赤と黒の応酬
気持ちが沈んだまま退室し、兵舎に戻る途中だった。
もうこれより謹慎だ。
解かれるまでは、リシェに会うことはできない。任務で通る以外、庭にすら寄りつくこともできない。
だから……せめて。
最後に、遠目にでもリシェの姿を見たかったのだと思う。見るのが無理でも、庭の匂いを記憶して部屋に持ち帰りたかった。
足は勝手に、兵舎へ戻る途中にある庭沿いの回廊を選んでいた。
今、いない時間だろうけど、何かの間違いで庭にいてくれやしないだろうか。
大樹様よ。庭の世話を結構してやったろ。一目でいいから、俺に恵んでくれないか。
そう思った矢先に目に入ったのは、恋い焦がれた白銀の残像ではなくて、黒い色。
薄紫の空の名残が、まだ天窓の端に淡く残っている。
石畳は昼の熱をわずかに残していて、靴底の感触が微かに温かい。風もなく、どこか世界そのものが息を潜めているような、そんな静けさの中で――奴が歩いていた。
大樹も俺を甘やかす気はないらしい。
……枯れちまえなんて思ったもんな、天罰か。
庭に続く夕暮れ過ぎの静まり返った回廊にいたのは、カイルだった。
カイル。
つい先日、喧嘩をふっかけてきた男。
その時の俺は余裕綽々で、勝ち誇ったように無視してやった。
勝っていたと思った。
でも今は、ただの敗北感しかない。
……少なくとも、カイルの方が“正しい”男だ。
大人で、地位も名誉もあり、頭も切れる。
リシェを導ける。
リシェの心を見て、教え、支えることができる。
リシェをきちんと愛していて、守ってもくれる。
俺より……リシェに相応しいかもしれない男。
カイルは歩を緩めもせず、静かな足取りでこちらへ近づいてくる。
その動きには迷いがなかった。
視線が一瞬絡んで、俺を認識したらしい。
けれど、表情ひとつ変えずに通り過ぎようとする。
「……よう」
喉が勝手に鳴った。
引き止めたくて、けれど何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。
「ああ」
冷ややかに返す声。短く、切り捨てるような一音。
足音もそのまま遠ざかろうとする。
……そりゃそうか。
前回、俺が取り合わなかったもんな。やり返されても仕方がない。
「……あのさ」
思わず、背に向かって呼びかけた。
情けないほど声が掠れて、後ろめたさが滲む。
それでも足音は止まらない。
引き留めることができない。
そうだ。
これじゃ、駄目だ。
庭という例外を出れば、俺は一兵卒で、彼は上級祭祀官。
そもそも対等に話す権利はない。
リシェのことで張り合わないのなら、俺とこいつの間には、髪の毛一本ほどの関係もない。
「アーレンス担当官殿」
こちらを見ていなくても構わない。
声を張った。
兵士の礼をとった。
「ご報告したいことがございます」
そこまで言うと、カイルが足を止めてくれた。
ゆっくりと、振り返る。
「……なんだ? 暇ではない。手短に」
視線が鋭い。
探るような眼差しに、ほんの一瞬、呼吸が詰まる。
「あ……あの」
何を言いたかったのか、心の奥から掘り出すように、言葉を探す。
何から切り出せばいいのか、どう繋げればいいのか。
もう、俺の口は、アスティの前にいた時から思うように動かなくなっていた。
視線が痛くて、目を思わず逸らした。
沈黙。
あの灰紫の目に、どう見られているのか。
今、俺はこの城の誰よりも弱い気がした。
カイルの小さい溜息が聞こえた。
「一体なんなんだ……私用だろう? 早くしてくれ。どうせ使い慣れなくて言葉が出ないんだろうが。他に人がいるわけでもない。別にいつも通りに話すといい」
カイルは無視して去ってもよかった。
それなのに、わざわざ身分差を崩してまで俺に迎合してくれている。
この男に、ここまで譲ってもらって、……これ以上、見下げ果てられたくない。
ようやく、重かった口が開いた。
「禁止項目……俺が口出した分は撤回するってアスティに言った」
息を吸って、吐く。
「残るのは元々ある城内の規則だろうから、俺は関与できない。詳細は、アスティに聞いてくれ」
視線がようやく上げられた。
カイルの瞳が、わずかに細く揺れている。
探るでも、怒るでもない。ほんの、戸惑いにも似た瞬きだった。
