赤く濁る淵
「門限を遅れるなと言ったろうが、馬鹿が」
それを聞いた瞬間、呼び出しの理由はわかった。昨日の出来事に気を取られてはいたが、明らかにアスティに迷惑をかけた。それだけじゃなく、門警備など、複数が関わっている。
リシェも一緒に叱られてくれれば大丈夫だと甘く考えてはいたが、もはや内密に叱責されるだけでは済まないという事だ。
まあ、仕方ない。規律違反として、罰当番か、訓練追加か。
……リシェとの休みを、飛ばされたりするのだけは勘弁してほしいな。
早く、リシェに埋め合わせをしてやりたいんだから。
そんなことを、総長室へ向かう白石の回廊を、俺はリカリオに片手で肩に担がれて運ばれながら考えていた。
見上げる天井は、朝の光に淡く白く照らされていて、やけに神聖に見える。
こんなふうに運ばれると、目立って仕方がない。
すれ違う兵士や侍女たちの視線が刺さるたび、冷や汗がじわじわ滲んでくる。
……いたたまれない。
怒ってなかったと言えば嘘になる。
少しは怒った。リシェの様子が恋に対して臆病になっていて、その原因の一端がジェスにあると聞いたから。
けど、別に憎んでなんかいない。
ジェスは、可愛い弟分だ。
あいつが赤くなったり青くなったりするのが面白くて、ちょっといじりすぎただけだ。
……ちょっとだけ。
「なあ……自分で歩くし、頭も冷えたからいい加減下ろしてくれ……下さい」
苦し紛れに敬語を混ぜたのに、返事はない。
階段の手前で、予告もなく放られた。
「――っ」
咄嗟に肩を丸めて、受け身を取る。
音を立てずに転がって、そのまましゃがみ込む姿勢で着地した。
リカリオは手を払って、埃を叩くようにしながら、ぽつりと呟いた。
「ほらよ」
そして、静かに、しかし明確な重さを持って言葉を継いだ。
「お前な。本当に騎士になりたきゃ、守るべきものを間違えんなよ」
その声は低く、耳に残った。
怒ってるわけじゃない。説教というより、忠告だった。
「は? 俺は別に……」
言いかけて、言葉がつかえた。
俺は、騎士になりたいわけじゃない。
国のためとか、貴族のためとか、そんなものに仕えたいと思ったことは一度もない。
目を上げると、リカリオの眼差しはまっすぐ俺を見下ろしていた。
ただの力自慢じゃない。
この人は、昔から“命令されなくても戦う理由”を持っている人間だ。
俺の胸に、その視線がずしりと重く落ちる。
リシェのそばにいたいだけ。
それだけだ。
ただ、それだけなんだ。
リシェの隣に立てる資格が欲しい。
それを手に入れるには、手段がいる。それだけの話だ。
「違う」
リカリオは言った。
「職業の話じゃない。……お前は嬢ちゃんの騎士になるんだろ」
「なるさ」
声が自然と低くなる。
「……そのために、やりたくもない事を頑張ってんだろが。試験も、任務も」
言って、自分でも苦笑した。
努力なんて嫌いだ。
でも、リシェのそばに立つためなら何だってやる。
そのために、無理をしてる。
人との付き合いだって大事にして、言葉遣いも改めて。
全部、リシェのためだ。
……けど。
本当は、全部やめてしまいたい。
もっとリシェといたい。
触れたい。
それだけでいい。
他の誰もいらない。
リシェと二人で、誰もこない場所で、静かに暮らせたら――
そんな世界だったら、不安も焦りも、こんな醜い感情もいらない。
逃げたい。
もう、いいんじゃないか。
リシェも、力を制御できるようになってきた。
俺が守らなくても、生きていける。
だったら……俺が欲しいものを、そろそろもらってもいいんじゃないか。
昨日の昼、あのまま――
女として抱いて、俺のものにしていればよかった。
触れて、溶かして、食べて、腹の底に仕舞って。
全部、俺の中に入れてしまえばよかった。
いや――違う。
いっそ逆に、俺のほうをリシェに食わせてやってもいいな。
あの時を俺を制止した声。脳裏に杭を刺すように走った冷たい殺気。
……リシェの中にも、獣のように強い気配をもつものがいる――そう感じた。
俺を食い破ろうとするこの暗い欲望みたいに、誰のうちにもああいうものがいるのしれない。そうなら恥じることないって救われる。
そうじゃなくてもいい。そしたら俺とリシェはお似合いってことになる。
もし、そうなら、俺たちが選ばれた特別な二人だって証なら……食い合って彼女の中の獣に、俺を噛ませてやってもいい。
そうしたら、俺はリシェの魂に刻まれる。
消えない爪痕として、永遠に残る。
勝てないと思っていた、ウルの記憶も上書きできる。
これから一生、俺のことを夢に見ては……毎晩きっと魘されてくれる。
ああ、それもいいかもしれない。甘美だ。
誰にも汚されたことのない、まっさらな雪原を――俺が蹂躙するんだ。
リシェの白を、俺の赤で染める。
『白い聖女を染めるのは、赤か、黒か』
かつて廊下や兵舎の隅で囁かれていた賭けの声が、妙に鮮明に蘇った。
あの時は、くだらないと吐き捨てたはずだった。
リシェを見世物みたいに扱う連中の下卑た遊びだと、腹の底から軽蔑したはずだった。
それなのに今、俺の中で同じ言葉が甘く響いている。
今からでも――遅くないか?
