門限破りの帰還
イェルス邸に行ったせいで大幅に時間を浪費していた私は、大慌てで本日の執務を圧縮しながらこなしていた。
とはいえ、リシェリアの迎えだけは代理を立てることもできない。きりのいいところで切り上げ、残りを補佐官に投げて、王城の西門まで迎えに来たところだった。
――いない。
それとほぼ同時に、慌てた様子の伝令が走ってきた。
王都外壁の市門からの報告だった。
規定の閉門時間を過ぎても、指定の赤毛の男はまだ門を通っていないという。
王城の西門で待っていれば済む話ではなくなった。
驚いて、私はすぐに馬を引いた。
獣か、賊か。事故かもしれない。セランが護衛で、リシェリアが異能者だとしても完全ではないのだから。
セランとリシェリアを探すため、王城を出て、市街を抜け、王都外壁の門外へ向かう。
もう初夏で、外はまだ完全な夜闇ではない。
風が穏やかで、落ち切る前の残照が石畳を薄く照らしている。
——城内にカイルは戻ってきているだろうか。
なるべくセランとリシェリアの休日については、カイルの耳に入れたくない。あの男は聡明なのに、リシェリアのことだけは理性が飛ぶ。
何をするか分からない。
門番や最低限の人間しか周知していないが、今日は約束の門限を過ぎていた。
夜警に当番が変われば、祭祀庁にも報告が流れてしまう可能性がある。
余計な詮索を避けるためにも、早く回収するのが得策だった。
いた。
幸いにも、門外の道を進むと、ほどなく二人の姿を見つけた。
一頭の馬に相乗りして、赤毛の男がフードを被った女性を前に乗せている。
セランが手綱をとり、リシェリアを前に抱くようにしていた。
遠目に見ても怪我はなく、まずは胸を撫で下ろす。
すぐに馬を寄せて声を掛けた。
「閉門時間を過ぎるなと言ったはずでしょ。……何もなくてよかったけど」
「すみません」
セランが短く詫びる。
その声音には緊張も焦りもなく、どこか心がここにない調子だった。
バージェスの報告通り、遠征から戻って以降のセランは妙に緩い。リシェリアを小屋へ連れ込んだと聞いた時点で叱責案件だと思っていたが、今の様子を見る限り、色惚けているとしか思えなかった。
理性的にリシェリアを守り抜いてきた男とは思えない。
……浮つきやがって。
半眼で睨みつけておく。
叱責は後回しだ。今は聖女の身柄を塔に無事に戻すのが先だった。
「リシェリアは私の馬に乗せて。そのまま私が門を通す。あんたはこのまま別門で兵舎に一人で戻りなさい」
「了解しました」
セランは短く答え、わずかに間を置いてからリシェリアの肩にそっと触れた。
その指先が、ほんの一瞬だけ離れがたそうに止まった。
「じゃあな」
リシェリアは黙って頷き、私の方へ体を移した。
軽く手綱を引いて、彼女を馬の後ろに乗せる。
「リシェリア。さ、ちゃんと捕まってね。帰るよ」
「ん」
かすれた声。いつもの柔らかさがない。
疲れているのか、それとも――。
小さな胸騒ぎを覚えながら、私は無言のまま門へ向かった。
衛兵に簡単な謝意と挨拶をして、あたかも最初から私が連れ出していたかのように城内へ戻した。
誰の目にも怪しまれないよう、平然と振る舞う。
馬を下りて、リシェリアを鞍から降ろしたとき、ようやく彼女の顔が見えた。
「どうしたの、その顔。可愛いのが台無しじゃない」
外套を下ろすと、頬を伝った跡が見えた。
泣いていた。目の縁が赤く、唇が少し震えている。
何かあった。あって遅くなったのだ。
「うん……話せる?」
所在なげにそう言う彼女を前にして、断れる私ではない。
一も二もなく頷いた。
「もちろん。まずは部屋に戻ってからね」
