私心の叱責
「疲れた……あんた重いのよ……」
天井を仰いで息をつくアスティの声は、ついさっきまでの冷たい威厳をすっかり脱ぎ捨てていた。
木剣で殴った手のひらをひらひら振りながら、肩の力を抜いている。
まるで別人のように軽い。
いつもの、姉のような顔だ。
グラント様はその仕草を見て意を得たように、静かに隣の控え室へと退いた。
扉が閉まる音が、わずかに響く。
リカリオもそれに続こうとして、アスティに短く報告した。
「先ほど検めましたが、直近にも赤変ございません」
赤変。
その言葉に、胸の奥が冷える。
さっきリカリオが覗き込んでいたのは、俺の目か、顔色か、それとももっと別の何かだったのだろう。
アスティは無言で頷き、軽く手を上げてそれを承認した。
その一瞬で、室内の空気が少しだけ緩む。
去り際、リカリオがこちらを振り返った。
その目は、少し細められて――まるで「頑張れよ」とでも言いたげな、気のいいおっさんの表情だった。
たぶん、励ましてくれたんだろう。
けれど、俺は頷くことすらできなかった。
「さて」
アスティがようやく息をつく。
椅子の背に凭れながら、指先で机を軽く叩いた。
「今出ていった二人は、別に何も知らないわ。私刑になると困るから立ち会わせただけ。……でもね、もしこのあと“とんでもないこと”が分かったら――もちろん私刑よ」
にっこりと微笑んだその顔が、逆に怖い。
柔らかい笑みほど、これほど冷ややかに見える瞬間はない。
「……はい」
反射的に返事をした。
それしかできなかった。
アスティは腕を組んで、まっすぐこちらを見据えた。
「まず言っておくけど、リシェリアは悪くない。私が聞き出しただけ。彼女は何も訴えていない。けど、表向きにも規則破りは見逃せないし、泣いてたリシェリアを、城門から中まで運んだのを誰が見たかも分からない。……だから、どんなに不服でも理解しなさい」
言葉の端が、わずかに柔らかい。
だが、そこに逃げ道はなかった。
俺の中にある反発や後悔を、全部読まれている。
心の底まで見透かされている。
「いえ……当然です」
声を押し出すと、喉がひどく痛かった。
アスティは小さく頷いた。
そのまま椅子に深く腰を沈め、目を細める。
「実際ね、二人の間の話なんて、どうでもいいのよ。くっつこうが別れようが、そんなものは個人の自由。私たちは、聖女としてここにいてもらう約束をしただけでしょ。別にあんたたちを拘束してるわけじゃない。今から出て行くことも止められない。頼んでいたことが終われば、二人で自由に去っていい。好きにして」
言い切ってから、少しだけ笑みを浮かべた。
「残ってくれるなら、それは嬉しいけどね。そのための相談ならいくらでも乗る。特にリシェリアは、もう私の友達だから」
――友達。
その一言が胸に刺さる。
リシェを思い浮かべる。
俺にとっては、友達どころか命のすべてなのに。
「そんで。……あんた、寝ぼけて手籠めにしようとしたって?」
あまりに軽く、あまりに直球だった。
あっけらかんと投げつけられて、心臓が跳ねる。
「んなこと! 結局、口づけしか……。あ……。いや、そうです……」
否定の言葉が途中で途切れた。
頭の中で、あの光景が蘇る。
昼寝をしていたリシェの唇を奪っていた。
たまたまそれで済んだだけで、あの時起きられなければ、俺の手や体はその先へ進めただろう。
あの時は、嫉妬で噛みつくほどに、我を失っていたのだから。
欲望に抗えたとは思えない。
「歯形が残るほどの、ねえ」
「っ……。申し開きは……ありません」
言い訳なんてできない。
どんな言葉でも到底ごまかせない。
思い出すたび、胸の中で何かが焼ける。
アスティが少し眉を上げた。
「それ以外にも。何度も小屋に連れ込んでたとか? そんないかがわしい交流をさせるためにあんたを庭の管理者にしたわけじゃない。カイルに制限をかけさせておいて、よくもまあ、好き勝手してくれたわね」
