不器用な足踏み
先日、グラント兄に休みの打診をしてから、数日経っていた。返事を求める書面にもしていない。
従者から確実にグラントの手に渡ったところまでしか把握はできていない。
特に応答もなかったが、どうやら内々に休暇の手配を進めているらしく、その動きは祭祀庁内でも公務予定の移動連絡などから見て取れていた。
そのうち公務予定変更の通達と、リシェリア宛の休暇への招待状となって執務室に届くはずだ。
軍部の方でも同じ動きなのだろう。
それはアスティから禁止目録の改訂版の送付とともにつけられた書き付けでわかった。
『なんか、また裏で手を回したでしょ。余計なお世話とは思うけど、迷惑とまでは言わないでおいてあげる。ありがと。それと、リシェリアがコンラートに面会したいと言っていた。手配してあげて』
まるで声が聞こえてきそうなほどの口語で書かれていて、苦笑いを禁じ得ない。
アスティは俺相手には、手紙の構文すら整える気がないらしい。まあ、俺も意図が直截な方がわかりやすいので構わないが。
グラント兄からの休暇の誘いが、アスティの中で『迷惑』ではなくなったのなら、二人の仲もひとつ進歩だな。
そして、おまけのように添えられた一文で、俺はリシェリアがコンラートへの面会を望んでいることを知った。
そして、先ほど聞いたその面会の意図。リシェリアの要望は至極真っ直ぐだった。
良縁へ輿入れして終わるのではなく、その後も祭祀官として歩んだ元聖女の行く末を知りたいという、素朴なもの。
「そうか……リシェリアは結婚後も祭祀庁で働きたいのか。盲点だったな……領主夫人として静かに暮らす、ではだめなのかな……」
リシェリアが持つ可憐な容貌、異質な色彩、そしてあの異能。どれをとっても余計な視線を惹きつける。だから、目立たず静かに生きたいだろうと勝手に思っていた。
独り言のように、思考がそのまま口からこぼれた。
俺と彼女が婚約しているわけでも、恋人関係にあるわけでもない。
ただの“担当官”と“聖女”だ。
それなのに、未来を勝手に想像している自分に気づいては気恥ずかしいのに、止められない。
――任期を終えたあと、彼女は俺の領地に来て、静かに暮らす。
人のざわめきも少ない山間の館。湖面の光が銀の髪を照らす。
そんな絵を、何度も思い描いている。
……どうしても、王都の喧噪の中にいる彼女が想像できない。
「旦那様、リシェリア様がもう間もなく参られます。……まだその計画を聞かれてしまうのは、お早いかと」
はっ。
ヘンリクの報告で現実に引き戻される。
しまった、声に出していたか。危ない、危ない。
「助かった」
静かに頷くヘンリクは、まるで空気の揺らぎまで読むような男だ。
「まずは領内を、リシェリア様をお迎えするに相応しく整えることが先決かと。好まれそうな場所に別邸を持つのも良いかもしれません」
彼の淹れる茶は、リシェリアが席に着く瞬間、最も香りが立つ温度で供される。
完璧な采配。
俺が仕事に集中できるのは、半分はこの男の能力のおかげだ。
しかし、名案だな。
確かに、リシェリアが好みそうな景色の場所を見つけておきたい。
「……今年は千年祭前だしな。領地へ一度戻る事にする」
なんとなく、そんな言葉が出た。
「ロアンドや、領民たちも喜びます。前回はご療養だけでしたから」
「……すまない」
思い返せば、俺はここ数年まともに領地を訪ねていない。
屋敷に顔を出したのも、体調を崩したときの“避難”のようなものだった。
しかも理由が――リシェリアの婚約話で精神を削られた、などという。
なんと情けない領主だろう。
ヘンリクはその全部を知っている。黙して語らぬ忠僕の顔の下には、確かな呆れが透けて見える気がする。
「俺は一人でも、なんとでもなるから。たまには帰っていいんだぞ」
ヘンリクは茶器を片づけながら、ほんのわずかに視線を伏せた。考えているふりをしているが、あれは考えているのではない。すでに結論を用意していて、こちらが逃げ道を塞がれる位置に立つのを待っている顔だ。長年仕えている男というのは、時に主よりも主の弱点に詳しい。
「とんでもない。旦那様は拝見していないと、すぐお食事を疎かになさるので……。秋ごろですと収穫祭があります。その頃になれば、何はなくとも紅葉と賑わいだけでも、目を楽しませるでしょう。リシェリア様もお誘いしてはいかがです」
「ま、まあ……誘ってみてもいいな」
途端に喉が渇く。
やめろ、その真顔で核心を突くのは。
ヘンリクの前で隠し立てなど意味がないが、それでも照れる。
「おはようございます」
軽やかな声が響いた。
銀の髪が朝陽を受けて柔らかく輝く。
彼女が入ってくるだけで、部屋の空気が変わるのがわかる。
冷えた思考が一瞬で融け、あたたかい空気が胸の奥まで満ちていく。
ヘンリクは静かに礼をし、湯気の立つ茶を置いた。
完璧なタイミングだ。
「カイル、楽しそうにお話しでしたね。どこかへお出かけの予定ですか?」
「ああ、いや。秋ごろ、うちの領地で収穫祭があるのでね。久しぶりに顔を出すかという話をしていた」
「素敵。ぜひご実家でゆっくりなさってくださいね。その間の祭祀はお任せください。……まあ、私はカイルの指示の通り、実行するだけなんですけど」
「いや、充分だよ」
軽く笑って返す。
本当は、彼女の言葉の裏に、少しだけ距離を感じてしまった。
彼女は本当に、善意だけでそう言っている。
俺の領地にも、俺の家にも、自分が招かれる可能性など少しも考えていない。そこが彼女らしくて、同時に少しだけ堪えた。俺の中では何度も彼女が館の窓辺や領地の風景に立っているのに、彼女の中では俺が一人で帰る未来しかない。
俺が不在でも祭祀は回る。
だが、リシェリアがいなければ、俺の時間はまったく回らない。
――そんなことは、口が裂けても言えない。
「……」
視線を上げると、ヘンリクが無言でこちらを見ている。
誘え、とでも言いたげだ。
目だけで押し込んでくるあの圧。控えめに見えて、主人である俺に全く物怖じしない、恐ろしい男だ。
「……」
さらに圧。普段寡黙なだけに。目が雄弁に語る。
う、うう。
言えばいい。
ただ、それだけだ。
秋の収穫祭に、遊びに来てくれないか。たったそれだけの言葉を口にすれば、少なくとも答えは得られる。だが、答えが得られるということは、断られる可能性も形を持つということだった。
「そ、そういえば。この後、コンラートに面会の都合を聞いてくる。少し待っていてくれ」
話をそらす。
これは逃走だ。自覚している。
だが、勢いだけで「収穫祭に一緒に行かないか」なんて言えるか。
俺はそんな肝の据わった人間じゃない。
「……」
背後から、無表情のヘンリクなら、さらに無言の圧が突き刺さる。
その無機質な静けさの中に、ほんの少しだけ呆れの色が混じっている気がして、俺は目をそらした。
面会の手配など、いくらでもできる。
休暇の段取りも、祭祀庁の調整も、グラント兄への小細工もできる。リシェリアが望んでくれさえすれば、どんな願いも叶えるために全力を尽くすのに。
それなのに、ただ一言、まっすぐにリシェリアを自分の領地へ誘うことだけが、どうにも難しい。




