狐にもかかる首輪
先日まで、遠征に出たきり姿を見せなかったセランは、戻ってきたかと思えば、まるで牙を抜かれたようだった。俺に何を言われても、吠え返さなかった。
遠ざかった間にリシェリア以外の世界を知ったとか、例の噂にあった現地の女性との思い出に心を置いてきたとか。……もしくは、リシェリアへの熱が冷めてくれたのかと思った。
と思えば昨日は、落ち込んだ影を滲ませながらも、初対面の頃のように噛みつかんばかりの野良犬の面構えをしていた。
その直後、あの男の謹慎処分が公示されていたことを知った。
育成を頼んでいた薬草の件で庭に呼び出されていたため、ジェスからもその話を聞かされた。
「はい。ええと、僕も詳しくはわからないんですが。……そういうことみたいでして」
セランの軍規違反による謹慎処分。
「そう、か。……ジェスには負担があるだろうが、庭のことはよく見てやってくれ」
俺は庭の管理者ではない。やるべき職務も他にある。リシェリアを手伝いたくないわけではないが、管理者には管理者の職分と俸給がある。俺はあくまでも、ささやかな協力者の域を越えるべきではない。
……それにきっと駄犬も、何度も俺に入り浸られたくはないはずだ。
「はい、それは勿論です。……?」
ジェスが不審そうに俺を見て瞬いていた。
「なんだ」
「いえ、またセランさんに対して必要以上に際どい暴言が出るのかなと思ったら、出なかったので」
「……さすがに、俺だって空気は読める」
随分な言われようだ。少しだけ抗議の目を向けると、ジェスは気まずそうに笑いながら視線を流した。
視線の先にはリシェリア。
彼女は薬草の札を見ていた。だが、指先は同じ札の縁を何度もなぞっていて、目だけが少し遅れて動いている。こちらの会話を聞いていないわけではない。ただ、聞こえたものを受け止める場所が、いつもより深いところに沈んでいるように見えた。
……わかっている。
ジェスなりに空気を軽くしようとしているのだ。
「リシェリア」
俺の呼びかけに、リシェリアは遅れて顔を上げた。
「……あ、はい! 大丈夫です。ええ、仕方ないことですから。じゃあ、薬草の生育を見ていきましょう。土の種類ごとに左からですね……」
――何かあったのはわかる。何があったかまではわからない。
だが、どうやら俺はもう、あいつのうるささに慣れてしまっていたらしい。
静けさの中にあの声がないと、どこか歯車の欠けた時計のように、リシェリアの纏う空気が色を失う。
あの声は、ただ騒がしいだけではなかった。
リシェリアが考え込みすぎる前に現実へ引き戻し、ジェスが余計な気を遣いすぎる時にも、気ままに動いて停滞を揺らす。
俺がしない――できない形で空気を変える。
腹立たしいが、あの駄犬にも役割はあったらしい。
リシェリアも俺も静謐を好む。
それでも、たまには駄犬の遠吠えがある日のほうが、場が息づく――ということなのだろう。
――などと考えている時点で、俺も相当毒されている。
名目なら、いくらでもあった。
セランが撤回したという禁止項目の確認。城内での線引き。リシェリアへの接触に関する新しい条件。
けれど実際には、あの駄犬がなぜあんな顔をしていたのかを、早めに確かめておきたかっただけかもしれない。
庭の確認作業を終えるやいなや、俺は二人を置いて軍部へ向かっていた。
今いるのは、アスティの執務室だった。
ここに俺が足を運ぶのは滅多にない。業務は基本的に上から下へ流れるもので、用があるなら本来、アスティの方から呼びつけてくる立場ではあるが、彼女は拙速を尊ぶ。呼びつけるよりも自ら足を運ぶ。
あるいは、単に机に座っていたくない性分なのだろう。
そこは腰が重いグラント兄とは対照的だ。
部屋の中を見回す。
書棚には規律書が数冊、古い地形図、訓練用の模型、最低限の軍務資料。それだけだった。
副総長の執務室というには、妙に物が少ない。
机も棚も片づきすぎていて、ここで長く仕事をしている気配がなかった。仕事を終えた後の整頓ではない。そもそも、この部屋に腰を据える気がないのだ。
飾り気も香もなく、私物らしいものもない。
アスティ本人の痕跡が、薄い。
軍務に必要な重いものは総長室に置き、個人的なものは市邸へ持ち帰っているのだろう。公女として、王族として、間諜の目を警戒してきた人間らしい線の引き方だった。
待つ間に事務官が出してくれたお茶は、すっかり冷めてしまった。
今日は前触れもなく来たのだ。無理もない。
このまま帰るか――と思い立ち、腰を上げた。
セランの様子が変だったのが気にかかっていた。
一度、早めに確認しておきたい。
そう思った矢先。
バタン、と扉が勢いよく開いた。
雑な音。
その主が、まるで風ごと部屋に入ってくる。
「――あれ? 珍しいわね」
アスティ。
無造作に上着を脱ぎ捨て、机の上に放る。
控えていた事務官が慌ててそれを拾い上げ、埃を払ってコート掛けに掛ける。
淑女らしさのかけらもない。
本当に――あのグラント兄が惚れた女だというのか。
あれが恋というものなのか。
俺の知っている“理屈”では説明がつかない。
