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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
23章 獣の調伏
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赤と黒の応酬

気持ちが沈んだまま退室し、兵舎に戻る途中だった。

もうこれより謹慎だ。

解かれるまでは、リシェに会うことはできない。任務で通る以外、庭にすら寄りつくこともできない。


だから……せめて。

最後に、遠目にでもリシェの姿を見たかったのだと思う。見るのが無理でも、庭の匂いを記憶して部屋に持ち帰りたかった。

足は勝手に、兵舎へ戻る途中にある庭沿いの回廊を選んでいた。

 

今、いない時間だろうけど、何かの間違いで庭にいてくれやしないだろうか。


大樹様よ。庭の世話を結構してやったろ。一目でいいから、俺に恵んでくれないか。


そう思った矢先に目に入ったのは、恋い焦がれた白銀の残像ではなくて、黒い色。


薄紫の空の名残が、まだ天窓の端に淡く残っている。

石畳は昼の熱をわずかに残していて、靴底の感触が微かに温かい。風もなく、どこか世界そのものが息を潜めているような、そんな静けさの中で――奴が歩いていた。


大樹も俺を甘やかす気はないらしい。


……枯れちまえなんて思ったもんな、天罰か。

 

庭に続く夕暮れ過ぎの静まり返った回廊にいたのは、カイルだった。


カイル。


つい先日、喧嘩をふっかけてきた男。

その時の俺は余裕綽々で、勝ち誇ったように無視してやった。

勝っていたと思った。

でも今は、ただの敗北感しかない。


……少なくとも、カイルの方が“正しい”男だ。

大人で、地位も名誉もあり、頭も切れる。


リシェを導ける。

リシェの心を見て、教え、支えることができる。

リシェをきちんと愛していて、守ってもくれる。

俺より……リシェに相応しいかもしれない男。


カイルは歩を緩めもせず、静かな足取りでこちらへ近づいてくる。

その動きには迷いがなかった。

視線が一瞬絡んで、俺を認識したらしい。

けれど、表情ひとつ変えずに通り過ぎようとする。


「……よう」

 

喉が勝手に鳴った。

引き止めたくて、けれど何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。


「ああ」

 

冷ややかに返す声。短く、切り捨てるような一音。

足音もそのまま遠ざかろうとする。

 

……そりゃそうか。

前回、俺が取り合わなかったもんな。やり返されても仕方がない。


「……あのさ」

 

思わず、背に向かって呼びかけた。

情けないほど声が掠れて、後ろめたさが滲む。


それでも足音は止まらない。

引き留めることができない。

 

そうだ。

これじゃ、駄目だ。


庭という例外を出れば、俺は一兵卒で、彼は上級祭祀官。

そもそも対等に話す権利はない。

リシェのことで張り合わないのなら、俺とこいつの間には、髪の毛一本ほどの関係もない。

 

「アーレンス担当官殿」


こちらを見ていなくても構わない。

声を張った。

兵士の礼をとった。


「ご報告したいことがございます」


そこまで言うと、カイルが足を止めてくれた。

ゆっくりと、振り返る。


「……なんだ? 暇ではない。手短に」

 

視線が鋭い。

探るような眼差しに、ほんの一瞬、呼吸が詰まる。


「あ……あの」


何を言いたかったのか、心の奥から掘り出すように、言葉を探す。

何から切り出せばいいのか、どう繋げればいいのか。

もう、俺の口は、アスティの前にいた時から思うように動かなくなっていた。

視線が痛くて、目を思わず逸らした。

 

沈黙。


あの灰紫の目に、どう見られているのか。

今、俺はこの城の誰よりも弱い気がした。

 

カイルの小さい溜息が聞こえた。


「一体なんなんだ……私用だろう? 早くしてくれ。どうせ使い慣れなくて言葉が出ないんだろうが。他に人がいるわけでもない。別にいつも通りに話すといい」


カイルは無視して去ってもよかった。

それなのに、わざわざ身分差を崩してまで俺に迎合してくれている。


この男に、ここまで譲ってもらって、……これ以上、見下げ果てられたくない。

ようやく、重かった口が開いた。


「禁止項目……俺が口出した分は撤回するってアスティに言った」

 

息を吸って、吐く。

 

「残るのは元々ある城内の規則だろうから、俺は関与できない。詳細は、アスティに聞いてくれ」


視線がようやく上げられた。

カイルの瞳が、わずかに細く揺れている。

探るでも、怒るでもない。ほんの、戸惑いにも似た瞬きだった。


「……あと。頼みがある」


カイルは何も言わず、目だけで続きを促してくる。

 

