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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
23章 獣の調伏
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王族の裁可

言い終えると、グラントが組んでいた腕を解き、静かに立ち上がった。


その動作には、重みがあった。


ゆっくりと歩いているのはきっとわざとだろう。

公的な裁定はもう下ったのだから、わざわざこちらに来る理由はひとつしかない。


窓からの陽が遮られ、俺の前に影が差す。


……次は鉄拳制裁の番だ。


「……?」


そう思ったの束の間。何もなく通り抜けていく。


あれほどの圧を放っていた男が、今は臣下の礼をもって一歩下がり、アスティの前に……片膝をついた。


「以上で宜しかったでしょうか、殿下」


恭しく頭を垂れた。

その声音はまるで、別人のように慎ましく――。


世界が反転した。


「ああ、大儀だった」


アスティが、王族の威をその身にまとい、俺たちを睥睨していた。


彼女は返事をすると、木剣をグラントに渡した。

そして傍らの応接椅子に腰を下ろすと、片脚を大胆に組み、背凭れに体を預けた。

軽やかではなく、威圧そのものの動作だった。


その眼差しが、俺を撃つ。

まっすぐに、まるで獲物を定めた猛禽のように。


……殿下。


遅れて気づいた。

アスティの額に、いつのまにか小さな銀のティアラが光っている。

王権の証。

グラント様は最高幹部だ。アスティが軍部に属する限り、配下であり、無闇に畏まる必要なんてない。それが今、逆転している。


彼女は今、王族として――この国の血脈を背負ってここにいる。

軍幹部でも聖女の後見人でもなく、王の代理人として、この場に立つ権限を与えられているということになる。


アスティがティアラを帯びていることに気づいた時、背後のリカリオの気配も変わっていた。

こっちは跪きはしない。

扉脇に立ったまま、踵を揃え、静かに頭を垂れている。

それは無礼ではない。

跪いて膝を床につけるより、立ったまま俺の背後を塞ぐことこそが、この場で彼に求められた役だった。

いつでも俺を押さえ込めるよう、鞘から抜かれた剣として、そこに据えられている。


今、アスティはこの場の支配者で、こちらは何一つ、下手なことはできない。


「さて」


この部屋の空気が変わった。

ひとつ呼吸をするたびに、重い石の棺に閉じ込められたような圧が増していく。


「此度の裁可は、特例中の特例であると心得よ」


アスティの声が、低く響く。

よく通る声だが、どこかに冷たい鉄の音がある。


「一つ、王室への不敬。

王家が庇護せし聖女の身を、私情によって損なったこと。

一つ、王命への違背。

王命により定められた婚約と、その保護の秩序を軽んじたこと。

一つ、聖女の貴き御身への侵犯。

これは、言うまでもあるまい」


「――本来、このような大罪は、極めて重い処分を免れない」


静かに、淡々と。

だが、その言葉が放たれるたび、背筋が凍った。


誰もが黙る。

グラント様でさえ、沈黙のままアスティの言葉を待っている。

ここにいる全員が、その瞬間だけ、王の前に立つ臣下に戻っていた。


「貴様、自身が大罪人であることを理解しているのか?」


アスティの目が俺を射抜いた。


「言い分があれば、聞いてやってもいい」


まっすぐ、逃げ道を塞ぐように。

膝が震えた。


「何か申し開きがあれば述べろ。……直答を許す」


と、グラント様が補足する。


やっと、話すことを許された。

だが、口を開くことができなかった。


何を言えばいい?

