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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
21章 赤の氾濫
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後悔しないための更改

【自壊しないための自戒】のリシェリア視点です

「は? ちょっと待て……まさか、振られるのか俺?」


「そんなこと、言ってないよ……まだ」


「……まだ!?」


安心できたところで、ようやく息が整ったと思った瞬間、セランは、いつものようにわざとらしいほどの軽口で茶化した。

気づけば笑っていた。


「ふふふふふ」


セランも安心してくれたように、馬を再びゆっくり歩かせ始めた。夕暮れの風が頬を撫でて、木の影が馬の歩みに合わせて流れていく。


けれど、安心しても、まだ消えないものがあった。

セランの心臓は落ち着いてきてはいても、その奥に残る熱と傷のようなものが、まだ残っている気がした。


「もう、そういう話じゃないよ。……でもね。やっぱり。恋をしていて、死にそうに苦しくなることがあるなら、言ってほしい」


「なんだ? 背中を撫でて、甘やかしてくれるか? 看病してくれるとか」


からかうような声だったけれど、ちゃんと聞こうとしてくれているのは分かった。だから、私は少し迷ってから、胸の中にあった考えを口にした。


「本当に苦しくてどうしようもなかったら。消せると思う。……恋」


その瞬間、セランの呼吸が止まった。


「え」


「心が傷だと感じるなら、癒しの力が効く……」


痛みなら、癒せるかもしれない。苦しさなら、薄められるかもしれない。そう思っただけだった。けれど、セランはまるで何かを奪われたみたいな顔をした。


「まさか、さっき消した?」


手を強く握られる。痛い、と思うより先に、その動揺の大きさが苦しかった。


「セラン。違うから。落ち着いて」


にわかに焦りを感じた。

セランは落ち着いたように見えて、まだ内側の激しい波が治まっていなかった。

私は握られた手を握り返して、指先からそっと力を流した。奪いたいわけじゃない。ただ、守りたいってことを伝えたかった。


「そんな勝手なことしない。だって……セランが大事にしてることなんでしょ。さっきのは、ただ体の疲労症状を癒しただけ。今の話も、可能性の話」


もっとカイルみたいに言葉が上手だったらいいのに。

そうじゃなきゃ獣みたいに、言葉がなくても伝わればいいのに。

どうして、私はこんなに下手なんだろう。


言いながら、涙がこぼれていた。

セランの手の力が緩む。肩の力も抜けて、彼の中に張りつめていたものが、少しだけほどけていく。


「あ、ああ! そうだよな! ……ごめん。信じる。……泣かないでほしい」


セランの指が、私の涙を拭う。その指も震えていた。


「心配させて泣かせてるのはセランでしょ……今だって。すごく苦しくて辛そうな顔してるよ」


そう言うと、また強く抱きしめられた。


恋を消すことは、助けることだと思っていた。

でも、違うみたいだ。私が消そうとしていたものは、苦しみだけじゃない。

辛くても、苦しくても、捨てられない大切なもの。


「苦しくない。辛くもない。ごめん。本当にごめん」


苦しいくらいの力だった。けれど、その力が懐かしくて、安心できた。


「悪かった……なんか、焦ってただけだ」


セランは謝ってくれて、それから、少しうつむいた。


「俺も、お前と長く離れてたから寂しくて。そんで、恋人になれたから嬉しくて、ちょっとおかしくなってたんだ」


その言葉に、引っかかった。


「あれ。……私って、もうセランの恋人なの?」


「は」


セランが、間の抜けた声を出した。

私はまだ、セランの恋人になったつもりじゃなかった。

だって、まだ知らない。わからない。

恋をしている私が、どういうものなのか。


「どうして? いつから? ……えっと、どうしよう。知らなかった。みんなにもそう、思われてるのかな」


やっぱり『恋しい』は、恋だったの?