「……ああ、どうも」
とりあえず椅子に掛け直し、軽く頭を下げた。
「先日の件は、とりあえず謝っておくよ。三回は多かったな」
アスティは肩の力を抜いて笑った。
「本当にね。仕事が多いんじゃなくて、分配するのをサボってるのよ、アレは」
“アレ”とは言うまでもなく、グラントのことだ。
本当に怠惰なのは誰か――言外にそう主張している。
なるほど、彼女の言葉にも一理ある。
グラント兄は、情報や権限を手放したがらない。組織の頭は、本来、分配しながら掌握するものだ。アスティの苛立ちはもっともだった。
……少なくとも、先日の剣幕をまだ引きずっている様子はない。
それが何よりの救いだった。
引きずらない女は強い。
そういうところは、確かにグラント兄が好みそうだった。
「あまりにアスティが俺の恋路を邪魔するから、腹いせに全部を現実にしてやろうかと八つ当たりしたことは――言い訳しない」
言いながら、我ながら子供じみていると思う。
だが、あの時の俺は本気で苛立っていた。
言葉で封じられ、理屈で縛られ、道徳で打たれた。
理性が邪魔になるほど、リシェリアへの想いは焼けていたのだ。
アスティの前でそう口にしても、彼女は眉ひとつ動かさない。
飽きたように腕を組み、ただ聞いていた。
「で、なぜかセランから、“お許し”が出るらしいって話でね」
自分でも苦笑いしながら続ける。
「だから――もらいに来たというわけだ」
俺は微笑んで、手を差し出した。
「切り札としてリシェリアに渡すんじゃなくて、先に俺に渡せ。全部把握した上で、全部裏をかいてやる。……ほら、早く」
アスティはため息をつき、半ば呆れたように目を細めた。
「そういうことだと思った」
そのまま書棚へ向かい、背伸びをしていくつかの本を選び出す。
そして、こちらを一瞥するや否や、分厚い規則集を放ってよこした。
「昨日の今日で、まだ作ってないわよ。これでも読んでなさい」
ドサッ。
机の角にぶつかった鈍い音。
「誰が読むか」
思わず吐き捨てる。
拾う気もない。
「一般常識にのっとって、公的な場所で男女の関係を思わせるような所作をしない――ただそれだけでしょ」
アスティは机に腰を預け、胡乱げな目で俺を見下ろした。
「何がそんなに難しいの?」
「そもそも、人の目に見えるところでしていなかっただろう」
反論のつもりで口にした。
自分でも少し情けない言い訳だと思ったが、それでも言わずにはいられなかった。
そのくらいの倫理はある。
上司の婚約者に手を出すなど、どこの国でも最悪の不義だ。
そう言い訳しかけた俺の口を、次の一言が塞いだ。
「私が“人”でないとでも?」
アスティの声が、低く落ちた。
しまった、と思った瞬間にはもう遅かった。
俺はアスティを見落としていたのではない。見えていた。見えていた上で、都合よく勘定から外していた。
目を逸らす間もなく、彼女は真面目な声で続ける。
「……人の目に触れなければいいって話じゃない。ここは開かれた場所なの」
声に冷ややかな芯が通っている。
「リシェリアの立場上、いつでも監視や間諜の目があると考えるべきよ。城内では執務室でも私室でも、絶対に安全な場所なんてないの」
そう言って長椅子に腰を下ろし、脚を組み替えた。
完全に“上司”の顔になっている。
その姿勢に、無駄な隙が一切ない。
「そのくらい、わかってると思っていたわ。……わかっていてほしかった」
言葉が重く落ちた。
知っていたはずだった。
城内に絶対などないことも、リシェリアという存在がどれほど多くの目を引くかも、俺は知らなかったわけではない。
知らなかったのではない。
あの時だけ、都合よく考えないことにした。
リシェリアの温もり、声、呼吸の近さ――そればかりに意識を奪われ、その場にいた人間、その場が持つ意味、その場へ差し込むかもしれない無数の視線を、すべて自分の欲の外側へ追いやっていた。
彼女の日常、彼女の未来。
それを守ることは、俺も、セランも、同じ願いのはずだった。
深く息を吸い、居ずまいを正す。
アスティへ向けて、これまでの態度を詫び、素直に頭を下げた。
「……すまない。今後は、そういったことがないよう誓約する」
「儀式における接触、一般的なエスコート――それ以外の行為は……彼女から近づかれても、辞退する」
言葉にした瞬間、手のひらの感覚が先に疼いた。
髪の冷たさも、指先に残る薄い体温も、もう自分から確かめにいってはいけない。理解するためだと、支えるためだと、どれほど名を変えても同じことだ。
触れたいという欲が先にあるなら、それはもう俺の都合だった。
それでも、飲み込んだ。
アスティは、静かに頷いた。
「うん。気を付けて」
その声音には、嘲りも怒気もなかった。
ただ、受け止めた上で次へ進ませる、指揮官の平静さがあった。
……こういうところで、こちらが無様に見える。
少し肩の力が抜ける。
少なくとも、今ここで叩き出されることはなさそうだった。
気になっていたことを切り出す。
「……ところで、あの駄犬。泣いてたが――何か、あったのか?」




