透明な檻の底
反省会、少し重めです
謹慎に入ってから、三日目までは地獄だった。
任務には出ても、辛うじてこなすだけだった。
周りも処分を知っているからの配慮か、それとも俺があまりにも憔悴しているせいなのか、判断力が必要な仕事は割り振られず、体力だけでこなせるものばかり回された。
ジェスが遠巻きにしていたのを見たが、あいつはきっと事情もある程度知らされていると思えば、まだ平静に近寄れなかった。
なにより、ジェスから庭やリシェの匂いの片鱗でも感じてしまえば苦しみが増す。
そうして日中をやり過ごしては、部屋に籠り、答えを探した。
リカリオに言われた。
「ちょっと前まではまともだった」。
その言葉が胸に刺さったまま抜けていない。
まとも、ってなんだ。
何を守っていた時が“まとも”だった?
何を守れていた時の俺を、そう呼んだんだ。
あの頃も、今も。
焼けつくほどリシェが好きなのは変わってない。
どちらかというと、時を重ねるごとに重みが増している。
どうしようもなく、息を吸うだけで胸が軋むくらいに。
まるで呪いだ。
リシェを好きでいることそのものが、俺の毒にも血にもなっている。
それでも、やめられない。
俺は変わってなんかいない。
……変わったのは、リシェの世界だ。
王都に来て、リシェの周りの世界が優しくなった。リシェの力を怖がらず、崇めて、守ってくれる人たちが増えた。
リシェも苦しそうな顔をしなくなった。涙を流すことも減って、笑顔やくつろいだ姿を見ることが増えた。
それは、いいことのはずだ。
俺だって、ずっとそうしてやりたいと、願っていた。
もちろん、リシェ自身は変わらない。
いつだって俺を、リシェの特別にしてくれている。
リシェが一番最初に笑うのは俺で、怖い時に最初に呼ぶのも俺の名前だった。へたり込んでいる身体を立たせるのも、いつも俺の手だった。
リシェは俺だけには遠慮なく本音でぶつかり、甘えて泣き言をいい、小言を言って俺を叱り、冗談や悪戯をする。
それがあったから、俺はまだ安心していられた。
そうやって、これからも今まで通り隣で笑ってくれているなら、何も恐れる必要なんてなかった。
……なのに。
リシェの新しい世界はもう俺を特別にしておいてくれはしない。
そばに置かれるのは、もう俺じゃない。
最も隣にいるのは、カイルになった。
仕事ではいつも横にいるあいつは、俺にはできない、リシェの異能にまつわる悩みを解きほぐしていく。
最も頼るのは、アスティになった。
金も地位もあって、俺たちまとめて後見してくれる彼女には、恩しかないし、俺にはできない、同性としての近さで、姉のように支えてくれる。
最も守れるのは、グラント様だ。
それこそ誰とも比べられないほど権力がありながら、驚くほど目が利く。俺にはできない、社会や有象無象からリシェを隔てる壁になってくれる。
俺の暴力ですら、他の誰かに置き換えられている。
軍という組織は狭苦しいが、俺一人より堅固であることに違いはない。
悪夢でさえ、もう俺とリシェだけの秘密じゃない。庭作業なんてそれこそ誰でもできる仕事だ。番犬のように寄り添う必要も、資格も、もうない。
ああ、本当に。
俺はいらない。
何を守れる?
リシェのそばに立てないまがいものの騎士が、まだ何が守れるっていうんだ。
何を差し出せばいい?
