軍規の懲戒
総長室の前に立った瞬間、呼吸のたびに空気が重く沈んでいくような気がした。
厚い扉。鋼鉄の蝶番。磨き込まれた白石の床。
何度か来たことのある場所のはずなのに、その日はやけに遠く、冷たく見えた。
扉の向こう側には、ただならぬ緊張が満ちている。
それは音でも気配でもなく、肌の上に薄く刃を当てられるような感覚だった。
リカリオが戸を叩く。
鈍く響く音が、廊下の静寂を割った。
「連れて参りました」
その声の奥に、わずかな硬さを感じた。
何が起きるか察しているような、言葉の底に沈む重さ。
「入れ」
低く響く声。グラント様の声だ。
重い扉が、空気を押し分けるように開いた。
その音に合わせて、内で扉を開けた兵が入れ違いに下がっていった。
外界との隔たりが閉ざされ、室内の静けさが圧を持って迫ってくる。
……嫌な重厚さ。
リカリオは中へ入らず、扉のすぐ内側に立つ。
外と中の境に壁を作るように。
逃げ道を塞がれたような感覚。
いや、実際に塞いでいるのだろう。俺が逃げると思われているのか、逃がしてはならないと思われているのか。そのどちらでもあるような気がして、喉が乾いた。
室内の奥、深紅の絨毯の先に二人の姿。
正面では、グラント様が机の向こうで手を組み、座っている。
その右手側、卓前にわずかに出る位置に、アスティが立っていた。
後ろ手に、木剣を持っている。
俺は姿勢を正した。
足を揃え、背を伸ばす。
ふたりの前に立つと、空気がひりつく。
それでも、よく知る顔だ。
アスティも、グラント様も、俺にとって完全な他人ではない。
そう思って、わずかに警戒を解こうとした。
「鎧を脱げ。そこへ置け」
グラント様の声が落ちる。
処分の申し渡しなら、このまま聞けばいい。鎧を脱ぐ必要があるのか。
思考が追いつかないまま、口だけが動いた。
「は……」
その瞬間だった。
ガゴン、と爆ぜるような衝撃が横から入った。
視界が揺れた。
何が起きたのか分からないまま、息が詰まる。
鎧越しに、肋のあたりへ重い痛みが走った。体が横へ飛び、足が床から離れる。
背中が扉へ叩きつけられる――そう思った直前、リカリオの腕が俺を受けた。
無言のまま押し戻される。
足が床を掴み損ね、鎧が軋んだ。金属の擦れる音が、やけに大きく耳に刺さる。
痛い。
鎧の上からでも、芯に響く一撃だった。
あれをまともに、鎧なしで受けていたら、骨が折れていたかもしれない。
――なにが、起きた?
「直立!」
考える間もなく、アスティの怒声が、雷のように落ちた。
その声は、いつもの彼女のものではなかった。
酒場で呆れて怒る声でも、リシェを叱る時の抑えた声でもない。
冷たく、切りつけるような音。
体が勝手に反応した。
訓練で叩き込まれた反射で、無我のまま直立姿勢を取る。
頭の中は真っ白だった。
アスティの木剣が、俺の横に下ろされている。
今、打たれたのだと、ようやく理解した。
「鎧を脱げと言ったのだ」
再び、グラント様の声。
低く、容赦のない声だった。
今度は抵抗しなかった。
胸当ての留め具に手をかける。指先が少し震えていた。
動作は静かに、正確に。余計な音を立てないように。
胸当てを外し、籠手を置き、脚甲を床に並べる。
革の擦れる音と、金具が床に触れるかすかな響きだけが室内に落ちた。
鎧を外すたびに、肌の上に冷気が触れる。
守っていたものを一枚ずつ剥がされていくようで、呼吸が浅くなった。
首筋に汗が浮く。
アスティは木剣を構えたまま、俺を見ていた。
俺がすべて外したのを確認すると、ゆっくりと剣を下ろす。
その仕草ひとつひとつが冷徹で、感情を表へ出さない。
感情がないわけではない。むしろ、その奥にあるものが大きすぎて、表へ漏れないよう押さえ込んでいるのだと分かる。
いつもは穏やかで、誰よりも理性的な彼女なのに。
……次があったら、避けなければいけない。
この距離、この状況で。
一撃ならともかく、避け続けられるかどうかも分からない。
アスティ相手に、組手で負けたことはない。
彼女は決して弱くはないが、所詮女で、速さはあっても重さのない剣だと思っていた。
なのに先ほどは、不意とはいえまともに食らった。
そのうえ、勝てたことなどないリカリオが後ろにいる。
グラント様に至っては、あの重さ。しかも彼は、異能を戦いに使うと聞いたことがある。
……この場でまともに勝つことはできない。
恐怖が胸を刺す。息の仕方が分からなくなる。
グラント様が、重く、言葉を継いだ。
「さて、貴様は先日、休暇にて指定された時刻に遅れ、閉門時刻にも間に合わなかったそうだが。相違ないか」
――ああ。
もう、俺にもわかっていた。
