部屋に押しかけて、サフィアの淹れる紅茶と焼き菓子の甘い香りのなかで、リシェリアを愛でて何も考えずにいたい。
母は一呼吸置いて、静かに言葉を重ねた。
「ここまで待ったのだから。千年祭を前に何か食い込めるきっかけを掴めぬのなら、貴女とて次代に繋ぐ器とするだけ。どこからか良き血の婿を迎えるか、どこぞへ降嫁させるからそのつもりでおれ。……すでに秋までに、顔をつないでおきたい家からの招待をいくつか受けている。参加するように」
冷たい声。
それは、命令ではなく“宣告”に近かった。
「承知いたしました」
私は微笑を崩さずに答えた。
頬の筋肉が固まっている。
微笑の仮面の裏では、心がきしむ音がする。
けれど――この家では、それが唯一の防具だ。
急に人名が増えてすみません。まとまってきたら登場人物更新版を作成いたします