言葉を繕うより、殴られた方が楽だ。

痛みの方が、まだ正直だ。

そうすれば――少しは前に進める気がした。


沈黙。


アスティがため息をついた。

椅子の軋む音がやけに大きく響いた。

アスティは椅子から立ち上がり、木剣ではなく、腰に下げていた馬用の鞭を手に取った。


逆にほっとした。

それで殴られて、放免されるのなら、罪状に比べて安堵すらある。

痛みは一過性のものだ。

通過して、去っていくものだからだ。


鞭を受ける場所を予想して、相応の覚悟を決める。


だが、その痛みは永遠に来なかった。

代わりに来たのは、他人を呼ぶ声だった。


「グラント」


短い呼びかけ。

グラント様が一歩前に出て、静かに片膝をつく。

恭順の姿勢。

そのまま頭を下げ、金色の長い髪が顔を覆う。


「どうぞ」


え。


その瞬間、バチッ、と乾いた音が響いた。


鋭い軌跡を描いて、鞭がグラント様の肩から背に打ち込まれる。


火花が散ったように、空気が裂けた。

グラント様は微動だにしない。

呻きもせず、ただ耐えた。


俺がやったことなのに、打たれたのはグラント様だった。

その理不尽さに息が詰まる。

けれど、すぐに理解した。


俺は個人ではない。

騎士団に属し、グラント様の管理下にある従士だ。

俺の失態は、俺だけの失態では済まない。

アスティはそれを、儀として示したのだ。


息を呑む。

心臓が強く打つ。

背筋を伝って汗が流れ落ちる。


「言い分は」


アスティの目が、再び俺を捉えた。

沈黙が刃になる。

逃げても、隠れても、突き刺さるような眼差しだった。

溜息のような呼吸が聞こえた。


アスティの目がグラント様に向いた。


よくない。

また俺が何かを言わなければ、あの人が打たれる。

おそらく、俺の答えが気に入らなければ、また打たれる。

……黙っていることすら罪なのか。


喉がひとりでに動く。


「……申し開きはございません」


ようやく絞り出した声。

胸の奥が、焼けるように痛む。


本当は言いたいことがあった。

リシェは俺の女だ。俺の番いだ。

どう触ろうが、他人に言われる筋合いなんかないはずだ。

誰にも譲っていない。

婚約なんて建前だ……それを、俺は知っている。


昔の俺なら、噛みついていた。

いや、俺の中に蠢く暗い獣は、さっきだって暴れ狂っていた。

最初に気勢を挫かれていなければ、今頃、牙を剥いて、相手が王族だろうが構わず叫んでいただろう。


でも今は――できない。

さっきの一撃を避けられなかった。

もう反射する気力は死んでいた。

恐怖と理性が、俺の中の獣ごと本能を押し潰していた。


野にいた頃は違った。

どんな敵でも、殺せると思っていた。

一撃で屠れなくとも、反撃を躱しては策を練り、手数をかけて確実に罠にかけて来た。

だというのに今は退くための足すら動かない。

 

目の前の女が恐ろしいんだ。

もう魂に格付けされてしまったように。

怖くて、視線が勝手に下がる。


アスティが近寄る。

靴音が石床に響く。

そして、鞭の柄で顎を軽く持ち上げられた。


顔を上げざるを得ない。

目と目が合った。


「大変申し訳ございませんでした」


謝罪が、無意識に零れた。

喉の奥で震えた声が、自分のものではないようだった。


誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。

アスティへか。

グラント様へか。

王室へか。

それとも、ここにいないリシェへか。


ただ、謝らなければならないということだけが、喉の奥からこぼれた。


アスティの瞳は、冷たくも澄んでいた。

黒髪の間から覗く、猛禽のような双眸。

相手を目だけで射竦めるような圧がある。

これが、多くの人を動かす群れの上位。


逃げられなかった。


逸らせば、もっと惨めになる。

だから、見返した。

逃げたくなかった。


まだ折れていないことを示すために。

リシェの傍に、まだいるために。


どれほど睨み合っただろう。

やがてアスティが小さく息を吐き、目を外した。


「崩してよし」


軽く胸を小突かれる。

その瞬間、張り詰めていた背筋がほどけた。

姿勢をわずかに緩める。


アスティは応接椅子に戻り、脚を組み直した。

気づけば、グラント様も既に席に戻っている。

背に打たれた痛みなどなかったような顔で。


「座れ」


命じられたが、足が動かない。

筋肉が固まっていた。


「……」


アスティはその様子を一瞥しただけで、襟を緩め、ティアラを外した。

王族の証を、無造作にポケットへ滑り込ませる。

その仕草に、さっきまでの緊張が少し和らいだ。


「セラン、座ってよい。……すっかり萎縮してしまったではないか」


グラント様が苦笑を交えて言った。

その声だけが、人の温度を持っていた。


「……はい」


仕方なく、腰を下ろす。

だが、アスティの正面は避けた。

視線を床に落とし、わずかに肩をすくめながら。


椅子の脚が、重く床を擦った。

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