少女の望む白い道
リシェリアは天蓋の向こうを見つめていた。
その瞳は、遠い夜空を映しているようで、焦点がどこにも合っていない。
まるで、目に見えない明日の輪郭を探しているみたいだった。
「私は、今は聖女って仕事があるから、それに合わせて従って与えていただいて生きていられる。聖女じゃなければご飯を食べていくことも、苦しいよ」
手を伸ばす。
指先が、まだ温もりを帯びた空気を掴もうとするように揺れた。
彼女の手は、光をすくうように白くて細い。
その仕草の儚さが、なぜだか胸を締めつける。
「でも聖女のお仕事は期間限定で。終わったらまたどうやって生きていけるかなっていつも考えてるの。……アスティみたいに、自立して歩いて行ける力が欲しい。恋なんてまだちょっと手につかないなって思っていたんだよね」
その言葉には、あの子らしい無垢さと現実の影が混ざっていた。
リシェリアには“力”がある。
誰もが畏れ、誰もが利用したいと思うほどの、世界を動かす力。
けれど、今話しているのはそういう力のことではない。
――自分の足で立って生きる力。
守られるためではなく、支えるための生き方。
それを彼女は心から欲しているのだと分かる。
「私みたいに……? たまたま良い家に生まれて、比較的自由に人生を選べただけとも言えるけど。シルヴィナスは女性でも官吏登用は多いからね。貴族令嬢でも普通に働きに出る娘は結構いるのよ。ほら、王宮にも女性官吏はそこそこ見るでしょ」
私は他人より、資産も権威も教育もあった。望む望まずにかかわりなく。
自嘲まじりに言うと、リシェリアはすぐに首を振った。
「でも、お母様の方針と違って、女性でも軍人になって仕事をして、しっかりと生活してるでしょ。すごいと思う」
柔らかい声でそう言われて、少し笑ってしまう。
たしかに、家を出て軍に入ったのは私のわがままだった。
母は軍で働かせたくはなかったと知っている。父は領から出したくなかったとも。
王宮に出るにしても、文官や家庭教師、祭祀官。もっと穏やかな道もありはした。
でも籠の鳥から出たかった。切り開く力も欲しかった。
そして父の昔の部下に頼みこんで武官への道に入った。
それでも、望めばその道に入ることは容易だった。
「だから、アスティは普通じゃないね。でも自分で選んでそこにいる」
リシェリアは、再び視線を宙に戻した。
少し遠いところを見つめて、淡く笑う。
「……私は、普通を探してる。そうだったことがないから、まず普通になりたいな。
これからも、セランに寄りかかって迷惑をかけるだけの生き方をしたくない。……別の新しい人に寄りかかりたくもない」
その一言に、名前は出していないのに、誰のことを言っているのかが分かる。
彼女は、カイルに“乗り換える”ような生き方を望んでいない。
依存ではなく、共に歩む関係を求めているのだ。
それが分かるから、私は静かに頷いた。
「でも、なかなか私に出来そうなことを探すのって難しいね。普通の人よりずっと遅れてるから。……生き物としてはもう繁殖の適齢期で、普通の町の人達はもう結婚して子供を持ってる人も多くて。あ……普通を目指すなら、やっぱり恋をしたり相手も探さなきゃいけないね」
――普通。
その言葉が、妙に胸に響いた。
リシェリアにとって普通は、どんなに遠い場所なのだろう。
彼女は神のような存在でありながら、誰よりも人間らしく“普通”に憧れている。
恋をして、誰かと暮らし、働き、年を取る。
そんなありふれた幸福を、きっと夢のように見ているのだ。
「……普通に。ね。前にも言ったけど、リシェリアは聖女任期明けはそのまま祭祀庁に勤務するのが手っ取り早いと思うわよ。能力で給与も色が付くし、貴族令嬢が多いから嫁いじゃうのが大半だけど、元聖女の前例は過去にもいる。あ、たしか高等祭祀官のコンラートの妻が、元聖女、元平民で元祭祀官……ううん、今は育児で休職しているだけだったから今も祭祀官ね」
私の言葉に、リシェリアがぱっと顔を上げた。
その青の瞳が、今度はきらきらと輝く。
「え、そうなの? そうなんだ。私と似てるね……! 会ってお話をきいてみたいな」
今夜いちばん、リシェリアが興味深そうに身を乗り出した。
声の調子も明るくなり、髪が光を弾く。
この子の好奇心の素直さには、いつも救われる。
「いいんじゃない? カイルからコンラートに頼んでもらえるか、聞いてあげようか」
そう口にしてから、少しだけ胸の中で苦笑した。
元聖女の祭祀官夫人。彼女から聞ける生活は、参考になると言っても描かれるのはカイルを選んだ未来の形に近いだろう。
これではまるで、カイルの肩を持つようなものだけれど。
まあ、いいか。セランの方には、少しくらい天罰が落ちてもいい。
カイルに近づけることが、正しいのかどうかは分からない。
あの男もまた、リシェリアの前では平静を欠く。けれど、少なくとも今の彼は、彼女が自分で考えるための道具と場所を用意できる。
セランが彼女の過去を守ってきたのだとすれば、カイルは彼女の先を照らすことができるのかもしれない。
だからこそ、厄介なのだ。
どちらも必要で、どちらも危うい。
そう思いながら、私はそっと寝台の灯を落とした。
灯を落とすと、部屋の中はすぐに夜の色に沈んだ。
露台の向こうから、花の匂いを含んだ風が細く入り込み、天蓋の薄布を静かに揺らしている。
隣でリシェリアが小さく身じろぎをして、やがて私の袖を指先でつかんだ。
眠りに落ちる前の、頼りない仕草だった。
私はその指先をほどかず、暗がりの中で目を閉じた。
リシェリアは、恋を探しているのではない。
自分の足で立ったまま、誰かの隣にいられる道を探している。
その希求を、誰にも踏みにじらせたくないな。
セランにも、カイルにも。
もちろん、私たち大人にも。




