見守る者たち
セランが静かに退出し、扉が重く閉じられる音が部屋の空気を変えた。
次の瞬間、控えの間からグラントとリカリオが戻ってきた。
グラントは何も言わず姿勢を正したまま。
リカリオはいつものように朗らかに笑みを湛え、けれどもどこか気遣いの色をにじませていた。
「大変な責務、お疲れ様でございました」
静かに、けれどはっきりと労いの言葉を向けられた私は、緩く肩を落として応じる。
「うん。リコも色々ありがとう。でもまあ、赤変がないのなら、ただの性欲の暴走でしょ。はーぁ、馬鹿馬鹿しい」
あえて陳腐な事象として、矮小化して口に出した。
それだけではないのだろうと思う点はある。それでも声に出した瞬間、ようやく少しだけ胸のつかえが下りる。
わかっていることは少ない。
だがひとつ確かなこととして、昨日は『人の本質を歪めるような魅了』は起きていないことを確かめられた。
あの石たち――襟裏の護石だけでなく、替えの衣服数点に仕込んだもの、武具、袋の底まで含め、全ての石が“変化なし”を示していた。
つまり、昨日のセランの挙動は、リシェリアの力にあてられた異常行動ではないことになる。
今回、リシェリアは加害者じゃない。
ダリオのように誰の制動も利かず、破滅まで止まらない異常性ではない。手を出しかけたことも噛んだことも、セランの衝動の延長線。
もちろん、セランが加害者で良かったという意味じゃない。
彼がそれを望んでいたわけじゃない。
分かってる。
あの子を――リシェリアを、大切に思っていることは、誰よりも私が知っている。
この間まで遠征だった。
長く会えなかった。
リシェリアもセランも、共に過ごす時間が減っていた。
焦り、不安、寂しさ。
再会して、何かが極端に振れたのではないか。
それが、理性で押さえつけていたものを緩めた。無意識の時に境を越えてしまった。先ほど叩き潰すまで、あいつの中に燻っていた濁り。それに不安を覚えたのも確かだ。
それでも、それは歪められた異常ではない。今回は打ち払えた。
それなら……矯正できる。是正もできる。道を間違えないように、まだ導ける。
それこそが救いだった。
「どうせやらかすなら、自己嫌悪じゃなくて……にやけた惚け面でも晒してくれていれば、今日は平手打ち程度で済ませてやったのに」
吐き捨てるように言いながらも、私は背凭れに体を預ける。
背中がようやく沈み込む。
疲れの波が、押し寄せてくる。
「大体、なんで噛むのよ。それじゃ本当に犬じゃない」
頭の中でだけ呟いたつもりが口をついてこぼれていた。
「アストリット」
背後から、グラントが控えめに咎めるように呼ぶ。
何か言いたげだが、言葉を飲み込んだように。
視線だけが、心配そうに向けられる。
こういった男女の機微に、公女が口を出すべきじゃないのは分かってはいる。
だけれど愚痴らずにはいられなかった。
起きたことの詳細を、二人は知らない。
ただ、セランがリシェリアに怪我をさせたという事実だけ。
それでも、私やセランの態度、場の雰囲気から、ある程度のことは察しただろう。
「っと失礼。この分だと、先日のジェスの件も恐らく同じね。……多分、セランのせいだから」
「さもありなん。……先ほどまでの顔はかなり良くなかったですからな」
リカリオが苦笑いで頭を抱えた。
先日のジェスの石が赤変した原因自体は、まだ掴めていない。ただ、昨日のリシェリアとの会話で、得られたことはあった。リシェリアは、恋に対してかなり不安定に揺れていた。異能が無意識に走る要件は、霊質を溜め込んでいる時、そして危険に瀕した時だと聞いている。けれど、もうひとつ根本的な要因がある。精神の異常な不安定さだ。そもそも異能は、意識が乱れれば制御を外すとされているのだから。
今までリシェリアに安心を与えていたはずのセランが、逆に不安の原因になっていた。昨晩、私に教えてくれたような、恋に対する怯えや竦みが、発動を引き起こしたのではないか。
……昨日までのリシェリアには、その恐怖を吐露できる相手が、ほとんどジェスしかいなかったのだから。
「しかし、あいつ。加減ってものを知らないのかしら」
「はっはっは。未熟な小童に、一度、総長自ら女遊びの何たるかをお教えになってはいかがですか」
茶化すようにリカリオが言い、私がふっと笑う。
タイミングの悪い冗談ではあるが、そういう軽さに救われることもある。
「ハーティ。余計なことを言うな」
グラントは顔を手のひらで覆い、呆れたようにため息をついた。
リカリオは、グラントが私に何を言ったか知らない。だからこそ、こんな冗談も言えるのだろう。
それが逆に、滑稽だった。
「そうね。そうしたら?」
私は、椅子の背に頭を預けたまま、半眼で後ろのグラントを振り返った。
胡乱げな視線をわざと向ける。
「いえ、駄目ね。……よく後始末の手伝いをさせられていることを思い出したわ」
グラントが断った婦人からの手紙の返送、気を持たせた令嬢からの招待を断るための口裏合わせ。門前に待ち構えた女性の応対。
グラントがきちんと終わらせていたとしても、相手の感情が割り切れずに騒がしくなることはままあった。
「……意見は差し控える」
返ってきたのは、唇を結んだ声。
冗談に逃げもせず、また誠実すぎもしない。
「いや、いい薬になったでしょう。目の色は戻っていたようです」
リカリオは、グラントのために話を変えたのか、思い出すように遠くを見た。
口元に浮かんだ笑みが、いつもの飄々としたものとは違い、どこか優しさを含んでいた。
「坊主もがさつに見えて……思い詰める気性ですからね。ああいうやつは突き飛ばしてでも、目を覚まさせてやらないといけません。……私ら兵士は剣になれても、心に寄り添うことはなかなかできませんから。今回の過分なご配慮、ありがとうございました」
ダリオのこと。
あの時、誰も止められなかった。
それが悔しくて、今でも胸の中に残っている。
だからこそ、リカリオの言葉は、真実の重みを持って響いた。
止められた――そう言える今が、どれほど貴重なことか。
「ふん。リコはそんなことないでしょう」
つい、口が緩んだ。
リカリオは、軍人としての線を踏み越えず、それでも人の心を見ている。
そういう、稀有な右腕だ。
「ははぁ、こりゃどうも」
照れくさそうに頭を下げるリカリオ。
それでも、その目はいつも通り頼もしい。
「総長、副総長、私もそろそろ通常業務に戻ります。失礼いたしました」
きちんと礼をして、静かに部屋を後にした。
扉が閉まったあと、再び静寂が訪れる。
空気が一段落したように感じられた。
「私ももう行くわ。あいつの謹慎で組み直す当番が出てくるから。グラントもありがとう。背中、ちゃんと冷やしておいてね」
立ち上がりながら振り返ると、グラントは無言で肩を竦めてみせた。
その様子に、少しだけ口元が綻んだ。




