恋識錯誤
焦燥が胸を締めつけるが、彼女を緊張させてはならない。一度深く息を吐き、いつもの調子で促す。
「それで、何から聞こうか」
「うん……今日はセランと、お休みをいただいて出かけてきたのはアスティも知ってる通りだけど」
リシェリアの声はか細く、湯気の向こうで霞んでいた。
「そうだね……喧嘩したとか?」
努めて穏やかに、問いを差し出す。
「うん……そんな感じ、かな」
なんとなく、言葉を探している様子だった。奥歯に物が挟まったように、話し方が曖昧だ。思い出すのがつらいのか、それとも、話せない理由があるのか。
……あの男、さっき殴っておけばよかったか。
心の奥で舌打ちを飲み込む。だが、今は責めるときではない。リシェリアの緊張をほどくため、話題を軽く逸らす。
「ふふ、今日はね、こっちも大変だったのよ」
湯を撫でるように指先でかき混ぜながら、冗談めかして続けた。
「カイルがまた私に“緊急事態”だなんて言うから。ついていったら、案の定。イェルス邸よ」
リシェリアが、少しだけ顔を上げた。その反応にほっとして、話をつなげる。
「グラントはね、雑務を手伝わせてから求婚しようとしたのよ。その上カイルは、連れてきといて逃げようとするから投げ飛ばしてやろうかと思ったわ」
グラントと私の間の賭けの真実は、当事者のリシェリアには言うことはできない。
カイルの魂胆に乗るのは癪だが、ここは面白おかしく、表向きの顛末だけを話す。つまり、グラントが私に求婚したがっているという話として。
湯の表面に波が立つ。
リシェリアの肩がわずかに震えたが、次の瞬間、ほとんど聞き取れないほどの小さな笑いが漏れた。
その音を聞いた瞬間、胸の奥の硬いものが少しほどけた気がした。話すことを怖がらせないように。そうやって、彼女の言葉を待つために、私はひとつひとつ軽口を重ねていった。
「というわけで。カイルを私の代わりにグラントの所に置いて帰ってきたところだったのよ。……だから今頃、二人で残業でもしてるでしょうよ」
話を締めくくりながら、わざと肩をすくめて見せる。
顛末は劇的だったが、まとめは軽く、何でもない調子で。重くなりすぎないように――それが、今のリシェリアには一番いい。
「グラント様……流石にそんな求婚の言葉じゃ。ふふふ。求婚なら、あと三回でも足りないかもね」
顔をわずかに赤らめながら、それでも笑って言うリシェリア。その声に、湯気がゆるく揺れた。
「そうでしょ?!」
思わず声が弾む。久しぶりにリシェリアの笑みを見て、胸の奥が少し温かくなった。
笑い声が湯殿に反響する。小さく、けれど確かに明るい音。気づけば、先ほどまでの重苦しい空気がすっかり和らいでいた。
しばらく湯気の中で笑いが続き、ようやく落ち着いたころに、私は少し柔らかな声で切り出した。
「それで。どうしちゃったの、そっちは?」
軽い調子で、あくまで自然に。
けれど、彼女の中で言葉を引き出せるよう、耳だけは真剣に傾ける。
「え、ええと……」
リシェリアが小さく息を吸う。
お湯の表面に映るその顔が、揺れる。
私は何も言わずに頷いた。話したくなるまで待つ。焦らせない。
やがて、リシェリアは意を決したように口を開いた。
「カイルもセランも、私に恋をしていると……私のことを好き……だと、言ってくれていて……」
おずおずと、言葉を選ぶように。
その告白を聞きながら、私は静かに頷いた。
「うん」
それは、城のほとんど全員がとうに察している事実だった。
誰もが気づいていたのに、誰も言葉にしなかっただけの話。そして、グラントとの婚約で無理に塗り固められた、沈黙の了解。
……あの二人も、ついに口にしたのか。
今この時点で、何を言っても現状は動かない。婚約は確かに存在し、誰も簡単には覆せない。それでもなお――口にせずにはいられなくなったのだろう。
