王族の裁可
言い終えると、グラントが組んでいた腕を解き、静かに立ち上がった。
その動作には、重みがあった。
ゆっくりと歩いているのはきっとわざとだろう。
公的な裁定はもう下ったのだから、わざわざこちらに来る理由はひとつしかない。
窓からの陽が遮られ、俺の前に影が差す。
……次は鉄拳制裁の番だ。
「……?」
そう思ったの束の間。何もなく通り抜けていく。
あれほどの圧を放っていた男が、今は臣下の礼をもって一歩下がり、アスティの前に……片膝をついた。
「以上で宜しかったでしょうか、殿下」
恭しく頭を垂れた。
その声音はまるで、別人のように慎ましく――。
世界が反転した。
「ああ、大儀だった」
アスティが、王族の威をその身にまとい、俺たちを睥睨していた。
彼女は返事をすると、木剣をグラントに渡した。
そして傍らの応接椅子に腰を下ろすと、片脚を大胆に組み、背凭れに体を預けた。
軽やかではなく、威圧そのものの動作だった。
その眼差しが、俺を撃つ。
まっすぐに、まるで獲物を定めた猛禽のように。
……殿下。
遅れて気づいた。
アスティの額に、いつのまにか小さな銀のティアラが光っている。
王権の証。
グラント様は最高幹部だ。アスティが軍部に属する限り、配下であり、無闇に畏まる必要なんてない。それが今、逆転している。
彼女は今、王族として――この国の血脈を背負ってここにいる。
軍幹部でも聖女の後見人でもなく、王の代理人として、この場に立つ権限を与えられているということになる。
アスティがティアラを帯びていることに気づいた時、背後のリカリオの気配も変わっていた。
こっちは跪きはしない。
扉脇に立ったまま、踵を揃え、静かに頭を垂れている。
それは無礼ではない。
跪いて膝を床につけるより、立ったまま俺の背後を塞ぐことこそが、この場で彼に求められた役だった。
いつでも俺を押さえ込めるよう、鞘から抜かれた剣として、そこに据えられている。
今、アスティはこの場の支配者で、こちらは何一つ、下手なことはできない。
「さて」
この部屋の空気が変わった。
ひとつ呼吸をするたびに、重い石の棺に閉じ込められたような圧が増していく。
「此度の裁可は、特例中の特例であると心得よ」
アスティの声が、低く響く。
よく通る声だが、どこかに冷たい鉄の音がある。
「一つ、王室への不敬。
王家が庇護せし聖女の身を、私情によって損なったこと。
一つ、王命への違背。
王命により定められた婚約と、その保護の秩序を軽んじたこと。
一つ、聖女の貴き御身への侵犯。
これは、言うまでもあるまい」
「――本来、このような大罪は、極めて重い処分を免れない」
静かに、淡々と。
だが、その言葉が放たれるたび、背筋が凍った。
誰もが黙る。
グラント様でさえ、沈黙のままアスティの言葉を待っている。
ここにいる全員が、その瞬間だけ、王の前に立つ臣下に戻っていた。
「貴様、自身が大罪人であることを理解しているのか?」
アスティの目が俺を射抜いた。
「言い分があれば、聞いてやってもいい」
まっすぐ、逃げ道を塞ぐように。
膝が震えた。
「何か申し開きがあれば述べろ。……直答を許す」
と、グラント様が補足する。
やっと、話すことを許された。
だが、口を開くことができなかった。
何を言えばいい?