あからさまに指摘されて、羞恥が襲った。
「中では、作業の手を止めさせるほど、まとわりついて邪魔してたって?……どちらがあやされるのかしらね」
「……」
邪魔。
小屋の内部のことを知っているということは、リシェから聞いたからでしかない。
不愉快、目障り。その類の感情があの時のリシェにもあったのだとしたら……俺は。
死にたい。
ここにリシェがいなくてよかった。
おそらく今、俺は再び死相を浮かべている自覚がある。
俺はあまりにも酷い顔をしていたのだろう。
アスティすら少し顔の筋肉を軋ませ、戸惑ったような語調に変わった。
「いや、あんたたちにとっては、日常……。いつもの“安眠のおまじない”の上位みたいなもんなんだろうけど。ここの常識と決まりは違うんだって、いい加減認識しろって話をしているの。……少なくとも、リシェリアがそう言ったわけじゃない」
リシェに悪感情を持たれていないと分かっただけで、胸の奥に少し救いが差した。
アスティは、容赦なくそこを突く。
「……まだ分かってないのね。問題はそこじゃない。許されたみたいな顔するんじゃない」
「!」
胸の奥に差しかけた救いが、その一言で砕けた。
救いだと思ったものが、またリシェの優しさに縋るための言い訳だったと気づく。
「カイルもそうだけど。あんたたちさ、子供じゃあるまいし。“僕は可愛いでしょう”“僕は可哀そうでしょう”って顔をしていれば、リシェリアに選んでもらえるとでも? そんな男があの子の隣に相応しいと思っているわけ? 一喜一憂してる暇があるなら、自分を飼い慣らしなさいよ」
空気がまた冷たくなる。
断罪の刃が、喉元に戻ってきた。
「リシェリアの力は、癒すことができる。……そして壊すこともできる。あらゆるものを蹂躙できる。だから彼女は、壊さないために、自分の心を殺してきたんでしょうが」
アスティの声が静かに響く。
「リシェリアが、優しく何でも受け入れてくれるのは、波を立てないため」
それは怒りでも、嘲りでもない。
痛みを知る者の声だった。
「――あんたは、それがなぜかを一番知ってるんじゃないの」
指先が俺を指した。
鋭い言葉が、真実を貫く。
アスティがどれほど知っているのかは分からない。
だけど俺は確かに知っている。
知っているさ。
俺は、その後の静けさを知っている。
賊の拠点が、過激な異教徒の集まりが、そこにあったはずの声ごと消えた後の、あの不自然なほど澄んだ空気を知っている。
そして、その中心で何も覚えていないような顔をして震えていたリシェを、抱えてきた。
実際に起こしたのは、片手の指にも満たない。
消したリシェ自身は、自分が何をしたのか鮮明な記憶を持っていない。
それでも、きっと……無意識には知っている。
だから命に関わることを恐れている。
「リシェリアは自分が原因で、他人が傷つくことを何より恐れている。……今まで何度、その胸でリシェリアの悪夢を宥めてきた? なのに、どうしてそれを忘れて、抉るようなことができるの」
言葉が出ない。
唇が震える。
「だけど、ようやく今、リシェリアは息を吹き返そうとしてる。生き方を、力の使い方を、学んで。誰も傷つけずに、自分も殺さずに生きられるってわかって、ずいぶん明るくなったでしょ」
アスティの瞳が少しだけ濡れて見えた。
「リシェリアは、あんたの待遇が良いなら、って聖女の任を引き受けてくれた。それはきっと、あんたが怪我するような生活をさせないためでしょ。……あんまり守れてないけど。そこはごめん」
その声は、怒りよりも悲しみに近かった。
アスティもリシェを守ろうとしている。
そして、俺を守ろうとしている。
だからこそ、厳しい。
「だから。そのあんたが――セランが。リシェリアに恋してることを原因にして、今もそんな簡単に“死にたい”なんて顔をしないでくれる? 自己嫌悪で潰れるのは勝手だけど、それでリシェリアを苦しませるくらいなら……ここから消え失せて。今すぐ」
