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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
23章 獣の調伏
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赤く濁る淵

「門限を遅れるなと言ったろうが、馬鹿が」


それを聞いた瞬間、呼び出しの理由はわかった。昨日の出来事に気を取られてはいたが、明らかにアスティに迷惑をかけた。それだけじゃなく、門警備など、複数が関わっている。

リシェも一緒に叱られてくれれば大丈夫だと甘く考えてはいたが、もはや内密に叱責されるだけでは済まないという事だ。


まあ、仕方ない。規律違反として、罰当番か、訓練追加か。

……リシェとの休みを、飛ばされたりするのだけは勘弁してほしいな。


早く、リシェに埋め合わせをしてやりたいんだから。


そんなことを、総長室へ向かう白石の回廊を、俺はリカリオに片手で肩に担がれて運ばれながら考えていた。


見上げる天井は、朝の光に淡く白く照らされていて、やけに神聖に見える。

こんなふうに運ばれると、目立って仕方がない。

すれ違う兵士や侍女たちの視線が刺さるたび、冷や汗がじわじわ滲んでくる。


……いたたまれない。


怒ってなかったと言えば嘘になる。

少しは怒った。リシェの様子が恋に対して臆病になっていて、その原因の一端がジェスにあると聞いたから。


けど、別に憎んでなんかいない。

ジェスは、可愛い弟分だ。


あいつが赤くなったり青くなったりするのが面白くて、ちょっといじりすぎただけだ。

……ちょっとだけ。


「なあ……自分で歩くし、頭も冷えたからいい加減下ろしてくれ……下さい」


苦し紛れに敬語を混ぜたのに、返事はない。

階段の手前で、予告もなく放られた。


「――っ」


咄嗟に肩を丸めて、受け身を取る。

音を立てずに転がって、そのまましゃがみ込む姿勢で着地した。


リカリオは手を払って、埃を叩くようにしながら、ぽつりと呟いた。


「ほらよ」


そして、静かに、しかし明確な重さを持って言葉を継いだ。


「お前な。本当に騎士になりたきゃ、守るべきものを間違えんなよ」


その声は低く、耳に残った。

怒ってるわけじゃない。説教というより、忠告だった。


「は? 俺は別に……」


言いかけて、言葉がつかえた。

俺は、騎士になりたいわけじゃない。

国のためとか、貴族のためとか、そんなものに仕えたいと思ったことは一度もない。

 