ただ、焼け焦げたような恋心だけが残って、指の間から零れていく。
本当に……国境で士官先を変えるべきだった。
ほんの少しだけ強がって、離れていられたあの時に、未練を断つべきだったのかもしれない。
遠い地で消えるように生きて、リシェの影の届かないところで、見知らぬ人間たちの中に紛れて、別の暮らしをしてしまえばよかった。あの時会わずに二か月いられたんだから、そのまま会えなくなればいずれ諦められたかもしれないのに。
なのに。
リシェが、俺を探しに来てくれてしまった。
会いたかったと、俺の名前を呼んだ。
声を聞いた瞬間、全部、戻ってきてしまった。
そして、どうしようもなく勘違いした。
リシェが、また俺を特別にしてくれるんだって。
まだ、必要としてくれるんだって。
浮かれた。
だって仕方ないだろう。
これが恋なのかって聞かれて、知りたいと問われて。恋だと確信させたくて。
だから……あの朝、口づけてしまった。
俺の中で、リシェの恋にもしてしまった。
自分でも笑えるほどに、早計だった。
けど、人生で一番嬉しかった。
あの一瞬に、生きてきた意味の全部があった。
そして、拒まなかったことを、受け入れられたと思い込んでしまった。
――はぁ。
夜が、長い。毎日、まるで永遠に明けないように思える。
今でも、あの朝に戻りたい。
その光景だけが、何度もまぶたの裏で生まれ変わる。
やり直したいという気持ちよりも、繰り返したいとすら思っている。
それに気が付いて慌てて頭を振り、また反省を繰り返した。
三日間――答えは見つからなかった。
考えて、思い出して、悔いて、また考える。
そのたびに、心の奥へ泥が沈んでいくようだった。
人や外部と関わるような任務からは外され、外出する機会が減った。
城内勤務ばかりになり、嫌でも日勤の巡回でリシェの姿を目にしてしまう。
……見たくないのに、目に入る。
閉じ込められているのに、見えないわけではなかった。
見えてしまうから、余計に苦しかった。
視界の端で、息をするようにそこにいる。
庭で草木を世話し、誰かと並んで廊下を歩き、礼拝堂で祈りを捧げ、祭祀場で光を纏う。
時には楽堂で歌を練習し、少し着飾って、グラント様やカイルと共に出ていく。
そしてまた庭に戻り、夜になれば塔の部屋に灯りがともる。
……そうしているのを、ただ目で追った。
ああ。
俺とリシェが会っていた時間なんて、たった一日のほんのわずかな時間だったんだな。
王都でのリシェの日常は、俺がいようがいまいが、何も変わらずに流れていく。
滞りなく、穏やかに、静かに回っている。
見ているだけで、胸が締めつけられた。
俺がいなくても、リシェはもう苦しまない。
穏やかに笑っている。
悪夢に怯えて起き上がることもない。
朝には光をまとい、祈りを口にしている。
――幸福そうに見える。
俺の目の裏には、いつも銀の煌めきが残った。
まぶたを閉じても、あの髪の光が焼き付いて離れない。
まるで幻のように、瞼の裏で瞬いて消えない。
リシェは幸せになった。
きっともう充分だ。
俺の役目は、終わったんだろう。
……俺の役目。
まともだった頃、俺は何をしていた?
兵士としての仕事、庭の管理、その中でのわずかなリシェとの交流。
できる範囲でリシェを守り、役に立とうと必死だった。
それくらいだ。
もっと前は……リシェの世話。
いや、お互いが支え合って生きていたのだから、半分は俺が世話されていたとも言う。
どっちがどっちだったのか、今ではもう曖昧だ。
それでも――あの頃は確かに一緒だった。
賊や悪漢は撃退して、時には逃げて隠れた。
でもほとんどの毎日は、朝起きて、飯を探して食って、歩いて、眠って。
特別なことなんて何もなくて、ただそばにいて、ひどいことが起きないように気を配った。
毎日平和に、同じことを繰り返せるように。見守って、静かに暮らしていただけだ。
そう思えば、守るというのは、何かを壊すことだけじゃなかった。
近くにいて、飯を食わせて、眠れるようにして、朝になったらまた笑えるようにする。
俺がやっていた大部分はきっと、そういうことだった。
