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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
22章 白の希求
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体話

「どうして?」


リシェリアの声は、ほんの少しの間を置いてから落ちた。

氷が張った湖面のような、くすんだ青の瞳がこちらを見ている。その色は冷たく、光を映しているはずなのに、どこにも感情が返ってこなかった。


虚ろな色。

その瞳に映る自分の顔が他人のように見えて、思わず息が詰まった。

少し、心がすくむ。


「ただの、物理的な接触でしょう」


リシェリアの唇がわずかに動く。

その声は、ぬるく温まっていた空気をいっぺんに凍らせるほどの冷気を帯びていた。

まるでこの部屋だけが、急に季節を巻き戻したかのようだった。


言葉が、遠くで響く。

感情がどこにもない。

平坦で、穏やかで、それゆえに底知れない。


……どうしてだっけ。

何を話していて、どこからこうなったのか。

一瞬、思考の糸がぷつりと切れたように、記憶が掴めなくなる。


「生命の営みの行程のひとつじゃないのかな」


その声を聞いた瞬間、背筋が粟立った。

氷のような静けさの中で、目の前の少女がまるで別の存在に見える。

無垢なのか、無関心なのか、あるいは――何も知らないのか。


視線を返すこともできず、私は沈黙のまま、息を詰めていた。

なぜだろう。射すくめられているような感覚がある。

力ででもなく、理屈ででもなく、ただ真っ直ぐに“無”を見せつけられることの恐怖。


……愛のない行為はある。

頭の中で、古い記憶が重なっていく。

王侯貴族の婚姻は政治で決まり、子を成す相手すら選べない。

私だってそうだ。自分の血をどう使うかは、いつだって他者の都合で決められる。

それでも――その中で自分の意思をどこかに持つように、私は育った。


金や権力のために体を売る者もいる。

使命や信念のために行為を重ねる者もいる。

選ぶにせよ、選ばされるにせよ、そこに「自分」がある限り、それはまだ人間の業だ。


けれど。

愛もなく、信念もなく、喜びすらない行為――それはただの蹂躙。暴力だ。

そこには心がない。

心が介在しない行為は、人が人にすることではない。

私はそれを罪だと思っている。

それを許す気にはなれない。


だから。

セランも、カイルも、リシェリアに対してその一線を越えなかったことに――私は今、心の底から安堵している。


あの二人が、彼女の“心”を待つことのできる人間でよかった。

欲に負けず、恐怖に屈せず、彼女を“人”として見てくれたことが、どれほど尊いか。


胸の奥を撫で下ろす。

リシェリアの瞳はまだ揺れている。けれど、その奥に、ほんのわずかでも光を見つけた気がした。


彼女の中では、少しずつ何かが育ちつつある。

感情という花。

それは、まだ形にならない。

けれど、確かに芽吹いていると日々感じている。


それでも、彼女という人格は、まだ生まれたばかりの新芽のようなものだ。

恋をする、愛を知る――そんな段階に立っていない。

知識としてそれを語ることはできても、心で感じたことはない。


博愛でもなく、色狂いでもない。

ただ、無垢。

自分の身体を、自分のものではないように扱われる痛みを、まだ知らない。


蹂躙されるということを知らずにここまで来た。

それがどれほど幸運で、どれほど奇跡的なことか。

今さら、そんなことを覚えてほしくない。


セランの祈りが彼女を守り、カイルがその心に水をやり、そして私は――彼女がそのまま育っていける場所を、守りたいと思っている。


静かに息を吸い込んだ。

すう、と音がする。


「わかった。身をもって教えてあげる」


リシェリアには、感覚と知識が連動した方がいい。

そう考えたのは、彼女が口付けの体感を語る様子を見ていたからだった。

言葉では理解しているけれど、身体の経験としては結びついていない。

ならば、教え方を変えるしかない。


「リシェリア。ちょっとうつ伏せて」


「うん」


素直に従って、リシェリアが寝台に身を伏せた。

薄布が滑り落ちて、背中の曲線が月光のように露わになる。

白磁の肌。息を飲むほど整った背のライン。

その肩甲骨のあたり、聖痕があるはずの位置が、まるで燐光を帯びているかのように見えた。

力を発しているわけではない。けれど、彼女の存在そのものが光を孕んでいるようだった。