この叱責が、想像以上の重さであることが。
昨日の朝、リカリオにも遅れるなと言われていたのに、門限を越えてしまった。
城門どころか、王都外壁の市門の閉門にも遅れたのだ。あまつさえ……アスティに門外まで迎えに来させてしまっていた。
王族であるアスティを、使用人がごとく門外に迎えさせたことも、冷静に考えれば不敬甚だしい。
内密の休みを与えてくださったグラント様の信頼もおそらく損なったんだろう。
確かに。叱責を受けることは仕方がない。
この後、腹を数発殴られるのかもしれないな。
だから鎧を外されたのか。
顔を腫らせば、リシェに心配かけるから、アスティが気を使ったのかもしれない。
まあ、殴られる程度なら、逆に良かった。
世話になってる身だ——次からは、気をつけなきゃな。
脳裏で、きちんと反省したつもりになっていた。
「相違ありません」
グラント様は間を置かず続けた。
「次に、休暇中に市民の女性に暴力を働いた報告が上がっている」
「……!」
胸が跳ねた。呼吸が止まり、言葉が出ない。
全身から血の流れが落ちていくのを感じる。
それも――真実だ。
そうだった。
アスティがリシェを見れば、きっと気づいた。
問いただしたのだろう。
リシェが何も言わなかったとしても、あの噛み痕があれば十分だった。
俺は、リシェを傷つけた。
眠る彼女に、理性を失って触れた。
歯を立て、痕を残した。血も滲ませた。
改めて、言葉にして言われて初めて、その悪行が突き付けられた気がした。
それぞれ、別の衝動から来た行動だった。
愛しくて、寂しくて、欲しくて、妬いた。
けれど、外から見れば、どれも同じ場所へ落ちる。
暴行。
その一語が、胸の奥を殴った。
……俺が悪い。
でも、リシェとはちゃんと向き合った。
謝って、許してもらって、笑って別れた。
それで終わったと思っていた。思ってしまっていた。
ここまで――罪人扱いされることだと、今の今まで、露ほどに思わなかった。
指先が冷えて震える。喉が固まり、声が出ない。
返事が遅れた。
「返事はどうした!」
アスティの声が鋭く響く。
冷たい刃のように肌を裂く。
殺気をはらんでいた。
木剣を握る手が、振り上げようとわずかに動くのを感じた。
反射で俺の口が開いた。
「っ……相違、ありません」
声がかすれた。
自分の喉が、ひどく乾いているのに気づく。
項垂れることもできない。
ただ、直立。
心臓が喉の奥で暴れ、汗が背中を伝う。
グラント様の声が静かに降る。
「本件は、門限違反、それにより他の隊員および関係者に不必要な負担をかけたこと、加えて市民に対する暴行。以上三点について訓戒するものである」
一語一語が、刃のように胸を抉る。
反論の余地はなかった。
「当方は休暇の内容そのものを問うものではない。だが、騎士の端くれである以上、守るべき市民へのいかなる暴力も許されない」
胸の奥にあった甘い見積もりが、ゆっくり潰れていく。
最悪、休みの制度自体、取り上げられるのかもしれない。
「ただし、本件の遅延は被害者の移送に関するものでもあり、私利私欲による職務放棄とは認められない。また、被害者本人より厳罰を求める訴えも提出されていない。よって情状を考慮し、騎士団規則に則り処分を決定する」
厳罰を求める訴えはない。
それが、リシェの優しさなのか、俺を庇ったのか、それとも自分の傷への無頓着さなのか、それすらもう分からなかった。けれど、その一文に安堵してしまいそうになる。
早くやり直したいと思っていた。
謝って、笑って、いつものように隣に座って、今度こそ余計な触れ方をしないで、ただ安心させてやりたいのに。
再び手を伸ばさない自信ももうないのに、まだその計画に縋っていた。
「従士セラン」
名を呼ばれ、背筋が勝手に伸びた。
「貴様を、無期限謹慎処分とする。職務時間を除き、兵舎および指定区域外への立入りを禁ずる。自由時間ならびに休暇中の外出は許可しない」
言葉だけが、頭の中で乾いた音を立てる。
「解除の時期は追って定める。以上だ」
無期限謹慎。
休み、どころじゃない。
庭にも出入り禁止だ。
全部が、遠ざかっていく。
先ほど冷や水を浴びせられたはずの、俺の内側の渇きが、また獣のように呻き始める。リシェに会えなくなるという怒りが、胸の奥で暴れ出そうとする。
それを、歯を食いしばって押さえ込む。
抗いたいのに、まだ呑まれそうになる自分がいて、ぞっとした。
喉の奥で、獣がまだ唸っている。
けれど、それを声にしてはいけない。
ここで抗えば、本当に戻れなくなる。
「……拝命、いたします」
かすれた声が、自分のものではないように落ちた。