特にジェスは聡いから、今度こそ見抜かれているかも。

シルヴィナスでは恋人がたくさんいるのは普通じゃないって聞いているから、問題があるかもしれないのに。


「え、だって」


セランは何かを言いかけて、止まった。

何か考えているようだったけれど、私も思い出すのに必死で、気を配る余地がない。


だって、セランは、私は恋したら分かるって言っていた。教えてくれるはずだった。

恋人――番いになるのはそれからでいいって言っていたから、何か言われるんだとばかり思っていたのに。


だから、いつから手順が変わっていたのか聞いておかないといけない。


「私がセランに恋をしたら、気づかせてくれるって言ってたのに、何で教えてくれなかったの?」


セランの顔から、すうっと表情がなくなった。


「どうしよ。自覚してなかったから……グラント様に、迷惑かかってないかな?」


政治的な婚約者がいる身で、知らない間に新しく恋人ができていたら、きっと問題になる。

そう思って顔を上げると、セランの金の瞳が、何かを探すように揺れていた。


「いや……大丈夫。俺の、早とちりだった」


セランは息を吐いて、それから、何かに線を引くような顔をした。


「すまん、まだ恋人じゃなかった。次からはちゃんと言ってから始めるから」


良かった、私が覚え違っていたんじゃなくて。


もし恋人になるんだったら、どう振る舞うとか、何をしていくのかとか、ちゃんと分かっておきたいんだから、何も分からないで始めたくはない。


セランも、そんな私を分かって足並みをちゃんと合わせてくれる。

でも、それがセランの負担になっているのだと思うと。


「やっぱり、恋ってなんか難しい。なくしちゃおうよ……その方が楽に過ごせるよきっと」


泣き過ぎて、目が腫れて重い。冗談めかして言ったつもりだったけれど、セランはすぐに困ったように笑った。


「許してください。リシェリア様、聖女様」


その軽さに、少しだけ私も笑えた。けれど、ちゃんと知っておいてほしかった。私の本当の気持ちを。


「ねぇ、死ななくても。恋をなくしたら、一緒にいられなくなるんでしょ……そんなの無理。嫌だよ……セランがいなくなったら、私は生きていけない」


私はセランを愛している。それは少しも嘘じゃない。

でも全く同じ熱や質じゃなければ寄り添えないなら、一生釣り合えないことがあるんじゃないのかと不安になる。


セランがくれた愛は大きすぎる。今、私に向けられている恋の熱は高すぎて、近づくだけで息が詰まりそうになる。


選ばなかった命は、取り戻せない。

選ばなかった恋も、同じだと聞いているから。

恋でセランを失うくらいなら、いっそ恋なんていらない。セランがいてくれる世界でなきゃ、意味がない。


「セランを失いたくない」


それが、私の始まりの場所だった。居場所で、故郷で、私がここにいていいと思えた最初の理由だった。


「まあまあ……恋がなくても生きられるかもしれないけど、お前に恋してる俺も、俺だろ?」


セランは優しく笑って、私の頭を包むように抱えて、額にそっと口づけた。いつもの、大好きなセランのやり方だった。


「リシェ。リシェリア。……ちゃんとは言ってなかったよな、ごめん。言わなくてもわかるって勝手に思ってたんだ。俺だってお前を失いたくない。それだけじゃない、他の誰にも獲られたくないんだ」


言葉が、胸の奥に沈んでいく。


「好きだ。……ずっと前から、愛してるんだ」


行動でもなく、誓いでもなく、セランが初めて言葉で、私に愛を告げてくれた。


うん、私も。


胸の奥が温かくて、それでいて少しざらついたように疼く。私の今の気持ちを、ちゃんと伝えようと思った。


「私、」


「待て。何も言うな」


眼前に現れた制止の手にびっくりして瞬きをする。

その真剣な目に、息を呑んだ。


「死なせたくないとかそういう遠慮で、今朝みたいに俺の機嫌をとったりして欲しくない。今度こそ、きちんと惚れさせる。リシェにも、俺を愛してるって言わせて、番いに……恋人にするから」