「よいしょっと」


私は寝台に膝をつき、リシェリアの背の横に身を寄せた。

おそらく、世界中でこんなふうに聖女を扱えるのは、私くらいだろう。

そう思うと、少し可笑しくて、笑みがこぼれた。


「力抜いて」


そう声をかけながら、露わになった背骨に沿って指を滑らせる。

筋肉の流れを探るように、慎重に、しかし遠慮なく。

しなやかな皮膚の下にある、細い筋を押しほぐしていく。


「え? 何!?」


あまり動じることのないリシェリアも、流石に驚いたようだった。

その声が少し高く響き、私はおかしくなって思わず口元を押さえた。


「ふふ、大丈夫。ただの按摩」


聖女の肌に触れているという事実に、妙な緊張が走る。

それを打ち消すように、私は淡々と指を動かした。


「!? ん! は……! ……!」


次の瞬間、予期せぬ声が漏れた。

湯上がりの部屋に響くその音は、思わず頬を熱くさせるほど予想外だった。


……刺激が強すぎたかもしれない。


それでも、筋肉を壊さぬよう、指先の圧を柔らかく変えていく。

彼女の体温が伝わってくる。

こりをほぐすたび、微かに息がほどけていくのが分かった。

まるで氷の下に閉じこめられていた血が、ようやく流れ出すように。


ひと通り終えてから、私は軽く背中を叩いた。


「はい、おしまい」


リシェリアがゆっくりと体を起こす。

いつのまにか、あの空虚な気配はすっかり消えていた。

頬が上気して、目尻にうっすら涙。

痛かったのか、気持ちよかったのか――その判別のつかない顔に、思わず息を呑む。


……本当に、私は男じゃなくてよかった。

こんな無防備さを向けられたら、誰だって判断を誤りかねない。


「ごめん、痛いところあった? これが按摩。指で筋肉を押して凝りとか血行をほぐすっていう、癒しの施術のひとつね」


「……大丈夫。刺激的だった。……はじめてだったから驚いただけ」


衝撃は凄かったらしい。

頬を染め、まだ息が整っていない。


「リシェリアみたいな異能がない人は、こういう疲労回復もするのよ」


私は手ぬぐいで汗をぬぐいながら、できるだけ落ち着いた声で説明する。


「リラックス効果のほかに、鍛錬の後とか筋肉関連の治療にも使うわね」


「ベ、勉強になりました……」


学者のような眼差しで言う彼女に、思わず笑みが浮かぶ。


「される方は気持ちいいんだけど、する方は疲れるのよね。それで、うん……」


流石の私も、そこから先は少し照れくさくて、言葉が詰まる。

閨の教育なんて、人にしたことはないのだ。


「今の按摩は、基本的には私が一方的に手を使って、リシェリアの体を楽にしただけ。でも、誰かと肌を重ねることや、抱き合うことは、お互いが相手に尽くす……奉仕し合うイメージかな」


片手で指圧の形をつくり、もう一方の手をその上から押して見せる。

小さな実演。

リシェリアは興味深げにその手の動きを目で追っている。


「私がリシェリアが気持ちいい場所や、体にいい場所を押して探ったみたいに、交代じゃなくて探し合う……だから、片方だけじゃダメなの。同じくらいやる気……熱量がないと、疲れちゃう。不公平でしょ」


手を天秤のように動かして、わざとバランスを崩してみせる。


「……癒しの力で無理矢理公平にしてもダメ。それは施し。大事なのは結果じゃなくて……この過程。対話なんだから」


抱き合うことも、対話。

身体を通じて相手を理解する行為。

彼女がまだ知らないだけで、きっとできる子だ。


リシェリアは小さく頷き、目を見開いた。


「……対話! そっか。ありがとう。今までで一番、すごくわかったかも」


私は微笑み、息を整えた。


「だからね、今後そういう時、相手の熱量と自分の熱量が、同じくらいに思えなかったらやめておいてほしい。不公平だし、それは相手も自分も傷つける事なの。だから同じくらいか、ちょっと自分の方が上だと感じるくらいがいいと思う」


「熱量なんて、目に見えないじゃない?」


「そうね。もし……困ったら、リシェリアの想像の中の私が、いいって言うか聞いてみて」


最後は彼女の中の“私”に託すしかない。

それを想像したのか、リシェリアがくすっと笑った。


「……厳しそうだね」


「でしょう?」


二人で笑い合う。

月明かりの下、笑い声が柔らかく溶けて、部屋の空気に温かさを戻していった。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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