不在の嘆息
「帰ってきたと思ったら、また。……セランはいつ戻ってくるんだろうね」
リシェリアさんが、ひとつ息を吐いた。
その声音には怒りも悲しみもなくて、ただ、空気が少しだけ沈むような柔らかい重みがあった。
「最近は、ほとんどいなくて……庭の管理係失格だよね、もう」
彼女は笑ってみせたけれど、その笑顔の端には寂しさが滲んでいた。
乾いた苦笑いを浮かべるしかなかった。セランさんは任務自体には出ている。僕も訓練や配備によっては見かけてはいるが、なんというか……生気のない目をしていて、様子を聞くにも声をかけることすらためらわれていた。
周りの皆も、あまりの変わりように絡んだりはせず遠巻きにしていた。
「まあ……規律は団員として守ることが大事ですからね」
口から出た言葉は、決まり文句のようにしか聞こえなかった。
心の底では、あの二人にそんな堅苦しい言葉をかけたくなかった。
でも、言わなきゃいけなかった。僕は王国軍員で、彼女は“聖女様”だから。
実は、少しは詳細を聞いている。僕はメイスン家麾下であり、庭でも連帯しているからと、少しだけ情報共有が許されたからだ。そうやってリカリオさんから聞いた話では、休暇中に門限破り、それに……リシェリアさんにかすり傷を負わせた、ということだった。
見える範囲にはそんな傷なんて見えない。
リシェリアさんにも痛みを抱えた気配はなかった。
本当に、かすり傷で軽かったか、他の治癒の異能が使える医務官がすぐ治してしまったんだろう。
聖女が怪我を負ったままなんて、本人が気にしなくても、国の面目が許さない。
いくら軽いとはいえ、“聖女の身”に傷をつけた。
……セランさんに悪気はなくても、それは確かに結構な処分を受けても仕方ないだろうな。
表向きは「規律違反」。
だけど、リシェリアさんは自身を治せないという事実は広く公ではない。稀代の聖女の異能の限界を知られれば、極端な話、失脚を狙っての暗殺が容易となってしまう。どんな悪意が潜んでいるかわかりはしない。
そういったことを隠すためっていう理由で、目立つ処分にされた説もありそうだなぁ……
当の本人のリシェリアさんは、相変わらずなんでもない顔で、風に揺れる花の世話なんかしている。
その姿を見ると、逆に怖くなる。
僕もリシェリアさんの異能の全部は知らない。でも、かなりのことができることは、長く関わっているとわかる。
話に聞いたラトリエの奇跡も、庭に満ちている澄んだ空気も、挨拶よりも気軽に振りまいてくれる、日々の些細な傷への癒しも。
全部が常識を超えているんだから。
そういえば。
リシェリアさんは――セランさんを“消そうとした”んだっけ?
“消す”って、何を。
命? 記憶? それとも、心?
考えただけで背筋がぞわりとした。
その時、彼女がふと振り返る。
「そういえば。……ジェスの言った通りだったよ」
どきり、と心臓が跳ねた。
まさか今、読まれた? 思考を?
「ひっ……な、なんでしたっけ?」
声が裏返る。情けない。
でも仕方ない。相手は聖女だ。何を見透かしているかわからない。
「……? えっと、セランにも私への恋があって。でも苦しまないようにしたいって私、言ったじゃない?」
幸いにも、僕の狼狽には気づいていないようだった。
彼女の目はどこまでも澄んでいて、ただ優しい。
なのに、話の内容は――背筋が寒くなる。
「あ、ああ、はい。それが、どうかしましたか?」
――死刑宣告の話だ。
「説得して、恋する気持ち?感覚?を消してあげようと思っていたんだけど。やめることにしたの」
リシェリアさんは、ふんわりと笑った。
幼い子がいたずらを報告するみたいな笑顔だった。
だがその内容は、ぞっとするほど穏やかに恐ろしい。
“心を消す”。
“感情を消す”。
そんなこと、本当に人がしていいのか? いや、できるのか?