……たしかに、今朝はそうだった。

セランの気持ちを和らげたくて、私は機嫌をとった。

でも、それは、私がセランを優先したいと思ったからだ。

それはいけないことなのかな。私は、セランが笑っていてほしいだけなのに。


「最初から私も愛してるってば」


困って口にすると、セランの頬がひくりと動いた。


「そういうのじゃない。恋のほうの好きだって」


「私だって、セランのこと好きなのに。そんなに違うのかな」


違う、という顔をしている。でも、セラン自身も、その違いをどう言えばいいのか分からないみたいだった。


「だから! あーくそ。お前がわかる解釈で言うなら、俺を相手に発情するってことだよ。おい、いい加減にわかれよ」


「ご、ごめん、そうだった。わかった」


本当に、忘れていた。

頭の中がぼうっとして、心臓の音だけが大きく響いていた。


恋。発情。体を重ねること。繁殖行動。

前にも、私が聞いて、セランに言われたことだ。番ってもいい、じゃなくて。セランやカイルみたいに、能動的に、私が番いたいと思うこと。

心にそういう熱を持つこと。


たしかに、まだ今は、あれほどの気持ちには追いつけていない。


「いっとくけど、それだけが目的じゃないからな!」


それからセランは、昼の“悪夢”の話をしてくれた。

言いづらそうに何度も言葉を詰まらせて、白状した。


「ま、まあ。ちょっと。襲いそうになって……いや。襲った。リシェがあまりに美味しそうで……噛んでしまった」


セランの指が、私の首のあたり――夢の中でウルに舐められていたあたり――をそっと示した。


「リシェは自分を治せないのに、傷を残した。俺が守らなきゃいけなかったのに、俺が傷つけたから」


だから、あれほどに顔色を悪くして、自己嫌悪に陥っていたと、そう教えてくれた。


「ごめんな」


触れると、確かに淡く血がついていた。虫じゃなくて、夢でもなかった。


「そっか。……なるほど」


夢の中で、ウルと遊んで、舐められたり、甘噛みされていた……そう思っていたけれど、あれはセランだったのかもしれない。

正確に覚えているわけじゃない。


セランは顔を赤くして、気まずそうに胸の辺りを掴んでいる。

寝ぼけるのは、確かに恥ずかしい。


……うん。セランのためにも、思い出さないであげておこう。


でもやっぱり、原因が恋なら、消した方がいいんじゃないかなと少しだけ思った。


「昼寝とかも一緒にはもう、しない」


その言葉は、思ったより深いところに刺さった。セランと添い寝するのは、私の一部みたいなものだったのに。


「二度と?」


「……安全が確保できるまで」


少し言葉を選ぶように、セランが答えた。私の気持ちを察して、決定を緩めてくれたのだと分かって、寂しいけれど、少し嬉しかった。


「ん……わかった」


「聖女の任期か、婚約か。そういうものが片づくまでは……ああいうことはしない。歯止めがきかないって、わかったから」


安全。

つまり、動けないようにすればいいのだろうか。

怖いなら、セランを毛布でぐるぐる巻きにしておけばいいんじゃないかな。次のお休みまでに私も色々考えよう。


そう思っていたのに、先に、もっと厳しい線を引かれて内心がっかりした。それでも、私を遠ざけたいからではなく、周りの関係を壊さないためというのは伝わったので……不満をこらえた。


セランも我慢をするのだから、私も我慢するのが公平だから。


「カイルへの禁止項目も、最低限のもの以外は撤回する……人のこと言えないからな」


セランは、何か思うところがあったのか、唐突に言い出した。

苦虫を噛み潰したみたいな顔で、嫌なら言わなくてもいいのに、律儀なところがセランらしい。


「え、セランが何でそれを知ってるの」


セランの表情が、分かりやすく固まった。

私は、あれは特別礼拝室が新設で、まだ何も決まりがなかったから、アスティが城内の規則を見直して作ったものだと聞いていた。

アスティが、カイルが最近わがままで迷惑をかけるからわざと少し厳しくしておいた、と笑っていたのを覚えている。


「あ。あー。……アスティに相談されて、俺の意見を入れた……リシェの安全のために」


「そう……」


少しだけ、納得した。アスティなら相談するかもしれない。

カイルは、いい意味でも悪い意味でも、人の思惑や予想を越えるのが得意だから、それを加味したのだろう。

セランも、私を守るためと言われれば、いろんな意見を出すかもしれない。


「ちなみに、破ったのとかあんのか?」


「……」


私から近づいて、結果的にカイルに破らせたこともある。でも、今ここでそれを言うのはやめておいた。

笑顔を作って、何も答えないでおく。


「これで、少しは公平に近づいたな」


セランは、私の沈黙から何かを察したようだった。けれど、それ以上は追及しなかった。


「私も、今日は心配かけてごめん。任期が終わるまでに、たとえ二人を死なせることになっても、きっと耐えられるように、強くなるから」


少しでも頼もしく見せようとして、拳をぎゅっと握った。


「待ってリシェリア様!? 振るのはカイルだけにしてくれ」


セランが大げさに叫ぶ。


その声に、思わず口元が緩んだ。

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