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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
2章 赤
27/73

熱心な信奉者

episode_0028

「セラン君、ちょっといい」


回廊の端で声を掛けられたとき、俺は立ち止まった。

振り向くと、リシェリアの侍女サフィアがいた。


アスティ宅から派遣された旧知の侍女で、あの家の連中の中でも特に気安く話せる相手だ。

中性的ですらっとした姿、軽やかな仕草。アスティが好んで並べていた可憐な人形のような侍女とは違い、どこか風通しのいい雰囲気がある。

俺とリシェリアのことも気にかけてくれて、やたら飯を食わせようとするのも相変わらずだ。


「どうかしたのか」

声を潜めて近寄ると、サフィアの顔がほんのわずか険しくなる。


口にしたのはダリオのことだった。


リシェリアの部屋から執務室に向かう道筋に合わせて、巡回を口実に徘徊している。

見える位置でわざとらしく後輩に指導していたりもするらしい。

「声をかけてくるわけではないから止められるわけではないけど……ちょっとね。それにお庭でね」

サフィアは言葉を切り、眉をひそめる。


俺が庭に行けない日に限って、ダリオはそこへ現れ

セラン(おれ)に頼まれた』とまで言って手伝おうとしたと言う。

庭は定められた許可証を持つしか触れられない、と規則を盾になんとか断ったという。

「セラン君が来ない日は、リシェリアちゃんには庭に行かないように薦めるけど、そっちも気をつけて」


「わかった。ありがとう」

答えた俺に、サフィアはいつもの調子に戻って小さな飴を押し付けてきた。

その仕草に救われる気がして、俺は苦く笑った。


——その後のダリオといえば。


勤務は真面目にこなすようになり、城外に出ることもなくなった。

訓練や巡回、清掃にまで自主的に加わり、上官や同僚からの評判も上がっていた。


もっとも、兵士の間での囁きは一つだった。

「あいつは聖女見習いにお熱だからな」


それは揶揄であり、真実でもあった。

リシェの姿を求めて、勤務を早く終えるために勤勉になる。

終われば、彼女を探して駆けていく。


隠そうともしない心酔ぶりは、次第に周囲に笑い混じりの噂を生んだ。

本人もまた、同期や同部隊の兵に得意げに語りはじめたらしい。


「致死の傷を治してくれた」

「聖女は皆の希望だが、孤独なんだ。それを支えたい」

「リーシュは俺を頼りにしてる」

「他国の間諜に狙われているから俺が警戒している」


誇張や妄想めいた言葉。それが積み重なって、いつしか現実を歪ませていった。


*********


そのあとも城内の巡回勤務に、聖女見習いへ過剰な付きまといがあったとして、祭祀庁より公務妨害へ苦情が入った。事態を重く見た士官部より、城内配備を外された。


配備を門外に回され、城内に入れるのは俺への教育任務か、あるいは兵舎に戻るときだけに限られた。

とはいえ就寝も、任務外の自由時間も兵士としては「待機」に含まれる。

それを破って兵舎の敷地外へ外出も禁止。すでに外出禁止処分まで受けている。


だから最近、ダリオは俺への教練を平然とサボるようになった。

どうやらその間、リシェを探して徘徊しているらしい。

もともと城内のことくらいしか不足はなく、学ぶ内容は早々に尽きていた。だから実際、学ぶことはもうない。

だが本来は、教わりながら二人で分担するはずだった業務を、今は仕方なく俺一人でこなす羽目になっている。


「……もうダメだろうな」

誰にともなく呟いた。搬出入で雑多になった倉庫内の兵站の確認と整理。

頭が暇すぎて、そんな言葉が口をついて出た。


思いもよらず返事が返ってきた。

「何がダメだって?」


扉口に立っていたのはダリオだった。

不思議なことに、今までより正気に見える顔をしている。


「遅かったですね。もう終わりますよ」

嫌味はあまり言いたくないが、さすがに口に出た。文句を飲み込むには、積もる苛立ちがありすぎた。


「ふん、真面目だな。どいつもこいつも」

ダリオは肩をすくめ、独り言のように語り始める。

「何が治安だよ。この国に武力なんていると思うか?大樹がある。リーシュがいる。何も起きやしない。起きたって治せるさ」


淡々と、しかし熱を帯びた調子で。

……ああ、正気で言っている。正気のまま曲がってやがる。

リシェだって、治せるのは“本人が戻れると認めた形”までだ。

お前は――もう、治らねえよ。


「……」

言葉を返す価値もない。俺は沈黙を選んだ。語らせておく。


ダリオは一歩こちらに近づき、にやりと口角を上げる。

「なあセラン。賭けないか?模擬試合があるだろ。結果が良かったほうが勝ちだ」


「……何を賭けるんですか」

意図はすぐに見えた。

奴の目は俺の腕章――リシェに繋がる証へと吸い寄せられている。


「お前が勝ったら、欲しいものなんでもやる。俺が勝ったら――庭への許可証だ」


そう言い切るダリオの顔は、異様な熱を帯びている。


「それは無理です。許されませんよ。それに……俺が怒られます」

即座に言い返した。

賭けられるものじゃない。賭けていいものでもない。


この腕章は国から与えられた証で、俺一人の私物じゃない。

そもそも物を渡したところで、許可そのものが移るわけでもない。

ただの布切れにすぎないはずなのに、リシェに繋がる象徴のように扱われるのが腹立たしい。


だが、そんな理屈はダリオには届かない。

「大丈夫だ。聞かれたらお前が忙しいから頼まれたってことにしてやる。悪いようにはしない」


……そういう問題じゃない。

わかっていながら、奴はもう理屈の段階にはいない。

結局、応じるまで引き下がらないだろう。


「……はあ。勝率の高くない賭けは嫌だなぁ。やる気が出ませんよ」

ため息交じりに弱音を装う。

「……初めて会った時に、ダリオたちにこてんぱんにされたことは忘れてませんよ」


強く否定するよりも、こうして腰を引く方がまだ角は立たない。

少しでも距離を作れるなら、それでいい。


「ははは、大丈夫だ」

ダリオは朗らかに笑った。

「お前も大分強くなってるよ。それに総当たりだから、当たる頃には相手も疲れてる。勝てるかもしれない。悲観するほどじゃないさ。……何が欲しいか考えておけよ」


了承していないのに、もう賭けが成立したかのような口ぶり。

だが、その言葉を返す顔は、かつての兄貴分を気取る普通の先輩兵士のものだった。


――もし、この時のままでいてくれたなら。

きっといい仲間になれたのに。

悲しみというより、残念さだけが胸に残った。


「……仕方ないなぁ。お手柔らかにお願いします」

諦め。相手取ることを諦めた。


「よし!じゃあ試合でな!」

機嫌良く笑い、ダリオは足早に去っていった。


残された空気の重さに、俺はただ小さく吐き捨てる。

……仕事していけよ。

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