でも、僕にできるのは相槌だけだ。
「セランは、背中の傷跡も恋も、消されたくないって。アスティもね、苦しいことも嫌なことも、過去も。全てその人のもので、それがあるから今があるんだって言ってた」
彼女の声は、やわらかく、静かだった。
まるで祈りのように、胸の奥にしみた。
「ジェスはわかってたんだよね? ……きっとカイルもなんだろうね」
その時、彼女が少し首をかしげて、微笑んだ。
眉尻が下がって、陽の光の中でまぶしいほどに綺麗だった。
こんなに可愛い人が、さっきまで“心を消す”なんて言ってたなんて、信じられない。
「だから、私はみんなの心までは、楽にしようとか癒してあげたい、とか。そういうこと考えないようにしようと思う」
その言葉に、胸の奥の緊張が一気にほどけた。
思わずうなずいて、息をつく。
「あ、ええ。それがいいです。そうしましょ!」
よかった。本当に。これで世界が救われた。
セランさんも、カイルさんも、そして僕も。
リシェリアさんが、笑って言う。
「教えてくれて、ありがとう。ジェス」
その笑顔には、もう氷の影なんてない。
春の陽射しみたいな柔らかさがあった。
「ちょっと喧嘩になっちゃったんだけど、セランとは仲直りしたから、安心してね」
「はは……良かったです。セランさんが戻るの楽しみですね」
……とは言ったけど、昨日の時点ではセランさん、僕に怒ってたんだよなぁ。
あの目、まだ許してくれてない気がするんだけど。
「あ、……これからも難しいことあったら、相談に乗ってね」
リシェリアさんが、そう言って微笑んだ。
やわらかな声。けれど――背中が、ぞくりとした。
“相談”って、どんな内容の、ですか。
「もちろんです。いつでも」
喉の奥まで出かかったけれど、もちろん言えない。
ただ、いつも通りに笑って返した。
「リシェリア、おはよう。急な欠員は、その……大変そうだね」
カイルさんが、朝の光に縁取られながら執務室の窓から顔を出した。
まだ庭に薄靄がかかっていて、陽が差すたびに露の粒が葉先できらめく。
「カイル、おはようございます。……そうですね。セランがいるつもりで予定していた作業が、ちょっと遅れていて」
リシェリアさんは手にしていた剪定ばさみを静かに下ろして、やわらかく笑った。
大きい果樹の苗木を、幾つか入れようかという話をしていたのが無期限延期になっていた。
苗木といっても五尺以上の丈はある。運搬するにも手入れするにも身長的に……セランさんがいないと苦しい。
カイルさんに返す笑顔には、困ったというより、寂しさが少し混じっていた。
けれどそれを隠すように、いつもの穏やかさでカイルさんに返す。
「でも、大丈夫です。本来、聖女のできる範囲で世話するのが『聖女の裏庭』ですから」
「……それでも予定外のことだから。俺は正規の人員ではないし口出しし過ぎることはできないが、できることは手伝うから言ってくれ。ジェスも」
「え、あ、ありがとうございます、カイルさん」
「カイル、ありがとう」
思わず姿勢を正して返す。
この人は、こういう時は本当に頼もしい。
冷徹だとか、人嫌いだとか、色々言われてるけど――少なくとも、リシェリアさんと僕にはそんな素振りを見せたことはない。
淡々としてるけど、やるべきことをきちんとやる。
それが、この人の冷たさの正体なんだと思う。
……正直、カイルさんについた方が、楽に出世できそうなんだよな。
上の人には重用はされてるし、頭も切れる。
セランさんみたいに拳でぶつかるタイプじゃない。
……いや、だめだだめだ。
僕はアスティ様の家臣。
アスティ様の配下にいる限り、セランさんとリシェリアさんの味方。
不義は良くない。不義は。
「そういえば、リシェリア。コンラートに会いたいんだって? アスティから聞いたけど」
カイルさんが何気なく言葉を継いだ。
知らない名前だ。祭祀庁の人かな。僕は黙っておこう。
「ええ、はい」
「内容によるけど。急ぎの話なら今日にでも面会を申請してみるが、どのような質疑なんだい」
「あ。コンラート様ではなくて。コンラート様の奥様が元聖女で、祭祀官の籍でいらっしゃると伺いましたので。お話を伺えたらな、と思いまして。ですので、先方のお時間がつく時で構いません」
――ん?
これ、僕が聞いてていい話なんだろうか。
祭祀官とか元聖女とか、階層が高すぎる。
「リシェリアは。聖女が……祭祀官と結婚したあとの話が、聞きたい感じ……なのかな?」
カイルさんが、ほんのり顔を赤らめて言った。
あっ。これは……完全に想像してるな。
“リシェリアさんと結婚したら”の未来を。
僕でも分かる。目の端が緩んでる。
「細君のユーディナ殿は、二人目のお子が生まれたばかりだから、訪問になるかと思うけど構わないだろうか?」
「ええ、もちろん。あ、カイルにもお時間取らせますけど大丈夫でしょうか」
「そりゃ、もう。……俺も、そういった生活から学ぶことは多いだろうから。願ってもない」
その“学ぶ”の言い方が、どこか照れていて、珍しく人間くさい。
この人、本気で結婚生活を想像してるのか……。
ああもう、領地に帰るとかそういう話まで頭に浮かんできた。
……って僕まで想像してどうする。
「そうですか? それでは、よろしくお願いします。あ、そろそろ朝の勤行の時間ですね。カイル、すぐそちらに参ります」
リシェリアさんがふと僕を振り向く。
朝の光が髪を透かして、ふわりと金糸のように揺れた。
「ジェス。また夜にね」
「はい、また夕に。リシェリアさん、カイルさん。――大樹のご加護を」
礼をして、庭仕事の締めくくりを告げる。
いつもより少し背筋を伸ばして言ったのは、二人が並んでいる光景が、どうにも眩しかったからだ。
「ああ。ジェス」
窓辺からカイルさんの声。
口元には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「もう少し先のことだが、リシェリアがしばらく庭に来られなくなる予定がある――把握しておいてくれ」
「あ、新しい外遊のご予定ですかね。詳しい日程が決まりましたらお知らせください。そのための庭番ですし、もちろんお任せください」
セランさんは、その頃には謹慎が明けているのだろうか。
そう考えてから、ふと気づく。
セランさんがいなくなって、庭の空気は少し変わった。
そこに今度は、リシェリアさんまで来られなくなる。
予定と聞いただけなのに、胸の奥で小さなため息が落ちた。




