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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
23章 獣の調伏
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見守る者たち

セランが静かに退出し、扉が重く閉じられる音が部屋の空気を変えた。


次の瞬間、控えの間からグラントとリカリオが戻ってきた。

グラントは何も言わず姿勢を正したまま。

リカリオはいつものように朗らかに笑みを湛え、けれどもどこか気遣いの色をにじませていた。


「大変な責務、お疲れ様でございました」


静かに、けれどはっきりと労いの言葉を向けられた私は、緩く肩を落として応じる。


「うん。リコも色々ありがとう。でもまあ、赤変がないのなら、ただの性欲の暴走でしょ。はーぁ、馬鹿馬鹿しい」


あえて陳腐な事象として、矮小化して口に出した。

それだけではないのだろうと思う点はある。それでも声に出した瞬間、ようやく少しだけ胸のつかえが下りる。


わかっていることは少ない。

だがひとつ確かなこととして、昨日は『人の本質を歪めるような魅了』は起きていないことを確かめられた。


あの石たち――襟裏の護石だけでなく、替えの衣服数点に仕込んだもの、武具、袋の底まで含め、全ての石が“変化なし”を示していた。

つまり、昨日のセランの挙動は、リシェリアの力にあてられた異常行動ではないことになる。


今回、リシェリアは加害者じゃない。


ダリオのように誰の制動も利かず、破滅まで止まらない異常性ではない。手を出しかけたことも噛んだことも、セランの衝動の延長線。

もちろん、セランが加害者で良かったという意味じゃない。

彼がそれを望んでいたわけじゃない。

 

分かってる。

あの子を――リシェリアを、大切に思っていることは、誰よりも私が知っている。


この間まで遠征だった。

長く会えなかった。

リシェリアもセランも、共に過ごす時間が減っていた。


焦り、不安、寂しさ。

再会して、何かが極端に振れたのではないか。

それが、理性で押さえつけていたものを緩めた。無意識の時に境を越えてしまった。先ほど叩き潰すまで、あいつの中に燻っていた濁り。それに不安を覚えたのも確かだ。

それでも、それは歪められた異常ではない。今回は打ち払えた。

 

それなら……矯正できる。是正もできる。道を間違えないように、まだ導ける。


それこそが救いだった。


「どうせやらかすなら、自己嫌悪じゃなくて……にやけた惚け面でも晒してくれていれば、今日は平手打ち程度で済ませてやったのに」


吐き捨てるように言いながらも、私は背凭れに体を預ける。

背中がようやく沈み込む。

疲れの波が、押し寄せてくる。


「大体、なんで噛むのよ。それじゃ本当に犬じゃない」


頭の中でだけ呟いたつもりが口をついてこぼれていた。


「アストリット」


背後から、グラントが控えめに咎めるように呼ぶ。

何か言いたげだが、言葉を飲み込んだように。

視線だけが、心配そうに向けられる。


こういった男女の機微に、公女が口を出すべきじゃないのは分かってはいる。

だけれど愚痴らずにはいられなかった。


起きたことの詳細を、二人は知らない。

ただ、セランがリシェリアに怪我をさせたという事実だけ。

それでも、私やセランの態度、場の雰囲気から、ある程度のことは察しただろう。


「っと失礼。この分だと、先日のジェスの件も恐らく同じね。……多分、セランのせいだから」


「さもありなん。……先ほどまでの顔はかなり良くなかったですからな」


リカリオが苦笑いで頭を抱えた。


先日のジェスの石が赤変した原因自体は、まだ掴めていない。ただ、昨日のリシェリアとの会話で、得られたことはあった。リシェリアは、恋に対してかなり不安定に揺れていた。異能が無意識に走る要件は、霊質を溜め込んでいる時、そして危険に瀕した時だと聞いている。けれど、もうひとつ根本的な要因がある。精神の異常な不安定さだ。そもそも異能は、意識が乱れれば制御を外すとされているのだから。


今までリシェリアに安心を与えていたはずのセランが、逆に不安の原因になっていた。昨晩、私に教えてくれたような、恋に対する怯えや竦みが、発動を引き起こしたのではないか。


……昨日までのリシェリアには、その恐怖を吐露できる相手が、ほとんどジェスしかいなかったのだから。


「しかし、あいつ。加減ってものを知らないのかしら」


「はっはっは。未熟な小童に、一度、総長自ら女遊びの何たるかをお教えになってはいかがですか」


茶化すようにリカリオが言い、私がふっと笑う。

タイミングの悪い冗談ではあるが、そういう軽さに救われることもある。


「ハーティ。余計なことを言うな」


グラントは顔を手のひらで覆い、呆れたようにため息をついた。

リカリオは、グラントが私に何を言ったか知らない。だからこそ、こんな冗談も言えるのだろう。

それが逆に、滑稽だった。


「そうね。そうしたら?」


私は、椅子の背に頭を預けたまま、半眼で後ろのグラントを振り返った。

胡乱げな視線をわざと向ける。


「いえ、駄目ね。……よく後始末の手伝いをさせられていることを思い出したわ」


グラントが断った婦人からの手紙の返送、気を持たせた令嬢からの招待を断るための口裏合わせ。門前に待ち構えた女性の応対。


グラントがきちんと終わらせていたとしても、相手の感情が割り切れずに騒がしくなることはままあった。


「……意見は差し控える」


返ってきたのは、唇を結んだ声。

冗談に逃げもせず、また誠実すぎもしない。


「いや、いい薬になったでしょう。目の色は戻っていたようです」


リカリオは、グラントのために話を変えたのか、思い出すように遠くを見た。

口元に浮かんだ笑みが、いつもの飄々としたものとは違い、どこか優しさを含んでいた。


「坊主もがさつに見えて……思い詰める気性ですからね。ああいうやつは突き飛ばしてでも、目を覚まさせてやらないといけません。……私ら兵士は剣になれても、心に寄り添うことはなかなかできませんから。今回の過分なご配慮、ありがとうございました」


ダリオのこと。

あの時、誰も止められなかった。

それが悔しくて、今でも胸の中に残っている。

だからこそ、リカリオの言葉は、真実の重みを持って響いた。

止められた――そう言える今が、どれほど貴重なことか。


「ふん。リコはそんなことないでしょう」


つい、口が緩んだ。

リカリオは、軍人としての線を踏み越えず、それでも人の心を見ている。

そういう、稀有な右腕だ。


「ははぁ、こりゃどうも」


照れくさそうに頭を下げるリカリオ。

それでも、その目はいつも通り頼もしい。


「総長、副総長、私もそろそろ通常業務に戻ります。失礼いたしました」


きちんと礼をして、静かに部屋を後にした。


扉が閉まったあと、再び静寂が訪れる。

空気が一段落したように感じられた。


「私ももう行くわ。あいつの謹慎で組み直す当番が出てくるから。グラントもありがとう。背中、ちゃんと冷やしておいてね」


立ち上がりながら振り返ると、グラントは無言で肩を竦めてみせた。

その様子に、少しだけ口元が綻んだ。

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