触れぬ過去、触れ得る未来
「んー……個人的なことだし。勝手に教えるつもりはない。……けど」
アスティは珍しく、言葉を濁らせた。
知らないからではない。知っている範囲であっても、他人へ渡していい話かどうかを測っている顔だった。
「あんたは担当官で、リシェリアが関係してるから、言える範囲だけね。ま、ちょっとリシェリアの心的外傷に障るようなことを言って、喧嘩したみたい」
そう告げる声には、怒りや嘲りはなかった。
ただ、静かで慎重な響き。
……セランが口にしていたやつだな。
何かを悟らせるような口ぶり。
まるで、自分だけがその断片を知っているような顔。
重くなりそうな気配を感じて、軽く鼻で笑ってやる。
「ふん、それで不貞腐れて、暴れたりでもしたか」
処罰内容から見れば、期間はともかく職務時間には出ているのだから、重すぎるというほどではない。あいつのやりそうなことといえば、私闘か器物破損の類でも起こしたのだと思う。
ただ、それがリシェリアの心の傷に関するものだという手がかりは示された。
記憶を探る。
わずかに聞いている、リシェリアの過去の一端。
災害と、逃亡と、力の暴走。
明言されたわけではないが、確かにあるはずの深い傷。
……おそらく、それが悪夢の要因なのだろう。
彼女が夜毎に怯える理由。
静かな場所を好む理由。
世界との距離を測りながら生きている理由。
目を閉じると、心の中に泣いているリシェリアの姿が浮かぶ。
そこに触れることは、まだ俺にも許されていない。
けれど、せめて――心の中でなら、抱きしめてやってもいいだろう。
それは、今のところ残された自由だ。
思い出すのは、あのとき――
心をのぞいた時に出会った、あまりに幼い姿の彼女。
あの姿が、今もどこかに棲みついているのだと思うと、胸が締めつけられる。
……俺を選んでくれなきゃ、死んでやる。
そんな風にでも、セランが迫ったのだろうか。
セランのいけ好かない口ぶりを思えば、あり得なくはない。
それなら、それなりに愉快だが――それを知っているセランが、わざわざ傷をえぐるような真似をするだろうか。
……いや。
気心が知れているからこそ、遠慮なく踏み込んだのかもしれない。
仲が良いというのは、時として、無防備すぎて、危うい。
親しき仲にも礼儀は要る。
……まあ、拗れる分には、一向に構わない。
俺には、俺のやり方がある。
「まあ、わかった」
肩を竦めて、軽く口にする。
「だから反省して、俺にリシェリアを任せることにしたと」
冗談めかして言ってみせる。
あいつは最近ずっと寡黙で、妙に元気がなかった。
二人の間には、悔しいほどの親密さがあるが――それと同時に、互いに抱えている影も深いはずだ。
敵としては、嫌いだ。
だが、元気のない犬をいじめたところで、気分は晴れない。
……それでも。
セランは踏みとどまった。
破壊ではなく、修復を選んだ。
なら、また相手をしてやることもあるだろう。
噛みついてくるなら、こちらも構えてやる。
「そんな結論、どこをどう通ったら出てくるのよ」
アスティの声が、真横から冷や水を浴びせるように落ちた。
「というか、あんたって、具体的に何か知ってるの?」
流された。
せっかく大事な話をしていたのに、あっさりと。
「いや?」
わざとらしく首を傾げて応じる。
「担当官任命後すぐにもらった書面上の経歴と、一緒にいて察せられること――せいぜい、悪夢に悩んでいるらしいことくらいか」
「……もし、もう少し知りたいなら。多少は話せるけど」
アスティが軽く目を伏せて言う。
全部は知らないけどね、と付け加えながら。
俺は――ほんのわずか、迷ってから、首を振る。
「いや、それには及ばない」
俺は断った。
それこそ、第三者から聞くべきことではないはずだ。もし聞くにしても、俺が真正面から問うべきだ。
「リシェリア本人か……まあ、セランから言われるなら、聞くのもやぶさかではないけれど」
情報は必要だ。
だが、必要という言葉は便利すぎる。欲しいものを正当化する時、人はたいてい、その言葉を使う。