「……あと。頼みがある」
カイルは何も言わず、目だけで続きを促してくる。
喉が乾く。
言葉が出にくい。
それでも言わなければならない。
朝にジェスを恫喝まがいに責めたこと。
でも今は、嘆願しなければならない。
リシェのために。それこそ、後でジェスにも謝る必要がある。
「禁止なんてしてなくても――リシェリアに、“死ぬ”とか“殺す”とか、そういう言葉を使わないでほしい。あいつ、そういうのが苦手なんだ。人が傷ついたり、死ぬようなことを……思わせないでやってくれ」
胸の奥から押し出すようにして言う。
俺の誇りなんて、もうどうでもいい。
こう言えば、きっとカイルは気にしてくれるはずだ。
「……どうか、お願いします。それだけです」
深く頭を下げた。
石畳に額が触れそうなほど。
風がないのに、衣の裾だけがふっと揺れた気がした。
「一体、どういう風の吹き回しでそんなことを?」
低い声。
顔を上げると、カイルは腕を組み、柱に寄りかかって、俺を胡散臭げに見ていた。
その目は冷たいまま。
だが皮肉も嘲りもなかった。見下されてはいない。
ただ、真っ直ぐに見極めるように――静かに俺を見ていた。
「別に……」
顔を上げ、息を整える。
もう、負けたくない。
この男に、人間としてすでに負けていたとしても、男として負けたくない。
対等に向かい合って……それで勝ちたい。
「これまでも、これからも。リシェを譲る気なんて、欠片もない。……ただ、今までは公平じゃなかったからな。これは、俺からの施しだ。同じ舞台に立たせてやろうと思って」
わかってる。これはただの虚勢だ。それでも、強がるしか立っていられない。
「公平?」
眉をひとつ上げ、カイルは唇の端をわずかに動かした。
「油断の間違いでは? そんなにお前に余裕があるとでも?」
カチリと、心の奥で何かが鳴った。
挑発でも、軽口でもない。
真剣な皮肉。
――それがかえって火をつけた。
「……俺だけ、昔からの知り合いだし、仲が良くて、警戒されてなくて。
その上、俺の方が強くて、格好よくて、リシェに好かれている。今までごめんな、有利すぎただろ? これが不公平なんだよ」
自嘲まじりに言い放つと、胸の奥のもやが少し晴れた気がした。
「だから――お前にも戦える機会をやる」
口にした瞬間、久々に血が巡る。
笑ってやりたい衝動と、泣き出したい気持ちが同居する。
もうこれから、いつまでリシェに会えないのかも分からないのに。
馬鹿みたいだと思う。
それでも、リシェのことになると、どこまでも真っすぐでいたい。
カイルは返事をしなかった。
睨むだけ。
けれど、その沈黙は完全な拒絶ではなかった。
何かを呑み込んでいるようにも見えた。
せめて、こいつの視界にだけは残らないと。
「……あんたに倣って、俺も愛を伝えたよ」
続ける。
喉が震える。
「リシェは『俺なしで生きていけない』ってさ。絶対に幸せにするって約束する。……だから、安心してくれ」
そこまで言って、少し笑ってみせた。
「きっと祝福してくれるよな? 婚礼の司祭は、あんたに頼むよ」
冗談のように言ってみせたが、強がりに笑いきれなかった。
言葉の端に、震えが滲むのが分かった。
カイルの眼差しがすっと遠のく。
背を向け、踵を返した。
もう、表情は見えなかった。
「……まあ、貴様が言ったことに関してはわかった。生憎、お前と並ぶために、地面に降りて土埃に裾を汚したくない。せいぜいお前が階段を上るんだな」
低い呟きが、背中越しに落ちた。
振り返らないまま、彼は言い捨てた。
「野良犬風情が、俺とリシェリアの婚礼の式場に入れると思うな」
短く笑う。
「はん。……だが、義理とはいえ可愛い妹の、一生に一度の婚礼衣装が見られないのは、なんとも哀れだな。――馬車の御者をお前に頼むことにする。練習しておくことだ」
回廊の奥へと、灰色の背が遠ざかっていく。
夕陽の残り火が、彼の背を照らして、影を長く引いていた。
その影の先に、俺の影が重なり、少しだけ揺れた。
随分な言われように、久しぶりに、腹の底が煮えるようなムカつきを感じた。
……でも、今は、これでいい。
恐怖や後悔、そして暗い独占欲で濁り切った心を、その火が焼き尽くしてくれそうに思えた。




