庭番の受難
その日の朝の空気は、やけに澄んでいて、やけに静かだった。
鳥の声すら控えめで、朝露に濡れた土の匂いが冷たく立ち上っていた。
庭の端の土をいじっていた僕は、手の中の芽の発芽の様子を見つめていた。
「よし、こっちは発芽してる。も少し伸ばして、生育いいのだけに絞るんだったよな」
先日から、医務課と同じ種類の薬草を育ててみることになっていた。リシェリアさんが育てたことのない種類だったので、何種類かの土を試していたところだった。
いくつかは土壌が合わないのか、発芽が遅れているのか、まだ種のままだった。
この件はカイルさんが絡んでいるので、そろそろ確認のため、庭にカイルさんを呼ばなければいけない。
……気が重い。
セランさんが絶対来ない日じゃないと困る。昨日だったらよかったのに。
いや、リシェリアさんはいてももらう必要がある。
――昨日はリシェリアさんとセランさん、そろってお休みだったから。
侍女のラファからそう聞いた時、胸のどこかがほっとしたのを覚えている。
あの二人が顔を合わせるたび、周りの空気まで張り詰めるようだった。
僕から見てもさすがに、リシェリアさんも日を追うごとに少しセランさんに困ってることは伝わっていた。
考えるのをやめるにしても、押し寄せてくるセランさんの熱に、若干戸惑っている感じだったから。
そして、あの氷と火の同居みたいな空気の中に挟まれている僕の胃は、もうとっくに限界だった。
もしかして、僕の助言がまずかったのかな。
「リシェリアさん、少し考えるのをお休みした方がいいです」
そんなふうに言ったことに悪意をこめたつもりはなかった。
心を冷やして、力を落ち着かせて、ただゆっくりしてほしかっただけだ。
けれど今思えば、それが逆にセランさんの方を更に煮え立たせたのかもしれない。
恋って、怖いな。
セランさんはこの数日、まるで別人だった。
目が据わっていて、リシェリアさんがいない時は無言でため息が増えた。かろうじて、庭作業を放り出しはしていなかったけど、いる時だけ妙に陽気で、その反動でまた落ちる。
まるで、熱が出たり引いたりする病気の人みたいだった。
……いや、病気なのかもしれない。恋の病、ってやつ。
僕もいつか、あんなふうになるのかな。
そう考えると、少しだけ怖くなった。
リシェリアさんが言っていた“恋が怖い”って言葉、今なら少しわかる気がした。
リシェリアさんは、ずっと誰かに追われてきたらしい。
だから、心が逃げる癖がついてるんだろう。
追いかける方も、追われる方も、どちらも地獄だ。
……そう考えると、王族や貴族の婚姻って、案外理にかなってるのかもしれない。
感情より義務で繋がっていた方が、壊れない。
……僕は?結婚できるのかな。
自分でも苦笑した。
下級だし、守らなきゃいけない家もない。すなわち縁談が降ってわかないから、自力で探すしかない。
サフィアは怖いから……ラファとか、同僚の誰かいい人を紹介してもらえないかな。
……いや、なんか、背中が寒い。
ぞくりとした瞬間。
「おい」
低い声が、真後ろで落ちた。
膝裏まで一気に冷える。
振り向く。
――案の定。
セランさんだった。
眉間に深い皺、唇は真一文字。
怒っている。いや、完全に怒っている。
「な、なんですか」
声が裏返った。喉が勝手に震えた。
セランさんは腕を組み、肩には外套をひっかけたまま。
朝の点呼を終えたばかりのはずなのに、鎧の隙間から熱気が滲んでくるようだった。
寝不足のせいか、赤い髪が少し乱れていて、それが逆に怖い。
「リシェに余計なこと言ってくれたみたいだなあ。ジェス?」
「ひ、ひえ」
思わず両手を上げた。反射的に。
「ど、どれのことでしょう!」
どれのことだ!?
どれもまずい!
どれもまずいなら、いっそ全部白状した方がいい!
「は? 何個もあるのかよ。あのさ」
低く落とされた声に、心臓が止まった。
しまった、先手を取られる――それだけは絶対に避けなきゃいけない!
脳が警鐘を鳴らすより先に、口が勝手に動いていた。
「あ、セランさんとリシェリアさんを最初は恋人だと思ってたことですか!? そ、それともリシェリアさんに恋とは何か聞かれて僕の見解を述べたことでしょうか!? 恋人とは何をするものかお教えしたことでしょうか!? 後は、あとは……グラント様との婚約は公務でだけちゃんとしてれば大丈夫って言っておきました!」
口から命が逃げる勢いで一気にまくし立てた。
自分でも何を言っているのか、途中からもう分からない。
「お、……おぉ?」
セランさんの目が一瞬泳いだ。
よし、今だ! 勢いで押し切れ!
「カイルさんってリシェリアさんのこと好きなのかって、客観的な意見求められた時もありました! セランさんの遠征先の活躍とか噂話を集めてお伝えしたのも僕です! はっ……どこかで助けられたって行商の娘さんから兵舎のセランさん宛てに贈り物が届いてたって、リシェリアさんのいる前で言っちゃったことですか!?」
セランさんの眉が、ピク、と動いた。
やばい。しまった。最後のは言わなくていいやつだった。
「……てめえ……」
低く押し殺した声。
瞬間、首筋に冷たい汗が流れた。
がしっ。
「ひっ」
次の瞬間にはもう、片手で後頭部を掴まれていた。
指の一本一本がまるで鉄の爪みたいだ。
頭蓋ごと握り潰されそうな力。
体内に“ミシ”と嫌な音が走った。
「ま、待って待って待って! でもそれは! セランさんがリシェリアさんにお手紙返信しないからですし! 泣いて何か教えてって、頼まれたらしょうがないじゃないですか!」
声が裏返った。
本当は、泣いてまでじゃなかったけど……そんなこと今は言えない!
命が惜しい!
セランさんの手の力が、ほんの少しだけ緩んだ。
「う……そうか……」
よ、よし。弱まった。今だ!
するりと頭を抜いて、二歩三歩、後退。
息が上がる。肩で呼吸する。
「はぁ、はぁ……か、勘弁してくださいよ……リシェリアさんが、“二人とも苦しまないように振ろうかな”みたいなこと言うから! ちょっとそういうの極端だから考えるのやめましょう! って止めたんですよ! 二人ともショックで死んじゃいますよって! 逆に感謝してほしいくらいです!」
勢いづいて、もう止まらない。
「だいたいセランさん、いい加減に僕に見張りさせて、何っ回、リシェリアさんとイチャイチャしてると思ってるんですか! アスティ様に言いつけてもいいんですよ! まったく!」
実際に一回分は告げ口したようなものだけど、それは命令だから仕方ない。毎日やってたところまでは暴露していないんだから、感謝してほしい。
最後は怒鳴るように言い切った。
腹の底から、恐怖と怒りと情けなさが全部混ざった声だった。
セランさんの顔が、ぽかんと緩む。
目が泳いで、困ったような、子どもみたいな顔になる。
「あ……それは、まあ。なんか……悪かったな……すまん」
――勝った!
叫びたい気持ちは喉の奥でだけに抑えて、小さくこぶしを握った。
危うく命を落とすところだったが、どうやらこの戦、勝利だ。
背中を冷や汗が伝うのも気にならない。
「ふ、ふふん……まぁ、わかってくれればいいですよ」
ちょっとだけ胸を張った。
震えながら。