「意外ね。あんたはもっと貪欲なのかと思っていた」
俺がここで欲しがっているものは、リシェリアの過去そのものではない。
彼女に近づくための鍵だ。
そう気づいた時点で、手を伸ばすべきではなかった。
傷に触れるのは、慎重であるべきだ。
信頼というのは、与えられるものではなく、差し出されるものだと知っている。
そしてそれが一度、手渡される日を――俺は、誰よりも待ち望んでいる。
「二人が俺に聞いてほしいと言うなら、もちろん聞くさ」
肩肘張らずにそう言ってみせた。
「それで気が晴れるなら、毎晩寝物語として聞いたっていい」
誤解してほしくない。
俺は、切り捨てているわけじゃない。
ただ、過去というやつは、掘り起こしたところで砂しか出ないこともある。
でも、それでも――誰かが話したいというなら、聞く用意はある。そのくらいの度量はあるつもりだ。
「……それ、聞き流してるって言わない?」
アスティの声が、少し引きつった。
眉尻を上げ、微妙な顔をしている。
無視して続ける。
「馬鹿な。聞き流す? あり得ない。そんなことあるはずないだろう。リシェリアが添い寝してくれるなら、流れるものはせいぜい……汗だけだ」
その上で心の内を打ち明けてくれるとしたら、そんなもの、寝物語どころか、一語一句を記録する勢いで聞くだろう。むしろ脳に刻み込む。血肉にする。死ぬまで記憶へ刷り込み保存する。
そして必要なら翌朝には、聞いた順に記録へ起こしてみせる。
「そのよく滑る口を閉じなさい。蹴るわよ」
「失礼した」
つい興が乗ってしまった。アスティの、殺気すら感じる視線に思わず黙った。数日前、馬車内で蹴られた脛の痛みを思い出す。
「ただ……その断片をここで知ったとしても、過去に戻って助けられるわけじゃない」
背もたれに軽くもたれ、視線を天井へ向ける。
「俺にできるのは、空いた傷の代わりに埋められそうなものを、今――見つけることくらいだ」
傷を消すことはできない。
だが、傷だけで埋まっている場所に、別のものを置くことはできる。
甘いもの。
綺麗なもの。
知らない景色。
誰かと笑った記憶。
それが傷を消さなくてもいい。
ただ、彼女が自分の中を振り返った時、嫌なものだけが並んでいなければ、それでいい。
安らぎ、楽しいこと、新しい刺激、綺麗なもの。
美食でも、装飾品でも、芸術でも、旅路でも、音楽でも、果てはどうしようもないほどくだらない冗談でもいい。
――それで一瞬でも笑ってくれるなら、十分価値がある。
「俺は、嫌な記憶を掘り起こすより、嬉しいもので埋め立てたい」
それが、俺なりのやり方だ。
リシェリアは、どんなものなら欲しいのだろう。
欲しがるという行為が、彼女にはあまりにも似合わない。
けれど、何かはあるはずだ。
小さな光。淡い好奇心。微かな憧れ。
リシェリア本人に尋ねれば、きっと困る。
欲しいものを問われた時、自分の欲ではなく相手の負担を測る。何を選べば迷惑にならないか。何を言えば、その場が穏やかに済むか。
そういう考え方をすると、俺はもう知っている。
ならば、彼女が欲しいものそのものではなく、彼女が憧れるものから辿ればいい。
ふと、思考の中で点が繋がった。
リシェリアが欲しがらないなら、欲しがらなくて済む形にすればいい。
誰か一人のためではなく、皆がそうしたかったのだと装える、逃げ道のある楽しみ。
なら、使える駒は目の前にある。
リシェリアが好きなもの。
……そう。
彼女は、やたらアスティが好きだ。
目の前の女。
俺の“邪魔者”でありながら、リシェリアにとっては憧れの人。
――なら。
「そういえば、アスティは何が欲しいものはないか?」
唐突に尋ねた。
アスティは怪訝そうにこちらを見ている。
「……今の話のどこから、私の欲しいものに飛んだの?」
「答えてくれ。市場調査なんだ」
「嫌な予感しかしないんだけど」
だが、俺の頭はすでにその先を走っていた。
完璧な解法。
誰もが笑って過ごせる、ささやかな策。
公務でも、慰問でもない。遠征でも外遊でもない。
アスティとリシェリアに贈るのは――純然たる余暇だ。




