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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
22章 白の希求
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癒しの外側

「やったことはないから、可能性の話。恋が生み出す緊張、動悸や熱や震え。それに……心が傷だと認識する痛み。現れた症状そのものを、癒しで抑えれば、そのうち……体がそれを恋だと認識しなくなる。……と思う」


リシェリアの言葉が湯気の中で揺れる。

私はその言葉を反芻しながら、彼女の濡れた髪が肩先で淡く艶を帯びているのを見ていた。


灯りは低く抑えられ、石の壁に映る影がゆっくりと揺れている。


その発想は、あまりにも純粋で、無垢で、だからこそ刹那的な救済を孕んでいた。

リシェリアは心の動きを、体の反応の一種だと素直に捉えているのだろう。傷ついた心に、癒しが救いになるように。

だが、その単純な論理が胸の奥を冷たく締めつける。


……でも悲しい言葉だ。


彼女の目は薄く伏せられている。瞼の縁がまだ赤く、こぼれた涙は湯に落ちて小さな波紋になった。私は俯いたまま、言葉を選ぶようにゆっくりと息を吐いた。


無垢で、善意からくる言葉だろう。けれど、セランには……決して言ってはいけない。


あの頃の彼を思い描くと、私はどうしようもなく胸が痛んだ。


あの無鉄砲で真っ直ぐだった少年。

祠堂で初めて会った時、武装したダリオに掴まれたリシェリアを守ろうとして、迷わず飛び込んできた。その若さと決意は、今の彼の根幹を形作っている。

あのセランに、恋を消せなどと、傍で見てきただけの私が簡単に言えるはずもない。


私は言葉を軽やかに整えた。重さを渡さないために、笑いを混ぜて。


「ま、幸せな悩みじゃない。普通はそんな大事に思ってくれる男が二人も現れるなんて、そうそうないからね」


言い終えると、湯気の向こうでリシェリアの目が丸く見開いた。


「そうなのかな? ‥‥そうだね」


困ったように小さく笑うその顔に、私自身が少し救われる気がした。

彼女が肩の力を抜くのを見届けてから、続ける。


「でも、消す消さないはやめておいた方がいいかな。その傷も含めて、その人だから。私も、辛いことがあっても、それがあったから私とリシェリアが出会えたんだとしたら、否定したり、なかったことにしたくない」


湯の音が静かに二人の言葉の隙間を満たす。私は言葉の端々に慎重さを織り交ぜた。


「だから、後悔しないようにとか、これ以上傷が深くならないようにとか、そういうのを頑張りましょ」


彼女の過去も今も、丸ごとを受け止める覚悟があることを、軽やかな口調の中に隠して示したかった。


「そっか……」


リシェリアの声に、ほっと息が混ざる。私は彼女の表情に目を寄せた。少し楽になったような、腑に落ちたような、柔らかな笑顔が戻ってくるのを見ると、胸の奥に沈んでいた石が、少しだけ軽くなる。


