熱心な信奉者
episode_0028
「セラン君、ちょっといい」
回廊の端で声を掛けられたとき、俺は立ち止まった。
振り向くと、リシェリアの侍女サフィアがいた。
アスティ宅から派遣された旧知の侍女で、あの家の連中の中でも特に気安く話せる相手だ。
中性的ですらっとした姿、軽やかな仕草。アスティが好んで並べていた可憐な人形のような侍女とは違い、どこか風通しのいい雰囲気がある。
俺とリシェリアのことも気にかけてくれて、やたら飯を食わせようとするのも相変わらずだ。
「どうかしたのか」
声を潜めて近寄ると、サフィアの顔がほんのわずか険しくなる。
口にしたのはダリオのことだった。
リシェリアの部屋から執務室に向かう道筋に合わせて、巡回を口実に徘徊している。
見える位置でわざとらしく後輩に指導していたりもするらしい。
「声をかけてくるわけではないから止められるわけではないけど……ちょっとね。それにお庭でね」
サフィアは言葉を切り、眉をひそめる。
俺が庭に行けない日に限って、ダリオはそこへ現れ
『セランに頼まれた』とまで言って手伝おうとしたと言う。
庭は定められた許可証を持つしか触れられない、と規則を盾になんとか断ったという。
「セラン君が来ない日は、リシェリアちゃんには庭に行かないように薦めるけど、そっちも気をつけて」
「わかった。ありがとう」
答えた俺に、サフィアはいつもの調子に戻って小さな飴を押し付けてきた。
その仕草に救われる気がして、俺は苦く笑った。
——その後のダリオといえば。
勤務は真面目にこなすようになり、城外に出ることもなくなった。
訓練や巡回、清掃にまで自主的に加わり、上官や同僚からの評判も上がっていた。
もっとも、兵士の間での囁きは一つだった。
「あいつは聖女見習いにお熱だからな」
それは揶揄であり、真実でもあった。
リシェの姿を求めて、勤務を早く終えるために勤勉になる。
終われば、彼女を探して駆けていく。
隠そうともしない心酔ぶりは、次第に周囲に笑い混じりの噂を生んだ。
本人もまた、同期や同部隊の兵に得意げに語りはじめたらしい。
「致死の傷を治してくれた」
「聖女は皆の希望だが、孤独なんだ。それを支えたい」
「リーシュは俺を頼りにしてる」
「他国の間諜に狙われているから俺が警戒している」
誇張や妄想めいた言葉。それが積み重なって、いつしか現実を歪ませていった。
*********
そのあとも城内の巡回勤務に、聖女見習いへ過剰な付きまといがあったとして、祭祀庁より公務妨害へ苦情が入った。事態を重く見た士官部より、城内配備を外された。
配備を門外に回され、城内に入れるのは俺への教育任務か、あるいは兵舎に戻るときだけに限られた。
とはいえ就寝も、任務外の自由時間も兵士としては「待機」に含まれる。
それを破って兵舎の敷地外へ外出も禁止。すでに外出禁止処分まで受けている。
だから最近、ダリオは俺への教練を平然とサボるようになった。
どうやらその間、リシェを探して徘徊しているらしい。
もともと城内のことくらいしか不足はなく、学ぶ内容は早々に尽きていた。だから実際、学ぶことはもうない。
だが本来は、教わりながら二人で分担するはずだった業務を、今は仕方なく俺一人でこなす羽目になっている。
「……もうダメだろうな」
誰にともなく呟いた。搬出入で雑多になった倉庫内の兵站の確認と整理。
頭が暇すぎて、そんな言葉が口をついて出た。
思いもよらず返事が返ってきた。
「何がダメだって?」
扉口に立っていたのはダリオだった。
不思議なことに、今までより正気に見える顔をしている。
「遅かったですね。もう終わりますよ」
嫌味はあまり言いたくないが、さすがに口に出た。文句を飲み込むには、積もる苛立ちがありすぎた。
「ふん、真面目だな。どいつもこいつも」
ダリオは肩をすくめ、独り言のように語り始める。
「何が治安だよ。この国に武力なんていると思うか?大樹がある。リーシュがいる。何も起きやしない。起きたって治せるさ」
淡々と、しかし熱を帯びた調子で。
……ああ、正気で言っている。正気のまま曲がってやがる。
リシェだって、治せるのは“本人が戻れると認めた形”までだ。
お前は――もう、治らねえよ。
「……」
言葉を返す価値もない。俺は沈黙を選んだ。語らせておく。
ダリオは一歩こちらに近づき、にやりと口角を上げる。
「なあセラン。賭けないか?模擬試合があるだろ。結果が良かったほうが勝ちだ」
「……何を賭けるんですか」
意図はすぐに見えた。
奴の目は俺の腕章――リシェに繋がる証へと吸い寄せられている。
「お前が勝ったら、欲しいものなんでもやる。俺が勝ったら――庭への許可証だ」
そう言い切るダリオの顔は、異様な熱を帯びている。
「それは無理です。許されませんよ。それに……俺が怒られます」
即座に言い返した。
賭けられるものじゃない。賭けていいものでもない。
この腕章は国から与えられた証で、俺一人の私物じゃない。
そもそも物を渡したところで、許可そのものが移るわけでもない。
ただの布切れにすぎないはずなのに、リシェに繋がる象徴のように扱われるのが腹立たしい。
だが、そんな理屈はダリオには届かない。
「大丈夫だ。聞かれたらお前が忙しいから頼まれたってことにしてやる。悪いようにはしない」
……そういう問題じゃない。
わかっていながら、奴はもう理屈の段階にはいない。
結局、応じるまで引き下がらないだろう。
「……はあ。勝率の高くない賭けは嫌だなぁ。やる気が出ませんよ」
ため息交じりに弱音を装う。
「……初めて会った時に、ダリオたちにこてんぱんにされたことは忘れてませんよ」
強く否定するよりも、こうして腰を引く方がまだ角は立たない。
少しでも距離を作れるなら、それでいい。
「ははは、大丈夫だ」
ダリオは朗らかに笑った。
「お前も大分強くなってるよ。それに総当たりだから、当たる頃には相手も疲れてる。勝てるかもしれない。悲観するほどじゃないさ。……何が欲しいか考えておけよ」
了承していないのに、もう賭けが成立したかのような口ぶり。
だが、その言葉を返す顔は、かつての兄貴分を気取る普通の先輩兵士のものだった。
――もし、この時のままでいてくれたなら。
きっといい仲間になれたのに。
悲しみというより、残念さだけが胸に残った。
「……仕方ないなぁ。お手柔らかにお願いします」
諦め。相手取ることを諦めた。
「よし!じゃあ試合でな!」
機嫌良く笑い、ダリオは足早に去っていった。
残された空気の重さに、俺はただ小さく吐き捨てる。
……仕事していけよ。