喉が乾く。

言葉が出にくい。

それでも言わなければならない。


朝にジェスを恫喝まがいに責めたこと。

でも今は、嘆願しなければならない。

リシェのために。それこそ、後でジェスにも謝る必要がある。

 

「禁止なんてしてなくても――リシェリアに、“死ぬ”とか“殺す”とか、そういう言葉を使わないでほしい。あいつ、そういうのが苦手なんだ。人が傷ついたり、死ぬようなことを……思わせないでやってくれ」

 

胸の奥から押し出すようにして言う。

俺の誇りなんて、もうどうでもいい。

こう言えば、きっとカイルは気にしてくれるはずだ。

 

「……どうか、お願いします。それだけです」


深く頭を下げた。

石畳に額が触れそうなほど。


風がないのに、衣の裾だけがふっと揺れた気がした。


「一体、どういう風の吹き回しでそんなことを?」

 

低い声。

顔を上げると、カイルは腕を組み、柱に寄りかかって、俺を胡散臭げに見ていた。

 

その目は冷たいまま。

だが皮肉も嘲りもなかった。見下されてはいない。

ただ、真っ直ぐに見極めるように――静かに俺を見ていた。


「別に……」

 

顔を上げ、息を整える。


もう、負けたくない。

この男に、人間としてすでに負けていたとしても、男として負けたくない。


対等に向かい合って……それで勝ちたい。


「これまでも、これからも。リシェを譲る気なんて、欠片もない。……ただ、今までは公平じゃなかったからな。これは、俺からの施しだ。同じ舞台に立たせてやろうと思って」


わかってる。これはただの虚勢だ。それでも、強がるしか立っていられない。


「公平?」

 

眉をひとつ上げ、カイルは唇の端をわずかに動かした。

 

「油断の間違いでは? そんなにお前に余裕があるとでも?」


カチリと、心の奥で何かが鳴った。

挑発でも、軽口でもない。

真剣な皮肉。


――それがかえって火をつけた。


「……俺だけ、昔からの知り合いだし、仲が良くて、警戒されてなくて。

その上、俺の方が強くて、格好よくて、リシェに好かれている。今までごめんな、有利すぎただろ? これが不公平なんだよ」


自嘲まじりに言い放つと、胸の奥のもやが少し晴れた気がした。

 

「だから――お前にも戦える機会をやる」


口にした瞬間、久々に血が巡る。

笑ってやりたい衝動と、泣き出したい気持ちが同居する。

もうこれから、いつまでリシェに会えないのかも分からないのに。


馬鹿みたいだと思う。

それでも、リシェのことになると、どこまでも真っすぐでいたい。


カイルは返事をしなかった。

睨むだけ。

けれど、その沈黙は完全な拒絶ではなかった。

何かを呑み込んでいるようにも見えた。


せめて、こいつの視界にだけは残らないと。


「……あんたに倣って、俺も愛を伝えたよ」

 

続ける。

喉が震える。

 

「リシェは『俺なしで生きていけない』ってさ。絶対に幸せにするって約束する。……だから、安心してくれ」


そこまで言って、少し笑ってみせた。

 

「きっと祝福してくれるよな? 婚礼の司祭は、あんたに頼むよ」


冗談のように言ってみせたが、強がりに笑いきれなかった。

言葉の端に、震えが滲むのが分かった。


カイルの眼差しがすっと遠のく。

背を向け、踵を返した。

もう、表情は見えなかった。


「……まあ、貴様が言ったことに関してはわかった。生憎、お前と並ぶために、地面に降りて土埃に裾を汚したくない。せいぜいお前が階段を上るんだな」

 

低い呟きが、背中越しに落ちた。

振り返らないまま、彼は言い捨てた。

 

「野良犬風情が、俺とリシェリアの婚礼の式場に入れると思うな」

 

短く笑う。

 

「はん。……だが、義理とはいえ可愛い妹の、一生に一度の婚礼衣装が見られないのは、なんとも哀れだな。――馬車の御者をお前に頼むことにする。練習しておくことだ」


回廊の奥へと、灰色の背が遠ざかっていく。


夕陽の残り火が、彼の背を照らして、影を長く引いていた。

その影の先に、俺の影が重なり、少しだけ揺れた。


随分な言われように、久しぶりに、腹の底が煮えるようなムカつきを感じた。


……でも、今は、これでいい。

恐怖や後悔、そして暗い独占欲で濁り切った心を、その火が焼き尽くしてくれそうに思えた。

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