「そういえば、セランにも前に言われてたな。……消してほしくない傷痕もあるって」


私は頷いた。

誰しも、抱えた痕跡の上に今の自分を立たせている。


「そうそう。転んで枝を引っかけただけの傷を、格好いいからってわざわざ残してた馬鹿もいるわよ」


「ええ? 本当に?」


私はからかうように、声調を維持しながら、しかし核心を一歩だけ突いた。


「で、セランに何されたって? 場合によっては死ぬよりも痛い目に遭わせてあげるわ」


湯の音が小さく跳ねた。

リシェリアは、私の冗談めいた脅しに気が緩んだように目を細めた。


幸い、リシェリアの首の噛み痕は治せる。

そして、私がセランを張り倒しても、その怪我も治せる。

だから制裁のために多少殴り飛ばすくらいなら、許されるだろう。そんな乱暴な考えが胸の片隅をよぎる。


「あ、あのね、アスティ落ち着いて。別に、本当にひどいことはされてないよ。最近困ってたことと言っても……くっつきたがる時間が長いのくらいで」


「じゃあ、今日も、小屋の中でも……抱擁以上のことはしてない、でいい?」


静かな湯の音が、言葉のあいまをやさしく埋めていた。


「あ……ううん。えっと、口づけはしてるね。でも挨拶とかいつもの、あのおまじないみたいな感じだよ」


リシェリアの声はいつもよりも低く、湯気に溶けるように柔らかい。

その言葉の端に、どこか子供っぽさを恥じるような笑みがにじむ。


ほっとする。

……まあ、セラン相手でその程度なら。


リシェリアの、心を許した相手への接触の緩さは、把握していた。

相当に緩い。少なくとも私が泊まるたびに、甘えて頬に触れる回数は数え切れない。それこそ犬猫のようで愛らしいけれど、少しだけ不安がないわけでもない。


おまじない。

……悪夢を寄せ付けないようにと、瞼に口づけする――母が幼子の安眠を願うようなあの仕草。


私も二人を拾った最初の夜から、リシェリアが涙目でセランにねだるのを何度も目撃したことがある。


……おそらく、今のセランの方はそんな意味でしていないが。


「でも、離れて寂しかったからって、たくさんするか、舐めるみたいに濃いのがしたいんだって」


「へ、へえ……そう」


しまった。

どちらも知り合いである二人の、そんな話を具体的に聞くことは、苦痛だということを忘れていた。

近衛の現場に出ていた頃、貴族令嬢が宮廷で事件を起こすたびに、女というだけで事情聴取担当をさせられていた時、うんざりしていたというのに。


赤面というよりも、ただただ居心地が悪い。


「うん、セランはちっちゃいころから舐めるの好きなんだよね。犬みたいでちょっと可愛いでしょ」


湯の縁に指を置きながら、唇をそっと触れるように撫でた。

頬に宿る微かな赤み、笑いながらも少し伏せた瞳。

その仕草のあどけなさと艶めかしさのあわいに、思わず目を逸らした。


自分の性愛の対象にリシェリアが含まれなくて、本当によかった。

この天然の柔らかさに、どれほどの男が足を取られるか分からない。


彼女にとっては「可愛い」で済ませられるのだろうが、セランの方はたまったものではない。

気の毒だが、妙に羨ましくもある。


「今日はね、別にそんなこともなかったんだけど。お昼寝していたら、セランが寝ぼけて……舐めたり噛んじゃったりしたみたい。えっと、そういうことなの。それで……死にそうな顔になってた」


湯気がわずかに揺れた。

リシェリアの言葉は淡々としているけれど、そこに潜む事実は重い。


……要するに、襲おうとしたのだ。


彼女は自分では見えない首筋のあたりに指を伸ばし、そっと探るように触れた。

そこにある歯形を思い出したのだろう。

照れたように頬を染め、俯くその姿は、恋に惑う乙女そのものに見えた。


「謝ってくれたし、別に気にしなくてもよかったんだけどね」


そう言って微笑む。

そのあっけらかんとした許し方が、胸にひっかかる。


……酷い暴行の話にも聞こえる。

けれど同時に、甘い夜の告白のようにも響く。

そのあやうさに、私は知らず息を詰めていた。


「……ま、起きたことはわかった。でも、寝ている時や酔っている時みたいに、合意が取れない状態で、勝手に触れたりするのは良くないことよ。リシェリアがたとえ気にしないとしても。このことは後で私から制裁しておくわ」


湯の底に沈むような静けさの中で、私は淡々と告げた。

それでも言葉の芯には、怒りが潜んでいた。

少なくとも、私はセランがリシェリアの首筋に歯を立てたことを許すつもりはない。

あの青年の理性の強さを知っているからこそ、今回の出来事は許しがたい。


そういえば、あの男。


薄く苛立ちが湧いた。

禁止規則を作らせ、カイルだけ守らせておいて。


……自分は小狡く小屋に連れ込んでいたのかと思えば、やっていることがそれか。


セランには今日のような二人きりの休み以外、人目を避けてリシェリアに触れられる場所など、庭の小屋くらいしかない。


私が作ってやった交流の場は、そのような逸脱した触れ合いのためのものではないというのに。


「そう。……でも、リシェリア。セランは犬じゃないよね。城内で、成人男女が密室で二人きりになるのはいけないと、口を酸っぱくして言っていたのは忘れちゃった?」


「あ……」


「不必要にくっついたり、そういう他人に見せられない触れ合いは、そもそも城内でしていいことではないよね? これはセランが、カイルが、ということじゃなくて、皆の生活のための決まり事なのよ」


そういうことは原則、私的な時間、私的な空間ですることだ。もちろん皆が守れているわけではない。

馬鹿みたいな逢瀬や不倫現場に鉢合わせることはある。見つかって罰せられるのも、それは彼らの自業自得。


でも、リシェリアを一方的な被害者にさせないためには、無知のままにしておくわけにはいかない。


「ごめんなさい。そう、だったね……。でも、セランは、かぞ」


――セランは家族だから。

確かに親族なら多少は密着しようが許されるかもしれない。

セランのためか、庇おうとする気配を感じて、先んじて制する。言い逃れる経験をさせてはいけない。


「セランは “聖女の” 家族じゃない。……リシェリアの家族だとしても」


リシェリアの家族かもしれない。

城に住むことが許された聖女の家族としては認知されていない。幼馴染は親族じゃない。

リシェリアの距離感が近い気質も、あの放浪の頃の生きるために寄り添っていた生活も知った上で断じる。今は、規範にリシェリアを守らせるしかない。


「はい……気を付けます」


申し訳なさそうに微笑むリシェリアを見て、私は心のどこかで胸を撫で下ろした。


「リシェリア。恋は別に義務じゃない。セランとカイルのどっちかを、選ばなきゃいけないわけでもないからね。気に入らなきゃ断ればいいし、今はまだ分からないなら、選ばなくてもいいの」


「アスティみたいに?」


いたずらっぽく見上げるリシェリアの瞳が、灯の光を映して揺れる。


「そう。何度でも挑戦させたらいいのよ」


湯の表面に映る笑顔が、ゆらゆらと揺れた。

リシェリアは小さく息を飲んで、それからようやく頷いた。


「……うん。ふふふ、アスティは頼りになるね」


彼女の言葉に、自然と微笑みが返る。

その小さな手を取って、軽く握り返した。


「よろしい。もう上がって、目も体も休めましょ。明日には少しすっきりしてるはず」


「アスティと一緒に寝られるの嬉しい。今日からセランがもう添い寝してくれないって言うから。寂しくて」


「うーん……それは魔性の女ね……」


軽く肩をすくめて笑う。

まったく、セランにも少し同情する。

こんな娘を相手に、今までよく平静でいられたものだと心底思いながら。

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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