……そうか。
そっか。
変わってしまったのは、世界だけじゃない。
やっぱり、俺も変わってしまった。
リシェが笑っていることを喜ぶより先に、その隣に俺がいないことを数えるようになった。
守れているかではなく、選ばれているかばかりを見ていた。
リシェに特別扱いされていることに、俺は驕っていた。
リシェが安心して暮らせることを祈っていたはずなのに、その日々の中で俺の存在理由が薄れていくほど焦った。
俺がリシェの特別である理由が見つけられなくて、恋に紐づけた。
恋なら理由はいらない。
そして、誰かに代わられることもない。
俺だって、理由を挙げられないほどリシェを愛しているのだから、リシェも同じだと思った。
……そう思いたかった。
だから、俺は押しつけた。
リシェに朗らかに微笑んでいてほしいと願いながら、俺自身が心を乱す不安の種になっていた。
リシェは波を立てないように、自分を殺して、壊さないように息を潜めてきた。それを一番知っていたはずの俺が、誰よりも甘えていた。
何でも受け入れるように、仕方なく笑うことを、俺は嫌がっていたはずなのに、いつの間にか区別がつかなくなっていた。
俺が潰れた顔をするたび、リシェは自分を責める。
俺が苦しみをリシェのせいにしなくても、リシェはきっとそう受け取る。
それを知っていてなお沈むなら、それはもう甘えでは済まない。
自分の不安を、リシェに背負わせた。
だから、見失ったのだ。
俺が何を守っていたのかを。
それでも。
それでも。
リシェは、俺への愛があると言ってくれた。
リシェは、俺を失いたくないと惜しんだ。
リシェはウルじゃなくて、俺を選んで助けた。
リシェは聖女になることですら、俺を守ることを条件にした。
まだ恋されてなくても。
俺にしかないものがあるはずなんだ。
俺が守ってきたものが、確かにあるはずなんだ。
リシェが笑える時間。
リシェが安心して目を閉じられる場所。
その全部を作ってきたのは、俺の手だ。
何度も血まみれになって、それでも離さなかった。
見つけよう。
見失ったものを、もう一度。
リシェのために、じゃなく。
リシェと生きるために。
見つけて――あの日常に戻ろう。
陽の光の差す庭で、リシェが微笑んで、俺が笑い返す。
そんな何でもない日々。
あれこそが、俺の世界の全部だった。
カイルと久しぶりにやり合ったせいか、胸の奥で、わずかに熱が動いた。
悔しさと、意地と、まだ終われないという焦燥。
それが、俺の中で再び火を起こしていく。
まだ、火はつけ直せる。
四日目になると、余った時間は鍛錬に費やすようになった。
眠るために疲れる。
ただそれだけを目的に。
剣を振り、腕が軋んでも止めず、走って息が切れても足を止めなかった。
筋肉を絞り、ほぐし、また締める。同じ動作を何百回も繰り返し、反射を磨き、駆動を速く、正確にする。
体を動かすことでしか、心が静まらなかった。
体を動かせない時には、頭の中で狩りの作法を思い出す。
気配を殺す。
風の向き、匂い、足音、鼓動――すべてを読む。
相手の視線を追い、心を読む。
誘い込み、仕留める。
ラトリエでの記憶が、刃のように蘇る。
あの時、もっと動けていれば。
もっと速く、もっと鋭く、もっと強く。
勘がよければ、足が速ければ、あの日の光景を変えられたかもしれない。
そうすれば大怪我もせず、リシェを泣かせずに済んだ。
英雄のように颯爽と危機を救えていたなら、今頃、もっと真っ当にリシェの恋を望めていたかもしれないんだから。
そう思いながら、ひたすら鍛錬を続けた。
過去はもう取り戻せない。
元いた道にも、すぐには戻れない。
献身すれば、報われるはずだと思ってはだめだ。
掴み取りに行かなければならない。
ろくでもない己が、少しでもまっすぐに、一歩でも前へ進むために。
強くなるためだけじゃない。
速くなるためだけでもない。
体を限界まで使い、呼吸を整え、衝動が走る前に筋肉を止める。
それは、理性が本能を制御する、自分を飼い慣らす練習でもあった。
体を動かすことで、ほんの少しだけ、胸の中の澱が薄れていく気がした。