もう、いいんじゃないか。
「……おい、セラン」
低く、押し殺したような声。
リカリオの手が俺の胸ぐらを掴んでいた。
体がびくりと跳ねる。
リカリオは俺の顔を見て、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。
怒りではない。
敵を見る目でもない。
もっと嫌なものを見つけたような、古傷に触れたような顔だった。
「どうしちまったんだよ。ちょっと前まで、まともだったろうが」
「え……」
う……まただ。
この数日、胸の奥から何かがせり上がってくる。
抑えても抑えても、熱が噴き出す。
守りたい。愛してる。そう思って、堪えると決めたのに。
そのたび、反動のように獣が這い上がってくる。
「お前、今、目が濁ってたぞ」
リカリオの声が鋭くなった。
「……ダリオみたいな顔している。自覚、ないのか」
「え」
その名を聞いた瞬間、全身が凍りついた。
頭に冷水を浴びせられたように、息が止まる。
あの名が、俺を現実に引き戻す。
ダリオ――
あの、俺が駆除した“獣”の名。
あれと、俺が?
俺が――あいつと同じ?
思考がぐらりと傾いた。
足元が抜けたみたいに、内臓が一斉に冷たくなって、何かが喉の奥まで上がってくる。
リシェに群がる、あの有象無象たち。
牙を隠して、爪を引っ込めて、甘い顔で近づく偽善者たち。
リシェの力を千切って食おうとした者。
リシェの心を奪って染めようとした者。
リシェの体を契って繋ごうとした者。
俺は、それを片っ端から払いのけてきた。
時に怒鳴り、時に睨み、時には実力行使で遠ざけた。
俺がリシェを守る。俺だけが、リシェを理解している。そう信じて。
それなのに――
俺も、同じ?
その“あれら”と、俺が?
……吐き気がした。
胃の奥から這い上がる、鉄錆みたいな味。
喉が熱くなる。
まさか、まさかそんなはずが。
でも、もし――もし本当に、俺が“そう”なっていたなら?
リシェを守るふりをして、ただ奪いたいだけだったのだとしたら?
リカリオの目が、静かに俺を見据える。
そのまなざしが、俺の奥底を見抜くようで、苦しかった。
「っ!」
彼は、ふっと短く息を吐いて、俺の頬を軽く叩いた。
目を醒ませと、静かに。
手が襟元に触れる。
さっき掴まれた拍子に乱れていたそれを、リカリオは無言で整えた。
まるで、父親のようだった。
「しっかりしろ。お前はまだ。かろうじて……大丈夫だ」
低く、強い声。
「今までは正気だった。これからも気を緩めなけりゃ、戻れる」
言葉が、胸の奥に刺さる。
戻れる――俺は、まだ引き返せるのか?
「……さ、姿勢を整えろ。入れ」
言われるまま立ち上がると、無意識に自分の手を見ていた。
昨日、リシェに触れた手。
さっき、ジェスを掴みかけた手。
守るための手だと思っていたものが、何かを壊す形に握られていたことに、今さら気づく。
気がつけば、もう総長室の前に立っていた。
扉の向こうに、待っている者たちの気配がある。
俺の息が、細く震える。