ああ、恋の悩み。
とうとう、私に話してくれる気になったのかもしれない。
サフィアに声をかけ、聖女居室の客用寝具を整えさせ、今夜も私が泊まることを伝える。
ただし、他の侍女の同室も控えるように手配を頼む。
リシェリアの泣き腫らした顔をサフィアにも晒したくはなかった。
ましてや、セランが泣かしたなどという話を知られたら、どんな波紋を呼ぶか分からない。
「世話は私がする。湯の準備と、よく眠れるように軽めの酒、用意したら、サフィアも下がっていて」
命じる声をできるだけ穏やかにした。
サフィアは一瞬だけ迷ったように私を見たが、すぐに深く一礼して静かに部屋を辞した。
扉が閉じる音を聞いてから、私は小さく息を吐く。
そのままリシェリアの肩を支え、湯殿へと連れていった。
蒸気が柔らかく立ち上る。
湯気の白さが灯の光を溶かして、二人の姿を淡く包んだ。
お湯の中で、リシェリアの肩の緊張がようやくほどけていくのが伝わる。
「よーくあっためて。目も楽になるわ。そのままでいいからね」
絞った清布を温め直し、彼女の顔にそっと当てさせる。
頬や瞼が火照りで赤くなる。泣き疲れた子供のような顔だった。
リシェリアの目を覆いながら、私はそっと体に目を走らせた。
「……!」
怒りが、胸の奥で静かに沸騰していく。
手首に、薄く青痣。
指の形までは残っていない。
けれど、偶然ぶつけた痕ではない。
力を込めて掴まれた痕だ。
首筋には、浅い歯形。
近づいて見れば、ほんのわずかに皮膚を破っている。血が乾きかけていた。
深くはない。
けれど、ふざけて済ませられるほど浅くもない。
首に歯を立てた。
その事実だけで、十分に越えている。
ここで私が声色を変えれば、リシェリアはきっと、自分が何か悪いことをしたのだと思う。
だから息を殺した。
怒りは後でいい。
今は、まずこの子を怯えさせないことが先だった。
「……リシェリア、首に軽い傷があるね。流すから痛かったら言って」
「あ、忘れてた。うん、大丈夫」
リシェリアは、痛がってはいない。
怯えて私の手を払うこともない。
「明日に、医務官か誰かに治癒を頼もうね」
目元に清布を当てたまま頷く仕草に、忌避感は見いだせなかった。
自分の体に何が残っているのかすら、気にしてはいないようだ。
この傷が、涙の原因ではないらしい。
見たままの印象で言えば、……暴行の痕だというのに。
押さえつけられ、女を襲おうとした痕跡。
あるいは、愛撫の最中に相手が暴れ、歯が入ったかのような。
……そんな馬鹿なことを、セランが?
セランを信用していた。
少なくとも、リシェリアを危険から遠ざけるという一点では、誰よりも信用していた。
その信用が、目の前の歯形ひとつで、音もなく罅割れていく。
リシェリアを何よりも大切にして、甘やかして、守り抜いてきたあの男が?
信じがたい。
だが、事実として痕がある。
思わず拳を握る。
そんな荒事なら、他にも痕跡があってもおかしくない。
私は目を細め、リシェリアの肌をそっと確かめる。
抜けるように白く、美しい。
どこにもそれ以上の痕跡はなかった。
……少なくとも、一方的に嬲られたような暴行ではない。
安堵が喉の奥でほどけた。
前線で見た、襲撃や略奪を受けた婦女子たちの悲痛な痕跡とは違う。
愛ある合意の中で残るような口づけの痕とも違う。
ざっと見ても、他に異常はない。
ならば――何があった?
本来アスティも護衛をつけるべき身分ではありますが、お忍びである事、継承権が低位、軍人、治安が担保される外壁付近までに限定ということで独断で送迎しています。




