表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
21章 赤の氾濫
261/309

次回のための誓い

帰りの馬は、王都へ向かってゆっくり進んでいた。

リシェの背中はすぐ腕の内側にあるのに、その近さが、さっきまでとはまるで違って感じられた。

いつもなら、何気なく抱き寄せていた距離だった。けれど今は、手綱を握る指を離せなかった。

手綱を握る指に力を込めるたび、昼の水の冷たさと、喉元に残した歯形の感触が、交互に蘇った。


今日は、本当に――いろいろ、ありすぎた。


朝からずっと、頭も心も落ち着く暇がなかった。

触れたいと焦がれ、愛されていないと悩み、そしてその全部が、自分の思い込みとすれ違いから生まれていたことに気づかされた。


お互いに「愛してる」と言っているのに、どこか温度が違う。


リシェは穏やかで、静かで、深い水の中みたいだ。

対して俺は火だ。目を逸らすとすぐ燃え上がって、焼き尽くすか、燃え尽きてしまいそうになる。


今まで、あんなに慎重に、リシェをゆっくり温めてきたのに、うつつを抜かしてしまった。


そして俺だけが、勝手に燃え上がっていた。

その沸点の先で、自分の感情を抑えられなくなった。

無理矢理合わせようとしていたんだ。

リシェの呼吸を、俺の速さに引きずり込もうとしていた。彼女の穏やかな時間に、俺の獣みたいな焦燥を混ぜようとしていた。


――あの無意識の暴走は、俺の本能だ。


愛しすぎて。

遠征で離れすぎて。

その反動が、一瞬の嫉妬で焼き切れそうになった。


リシェが他の名前を呼んだ、ただそれだけで。

頭の中が真っ白になって、理性が吹き飛んだ。

気づけば俺は牙を立て、その柔らかな喉元に歯を当てていた。


……思い出すだけで、体が震える。

何をやっていたんだ、俺は。

守りたい相手を、傷つけるようなことを。


そのうえ勝手に自己嫌悪して、勝手に自滅して。

結局、リシェを不安にさせただけだった。


もう二度と、あんな顔をさせたくない。


だから俺は、自分に誓う。


もう一度、理性の鉄の鎖に繋ごう。


嫉妬、焦り、動揺……そして暴力的な高揚。

そんな薄汚い感情に塗れた醜い顔を、晒してはいけないなんて、そもそも俺は知っていたはずだった。

獲物を追い立てて怯えさせるのは、三流だ。

狩る瞬間まで気配すら気づかせない、優れた猟師にならなければいけなかったのに。


ご馳走にありつけるその時まで、舌を出すのはお預けだ。


だから、鉄の口輪で噛めなくしてしまおう。


リシェの方から、その鎖を外してくれる日まで。

リシェの方から、食べられに俺の腕の中へ来るまで。

何年でも、何十年でも待てばいい。

いつかその日は来るんだから、それでいい。


今度こそ急がない。怖がらせない。

余裕を持って導く。不安にさせない。


リシェは安心を求めてる。

だから、俺はすべてを委ねられる男になる。

リシェの心をこちらへ傾けて、俺を選ぶ方へ促す。


……それでも。


辛い。

あの味を、知ってしまった。


肌の温度、唇の柔らかさ、甘い安らぎ。

味わってしまった。


知る前の頭には、もう戻れない。

身体の奥で、求める声が止まらない。


早く、迎えに来てくれ――今もその声が、脳の奥でずっと鳴っている。


甘くて、濃くて、焼き切れるような熱い幸福。

思い出しただけで、胸の奥が焦げる。


心の温度が、こんなに違うのに。

触れただけで、あんなに脳が痺れるほどに満たされる。


もし本当に、愛し合えたら――そのとき、俺はどうなってしまうんだろう。


考えただけで、唾が溢れて、喉が渇く。

あの柔らかい喉をもう一度、確かめたくなる。


ダメだ。思い出すな。


……今日だって、帰したくない。


門の前で別れたくなんてない。

このまま、馬を走らせて、どこか遠くに行きたい。


大樹が枯れるなんて知るかよ。

聖女も祭祀庁も、全部どうでもいい。

燃えてなくなればいいのに。


……あ、ダメだ。またおかしくなってる。


俺は唇を噛んで、頭を振った。

視界の端が揺れて、焦点がずれている気がした。

呼吸を整えようとしても、胸の奥が重くてうまく吸えない。


遠くに、王都の灯が滲んで見えた。

城門の上に掲げられた灯が、ひとつ、またひとつと増えていく。

あれは帰る者を迎える灯りであると同時に、遅れた者を数える灯りでもあった。


「セラン」


リシェの声が、風に乗って届いた。

顔を向けると、俺を見上げて、柔らかい瞳で笑っていた。

俺の中にあるどす黒く悪いものは、その目には一片も映っていなかった。


その手が伸びてきて、俺の頬をつつく。


「王都が見えてきたよ」


その接触だけで、息が楽になって、気分が楽になる。


「ちょっと、遅くなっちゃったね。怒られるかな」


「そだな。一緒に頭を下げてくれよ」


そして、胸の奥の獣がまた息を吹き返す。


――ほら、帰る前に“充填”しておくんじゃなかったか?

――まだ恋人じゃなくても、するのが嫌だとは言われてないだろ?


そう囁く声を、聞こえないふりで押し殺した。

ようやく取り戻したこの距離を、もう二度と手放したくない。


リシェは「セランがいなければ生きていけない」と言ってくれた。


だけど、本当は俺の方が、リシェがいなければ生きていけない。


そんなの、ずっと分かっていた。

けれど今は確信している。

この恋を失えば、俺は死ぬ。

たぶん本当に、死んでしまうだろう。


今日は、まだ恋人じゃなかった。それを認める。

けれど、まだそうなっていないだけだ。

時間をかければいい。

言葉で伝えて、笑わせて、安心させて、少しずつリシェの温度も高めていく。

そしてリシェはいつか、俺を選ぶ。


リシェには、死なないと言った。

嘘にはならない。

リシェは俺を選ぶんだから……俺は死なない。


「リシェ、今日はごめんな。次は服屋見て、レクスになんか探して。食堂で飯しよう」


今日しなかったこと。

今日できなかったことを、次へ送る。

やり直しではない。

次回への誓いにした。


それだけで、今日の失敗を少し取り返せたような気がした。


リシェは小さく笑って、俺を見上げた。


「うん、約束」


その囁きが、胸の奥に染みこんで、

息が詰まるほど愛しかった。


これが、俺の生きる希望だ。

長め重めのセラン編を読んでくださりありがとうございました。一度区切りになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ほぼ毎日昼夜で更新中
ブクマ・評価お願いします!
script?guid=onscript?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