声が震えていた。
怒号ではない。
心からの願いのように、真剣だった。
「『白の聖女の赤の騎士』だっけね、笑っちゃう。あんたが守ってるのは、自己満足だけじゃない?」
そう言いながらも笑っていない。
嗤ってもいない。
あらゆる感情が混ざり合って、何も見えなくなっていた。
怒りでも悔しさでもない。
胸の奥が、溶けてしまいそうに熱い。
「申し訳……あり、ません……」
視界が滲んで、床の模様すらぼやけて見える。
目の奥が焼けるように痛むのは、泣いているからだと気づくのに、少し時間がかかった。
泣くなんて――いつ以来だろう。
幼いころ、骨折した時か。
ウルガを埋めた夜か。
あの時も、胸が裂けるほど苦しかった。
「それで? いつ出て行くかを決めなさい。今すぐとは言ったけど、さすがに今までの謝礼は持たせるつもりだから」
アスティの声音は一切揺らがなかった。
もうくだらぬ事柄は遮断したかのように冷徹だった。
もちろん、絆すために泣いているわけではなかったけれど、それでも感嘆した。
ああ、この人は強い。
見習わなければ。学ばないと。喰らいつかないと。
ここで項垂れて、罰を受けた顔をしていれば、また誰かが手を差し伸べてくれるかもしれない。
だが、それでは何も変わらない。
泣いて、潰れて、誰かに拾われるのを待つのは、もう違う。
「消えません。去りたくありません」
かろうじて絞り出した声は、自分でも信じられないほど弱かった。
それでも、はっきり言わなければならなかった。
「自分が、至りませんでした。このような事はもうないと約束します。どのような処分も受けます。……ですから、どうかこのまま、シルヴィナスの大樹にお仕えさせてください」
俺は、間違っていた。
リシェを守ると言いながら、本当は――守られていた。
そして俺は、リシェを愛している自分に酔っていて、この愛が美しいものだと思い込んでいた。
けれど、それは違う。
これはまだ生傷で、乾いてすらいない。
俺は自分本位で、彼女の心の傷を消そうなんて考えてついたことすらなかった。
リシェはあれほど、俺の傷痕を消そうとしてくれていたっていうのに。
どうしたらいい。
何を積み上げれば、もう一度、隣に立つことを許されるのだろう。
「……」
空気は張り詰めていた。
アスティの瞳は揺らがず、こちらを見ていた。
逃げずに見返す。
睨むのでも、哀願するのでもなく、ただ己を晒すように。
「……ん。分かった。謹慎は今からよ。あんたも反省したのなら、今日はもう兵舎に下がりなさい。……あとは期間中に一人で考えるように」
アスティの声が、やわらかく響いた。
責めるでもなく、ただ導くように。
まるで、答えを見つけることも罰の一つなのだと言わんばかりに。
……考えることも、課題か。
まだ立ち上がれずにいる俺に、アスティがわずかに眉を寄せる。
目だけで、「まだなにか言いたいことがあるの?」と促すように。
その表情に、疲労が滲んでいた。
彼女もまた、限界まで神経を張っていたのだろう。
俺なんかのために。
「はい。以前作った、カイル様への接触禁止項目について、思うところがありまして。申し訳ないんですが、自分が加えた分は撤回させてください」
アスティの眉がかすかに上がり、次の瞬間、静かに頷いた。
「……了解」
それ以上の詮索はしなかった。
追及せず、ただ受け止めてくれた。
それが、どれほどありがたかったか。
「一応、彼に会うことがあれば、自分からもその旨共有しておきます。では、失礼します」
声を整えて、姿勢を正す。
膝がまだ震えていたが、踏み出した。
扉の取っ手を握ると、金属の冷たさが掌に沁みる。
音を立てぬように開け、外に出る。
背後で扉が静かに閉まった。
その音を合図のように、一度だけ深く敬礼をする。
顔を上げると、廊下の光が眩しかった。
目尻に溜まった涙を、指の甲でそっと拭い、俺は静かに歩き出した。