ああ、まったく。
恋に溺れる男というのは、どうしてこうも愚かで、放っておけない生き物なのか。
リシェリアは、指先でお湯をすくいながらぽつぽつと続ける。
「カイルは、私の手をとって自分の胸に当てて、鼓動を聞かせてくれて……これが恋だと教えてくれたの」
湯気に包まれた声が震える。
「恋すると動悸が上がって、胸が苦しくて、いろんな症状があるって。幸せなのに心が痛くて、判断力も鈍って、愚かな行動をしてしまう。嫌われたら心臓が止まるって言っていた」
甘い話のはずなのに、空気は凍るように静まった。
ときめきではなく、何かに怯えるような口ぶり。リシェリアは自分を抱きしめ、湯の中で小さく縮こまっていた。
「セランは、言葉じゃなくて……行動で私に教えてくれた」
声が震えながらも続く。
「会うと嬉しくて、離れていると寂しくて。ずっとくっついていたいんだって。そうじゃない時は苦しい顔になってて、かわいそうに思った」
私は目を閉じて聞いた。
情景がありありと浮かぶ。彼女を前にして、あの赤毛の青年が苦悩に満ちた顔をしている姿が。どうやら遠征という物理的な距離が、二人に変化をもたらしたらしい。
「今日はね、セランは気持ちが思い通りにならないみたいで、したくないことをしちゃったって、絶望してた。……本当に死ぬかもしれない顔をしてたの。でも、恐怖にとらわれていると私の言葉も手も届かなくて。今までずっと一緒にいた私の言葉にも怯えてた」
掠れた声で吐き出された言葉は、湯気の向こうでほどけた。
私は静かに聞き続ける。彼女の肩を包む湯の表面が、わずかに波立っていた。
「セランに今日されたことも、カイルが前に特別礼拝堂でくっついたりしてきたことも……そういうこと自体は、私は嫌なわけじゃないの」
いや、カイルがリシェリアを“吸う”のは嫌がっていた気がするけれど……脳裏で浮かべて苦笑いが出そうになる。思い出させて話の腰を折るわけにもいかない。
「したいなら、全然。するのは構わないんだけどね」
リシェリアの指先が、水をかき混ぜるように動く。
その仕草に、ためらいと迷いが滲む。
彼女は小さく息をついた。
「それだけじゃだめなんだって。二人の恋の苦しさは、私の答えじゃ、癒せないって」
湯の表面に、ぽたりと涙が落ちた。
「二人のことは好き。愛しているって思ってるの。違う尺度だけど、大事な人で……かけがえのない人。だから二人を苦しませるなら……恋なんて、しなくてもいいんじゃないかって、思ってた。今もまだ、ちょっと思ってる」
湯殿の静寂が、ふたりの間に広がる。
灯の光がゆらゆらと揺れて、壁に映る影が伸びては縮んだ。
その時点で、ようやく分かった。
この子は、恋を告白されたのではない。病の症状を聞かされ、処置を求められているのだと思っている。
「ジェスにね、そんなに思いつめないで、ちょっと考えるのお休みにしたほうがいいですよって言われちゃった」
「うん。それはいいかもね」
その名が出てきて、少し安心した。ジェスらしい答えだ。
あの子を呼んだのは間違いではなかった。冷静で、思いやりがあって、誰よりも地に足の着いた助言をくれていた。
「だけどね。考えるのやめる前に、今日セランが……すごく辛そうにしていたから。……セランに、そんなに苦しいなら、恋を消そうかって聞いたら、怒鳴られちゃって」
「……消す?」
自分の声が、思っていたより低く響いた。
湯殿の中で、湯気だけがゆっくりと流れている。
白く濁った薄い帳が、灯の光を飲み込みながら、リシェリアの輪郭を曖昧にしていく。さきほど落ちた涙の跡も、もう見分けがつかなかった。
恋を消す。
その言葉だけが、湯気に紛れず、冷えた刃のように残っていた。