目を上げると、リカリオの眼差しはまっすぐ俺を見下ろしていた。

ただの力自慢じゃない。

この人は、昔から“命令されなくても戦う理由”を持っている人間だ。


俺の胸に、その視線がずしりと重く落ちる。


リシェのそばにいたいだけ。

それだけだ。

ただ、それだけなんだ。


リシェの隣に立てる資格が欲しい。

それを手に入れるには、手段がいる。それだけの話だ。


「違う」


リカリオは言った。


「職業の話じゃない。……お前は嬢ちゃんの騎士になるんだろ」


「なるさ」


声が自然と低くなる。


「……そのために、やりたくもない事を頑張ってんだろが。試験も、任務も」


言って、自分でも苦笑した。

努力なんて嫌いだ。

でも、リシェのそばに立つためなら何だってやる。

そのために、無理をしてる。

人との付き合いだって大事にして、言葉遣いも改めて。

全部、リシェのためだ。


……けど。


本当は、全部やめてしまいたい。

もっとリシェといたい。

触れたい。

それだけでいい。

他の誰もいらない。

リシェと二人で、誰もこない場所で、静かに暮らせたら――

そんな世界だったら、不安も焦りも、こんな醜い感情もいらない。


逃げたい。

もう、いいんじゃないか。

リシェも、力を制御できるようになってきた。

俺が守らなくても、生きていける。

だったら……俺が欲しいものを、そろそろもらってもいいんじゃないか。


昨日の昼、あのまま――


女として抱いて、俺のものにしていればよかった。

触れて、溶かして、食べて、腹の底に仕舞って。

全部、俺の中に入れてしまえばよかった。


いや――違う。

いっそ逆に、俺のほうをリシェに食わせてやってもいいな。


あの時を俺を制止した声。脳裏に杭を刺すように走った冷たい殺気。

……リシェの中にも、獣のように強い気配をもつものがいる――そう感じた。

俺を食い破ろうとするこの暗い欲望みたいに、誰のうちにもああいうものがいるのしれない。そうなら恥じることないって救われる。

そうじゃなくてもいい。そしたら俺とリシェはお似合いってことになる。

もし、そうなら、俺たちが選ばれた特別な二人だって証なら……食い合って彼女の中の獣に、俺を噛ませてやってもいい。


そうしたら、俺はリシェの魂に刻まれる。

消えない爪痕として、永遠に残る。

勝てないと思っていた、ウルの記憶も上書きできる。


これから一生、俺のことを夢に見ては……毎晩きっと魘されてくれる。


ああ、それもいいかもしれない。甘美だ。

誰にも汚されたことのない、まっさらな雪原を――俺が蹂躙するんだ。

リシェの白を、俺の赤で染める。


『白い聖女を染めるのは、赤か、黒か』


かつて廊下や兵舎の隅で囁かれていた賭けの声が、妙に鮮明に蘇った。

あの時は、くだらないと吐き捨てたはずだった。

リシェを見世物みたいに扱う連中の下卑た遊びだと、腹の底から軽蔑したはずだった。

それなのに今、俺の中で同じ言葉が甘く響いている。


今からでも――遅くないか?

もう、いいんじゃないか。


「……おい、セラン」


低く、押し殺したような声。

リカリオの手が俺の胸ぐらを掴んでいた。

体がびくりと跳ねる。


リカリオは俺の顔を見て、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。

怒りではない。

敵を見る目でもない。

もっと嫌なものを見つけたような、古傷に触れたような顔だった。


「どうしちまったんだよ。ちょっと前まで、まともだったろうが」


「え……」


う……まただ。

この数日、胸の奥から何かがせり上がってくる。

抑えても抑えても、熱が噴き出す。

守りたい。愛してる。そう思って、堪えると決めたのに。

そのたび、反動のように獣が這い上がってくる。


「お前、今、目が濁ってたぞ」


リカリオの声が鋭くなった。


「……ダリオみたいな顔している。自覚、ないのか」


「え」


その名を聞いた瞬間、全身が凍りついた。

頭に冷水を浴びせられたように、息が止まる。

あの名が、俺を現実に引き戻す。


ダリオ――

あの、俺が駆除した“獣”の名。


あれと、俺が?


俺が――あいつと同じ?


思考がぐらりと傾いた。

足元が抜けたみたいに、内臓が一斉に冷たくなって、何かが喉の奥まで上がってくる。


リシェに群がる、あの有象無象たち。

牙を隠して、爪を引っ込めて、甘い顔で近づく偽善者たち。


リシェの力を千切って食おうとした者。

リシェの心を奪って染めようとした者。

リシェの体を契って繋ごうとした者。


俺は、それを片っ端から払いのけてきた。

時に怒鳴り、時に睨み、時には実力行使で遠ざけた。

俺がリシェを守る。俺だけが、リシェを理解している。そう信じて。


それなのに――


俺も、同じ?


その“あれら”と、俺が?


……吐き気がした。

胃の奥から這い上がる、鉄錆みたいな味。

喉が熱くなる。


まさか、まさかそんなはずが。

でも、もし――もし本当に、俺が“そう”なっていたなら?


リシェを守るふりをして、ただ奪いたいだけだったのだとしたら?


リカリオの目が、静かに俺を見据える。

そのまなざしが、俺の奥底を見抜くようで、苦しかった。


「っ!」


彼は、ふっと短く息を吐いて、俺の頬を軽く叩いた。

目を醒ませと、静かに。


手が襟元に触れる。

さっき掴まれた拍子に乱れていたそれを、リカリオは無言で整えた。

まるで、父親のようだった。


「しっかりしろ。お前はまだ。かろうじて……大丈夫だ」


低く、強い声。


「今までは正気だった。これからも気を緩めなけりゃ、戻れる」


言葉が、胸の奥に刺さる。

戻れる――俺は、まだ引き返せるのか?


「……さ、姿勢を整えろ。入れ」


言われるまま立ち上がると、無意識に自分の手を見ていた。

昨日、リシェに触れた手。

さっき、ジェスを掴みかけた手。

守るための手だと思っていたものが、何かを壊す形に握られていたことに、今さら気づく。


気がつけば、もう総長室の前に立っていた。

扉の向こうに、待っている者たちの気配がある。


俺の息が、細く震える。

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