言葉を繕うより、殴られた方が楽だ。
痛みの方が、まだ正直だ。
そうすれば――少しは前に進める気がした。
沈黙。
アスティがため息をついた。
椅子の軋む音がやけに大きく響いた。
アスティは椅子から立ち上がり、木剣ではなく、腰に下げていた馬用の鞭を手に取った。
逆にほっとした。
それで殴られて、放免されるのなら、罪状に比べて安堵すらある。
痛みは一過性のものだ。
通過して、去っていくものだからだ。
鞭を受ける場所を予想して、相応の覚悟を決める。
だが、その痛みは永遠に来なかった。
代わりに来たのは、他人を呼ぶ声だった。
「グラント」
短い呼びかけ。
グラント様が一歩前に出て、静かに片膝をつく。
恭順の姿勢。
そのまま頭を下げ、金色の長い髪が顔を覆う。
「どうぞ」
え。
その瞬間、バチッ、と乾いた音が響いた。
鋭い軌跡を描いて、鞭がグラント様の肩から背に打ち込まれる。
火花が散ったように、空気が裂けた。
グラント様は微動だにしない。
呻きもせず、ただ耐えた。
俺がやったことなのに、打たれたのはグラント様だった。
その理不尽さに息が詰まる。
けれど、すぐに理解した。
俺は個人ではない。
騎士団に属し、グラント様の管理下にある従士だ。
俺の失態は、俺だけの失態では済まない。
アスティはそれを、儀として示したのだ。
息を呑む。
心臓が強く打つ。
背筋を伝って汗が流れ落ちる。
「言い分は」
アスティの目が、再び俺を捉えた。
沈黙が刃になる。
逃げても、隠れても、突き刺さるような眼差しだった。
溜息のような呼吸が聞こえた。
アスティの目がグラント様に向いた。
よくない。
また俺が何かを言わなければ、あの人が打たれる。
おそらく、俺の答えが気に入らなければ、また打たれる。
……黙っていることすら罪なのか。
喉がひとりでに動く。
「……申し開きはございません」
ようやく絞り出した声。
胸の奥が、焼けるように痛む。
本当は言いたいことがあった。
リシェは俺の女だ。俺の番いだ。
どう触ろうが、他人に言われる筋合いなんかないはずだ。
誰にも譲っていない。
婚約なんて建前だ……それを、俺は知っている。
昔の俺なら、噛みついていた。
いや、俺の中に蠢く暗い獣は、さっきだって暴れ狂っていた。
最初に気勢を挫かれていなければ、今頃、牙を剥いて、相手が王族だろうが構わず叫んでいただろう。
でも今は――できない。
さっきの一撃を避けられなかった。
もう反射する気力は死んでいた。
恐怖と理性が、俺の中の獣ごと本能を押し潰していた。
野にいた頃は違った。
どんな敵でも、殺せると思っていた。
一撃で屠れなくとも、反撃を躱しては策を練り、手数をかけて確実に罠にかけて来た。
だというのに今は退くための足すら動かない。
目の前の女が恐ろしいんだ。
もう魂に格付けされてしまったように。
怖くて、視線が勝手に下がる。
アスティが近寄る。
靴音が石床に響く。
そして、鞭の柄で顎を軽く持ち上げられた。
顔を上げざるを得ない。
目と目が合った。
「大変申し訳ございませんでした」
謝罪が、無意識に零れた。
喉の奥で震えた声が、自分のものではないようだった。
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
アスティへか。
グラント様へか。
王室へか。
それとも、ここにいないリシェへか。
ただ、謝らなければならないということだけが、喉の奥からこぼれた。
アスティの瞳は、冷たくも澄んでいた。
黒髪の間から覗く、猛禽のような双眸。
相手を目だけで射竦めるような圧がある。
これが、多くの人を動かす群れの上位。
逃げられなかった。
逸らせば、もっと惨めになる。
だから、見返した。
逃げたくなかった。
まだ折れていないことを示すために。
リシェの傍に、まだいるために。
どれほど睨み合っただろう。
やがてアスティが小さく息を吐き、目を外した。
「崩してよし」
軽く胸を小突かれる。
その瞬間、張り詰めていた背筋がほどけた。
姿勢をわずかに緩める。
アスティは応接椅子に戻り、脚を組み直した。
気づけば、グラント様も既に席に戻っている。
背に打たれた痛みなどなかったような顔で。
「座れ」
命じられたが、足が動かない。
筋肉が固まっていた。
「……」
アスティはその様子を一瞥しただけで、襟を緩め、ティアラを外した。
王族の証を、無造作にポケットへ滑り込ませる。
その仕草に、さっきまでの緊張が少し和らいだ。
「セラン、座ってよい。……すっかり萎縮してしまったではないか」
グラント様が苦笑を交えて言った。
その声だけが、人の温度を持っていた。
「……はい」
仕方なく、腰を下ろす。
だが、アスティの正面は避けた。
視線を床に落とし、わずかに肩をすくめながら。
椅子の脚が、重く床を擦った。




