次回のための誓い
帰りの馬は、王都へ向かってゆっくり進んでいた。
リシェの背中はすぐ腕の内側にあるのに、その近さが、さっきまでとはまるで違って感じられた。
いつもなら、何気なく抱き寄せていた距離だった。けれど今は、手綱を握る指を離せなかった。
手綱を握る指に力を込めるたび、昼の水の冷たさと、喉元に残した歯形の感触が、交互に蘇った。
今日は、本当に――いろいろ、ありすぎた。
朝からずっと、頭も心も落ち着く暇がなかった。
触れたいと焦がれ、愛されていないと悩み、そしてその全部が、自分の思い込みとすれ違いから生まれていたことに気づかされた。
お互いに「愛してる」と言っているのに、どこか温度が違う。
リシェは穏やかで、静かで、深い水の中みたいだ。
対して俺は火だ。目を逸らすとすぐ燃え上がって、焼き尽くすか、燃え尽きてしまいそうになる。
今まで、あんなに慎重に、リシェをゆっくり温めてきたのに、うつつを抜かしてしまった。
そして俺だけが、勝手に燃え上がっていた。
その沸点の先で、自分の感情を抑えられなくなった。
無理矢理合わせようとしていたんだ。
リシェの呼吸を、俺の速さに引きずり込もうとしていた。彼女の穏やかな時間に、俺の獣みたいな焦燥を混ぜようとしていた。
――あの無意識の暴走は、俺の本能だ。
愛しすぎて。
遠征で離れすぎて。
その反動が、一瞬の嫉妬で焼き切れそうになった。
リシェが他の名前を呼んだ、ただそれだけで。
頭の中が真っ白になって、理性が吹き飛んだ。
気づけば俺は牙を立て、その柔らかな喉元に歯を当てていた。
……思い出すだけで、体が震える。
何をやっていたんだ、俺は。
守りたい相手を、傷つけるようなことを。
そのうえ勝手に自己嫌悪して、勝手に自滅して。
結局、リシェを不安にさせただけだった。
もう二度と、あんな顔をさせたくない。
だから俺は、自分に誓う。
もう一度、理性の鉄の鎖に繋ごう。
嫉妬、焦り、動揺……そして暴力的な高揚。
そんな薄汚い感情に塗れた醜い顔を、晒してはいけないなんて、そもそも俺は知っていたはずだった。
獲物を追い立てて怯えさせるのは、三流だ。
狩る瞬間まで気配すら気づかせない、優れた猟師にならなければいけなかったのに。
ご馳走にありつけるその時まで、舌を出すのはお預けだ。
だから、鉄の口輪で噛めなくしてしまおう。
リシェの方から、その鎖を外してくれる日まで。
リシェの方から、食べられに俺の腕の中へ来るまで。
何年でも、何十年でも待てばいい。
いつかその日は来るんだから、それでいい。
今度こそ急がない。怖がらせない。
余裕を持って導く。不安にさせない。
リシェは安心を求めてる。
だから、俺はすべてを委ねられる男になる。
リシェの心をこちらへ傾けて、俺を選ぶ方へ促す。
……それでも。
辛い。
あの味を、知ってしまった。
肌の温度、唇の柔らかさ、甘い安らぎ。
味わってしまった。
知る前の頭には、もう戻れない。
身体の奥で、求める声が止まらない。
早く、迎えに来てくれ――今もその声が、脳の奥でずっと鳴っている。
甘くて、濃くて、焼き切れるような熱い幸福。
思い出しただけで、胸の奥が焦げる。
心の温度が、こんなに違うのに。
触れただけで、あんなに脳が痺れるほどに満たされる。
もし本当に、愛し合えたら――そのとき、俺はどうなってしまうんだろう。
考えただけで、唾が溢れて、喉が渇く。
あの柔らかい喉をもう一度、確かめたくなる。
ダメだ。思い出すな。
……今日だって、帰したくない。
門の前で別れたくなんてない。
このまま、馬を走らせて、どこか遠くに行きたい。
大樹が枯れるなんて知るかよ。
聖女も祭祀庁も、全部どうでもいい。
燃えてなくなればいいのに。
……あ、ダメだ。またおかしくなってる。
俺は唇を噛んで、頭を振った。
視界の端が揺れて、焦点がずれている気がした。
呼吸を整えようとしても、胸の奥が重くてうまく吸えない。
遠くに、王都の灯が滲んで見えた。
城門の上に掲げられた灯が、ひとつ、またひとつと増えていく。
あれは帰る者を迎える灯りであると同時に、遅れた者を数える灯りでもあった。
「セラン」
リシェの声が、風に乗って届いた。
顔を向けると、俺を見上げて、柔らかい瞳で笑っていた。
俺の中にあるどす黒く悪いものは、その目には一片も映っていなかった。
その手が伸びてきて、俺の頬をつつく。
「王都が見えてきたよ」
その接触だけで、息が楽になって、気分が楽になる。
「ちょっと、遅くなっちゃったね。怒られるかな」
「そだな。一緒に頭を下げてくれよ」
そして、胸の奥の獣がまた息を吹き返す。
――ほら、帰る前に“充填”しておくんじゃなかったか?
――まだ恋人じゃなくても、するのが嫌だとは言われてないだろ?
そう囁く声を、聞こえないふりで押し殺した。
ようやく取り戻したこの距離を、もう二度と手放したくない。
リシェは「セランがいなければ生きていけない」と言ってくれた。
だけど、本当は俺の方が、リシェがいなければ生きていけない。
そんなの、ずっと分かっていた。
けれど今は確信している。
この恋を失えば、俺は死ぬ。
たぶん本当に、死んでしまうだろう。
今日は、まだ恋人じゃなかった。それを認める。
けれど、まだそうなっていないだけだ。
時間をかければいい。
言葉で伝えて、笑わせて、安心させて、少しずつリシェの温度も高めていく。
そしてリシェはいつか、俺を選ぶ。
リシェには、死なないと言った。
嘘にはならない。
リシェは俺を選ぶんだから……俺は死なない。
「リシェ、今日はごめんな。次は服屋見て、レクスになんか探して。食堂で飯しよう」
今日しなかったこと。
今日できなかったことを、次へ送る。
やり直しではない。
次回への誓いにした。
それだけで、今日の失敗を少し取り返せたような気がした。
リシェは小さく笑って、俺を見上げた。
「うん、約束」
その囁きが、胸の奥に染みこんで、
息が詰まるほど愛しかった。
これが、俺の生きる希望だ。
長め重めのセラン編を読んでくださりありがとうございました。一度区切りになります。




