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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
21章 赤の氾濫
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引き留める寄る辺

【寄りあう帰途】のリシェリア視点です

セランはいつも、私を助けてくれた。

危険があれば誰よりも早く駆けつけてくれて、盾になって、何もかもから守ってくれた。

でも、自分が困っている時でも、決して「助けて」と言わない。

そして隠すのが上手で、一番大変なことを私に決して見せない。


その優しさが、今はひどく歯がゆい。

私も、少しは成長した。自分で考えて動けるようになってきたと思うのに。

どうして頼ってくれないの。どうして、何も言ってくれないの。


……そうしてみると、アスティに怒られてばかりでも、カイルのほうが、わかりやすいのかもしれない。


助けてほしい時は、ちゃんと「助けて」って言ってくれる。

すべきことを、出来ることを教えてくれた。簡単な答えだけじゃなくて、考える力をくれた。

だからこそ、助けてあげられた。ううん、手を取って助け合えた。嵐を防ぐなんて奇跡みたいなことが出来た。


けれど、黙って背を向けるセランの心は、ずっと近くにあったのに、手の届かない場所にある。


そんな気がして、胸の奥がしんと冷えた。


それからもどこか上滑りした、心が休まらない休みになってしまった。

気を遣い合うような時間を続ける意味もなく、自然と「今日は早めに帰ろうか」となった。


馬に乗って、帰路についた。


いつものように、私は前に座る。

セランの腕の中――彼の胸の前にある、私の定位置。

心音が近くていつもは安心するはずの場所なのに、今日は、その温もりがどこか居心地悪かった。


沈黙が痛いほど重かった。

蹄の音だけが響く。


……こんな不安な沈黙、はじめて。


城に戻れば、またしばらく会えなくなる。

それだけじゃない。

このままセランがまた遠征に行って――その先で、今度こそ自分の居場所を黙って決めてしまったら。


もう、戻ってこないかもしれない。

もう、会えなくなるかもしれない。


胸の奥がきゅうっと痛んだ。


「セラン」


思わず、名前を呼んでいた。


思ってもいなかったのか、彼の体がビクッと跳ねる。

手綱を引きかけて、振り返った横顔には驚きの色が浮かんでいた。


「今日は、特に……苦しそうだったね」


下から見上げて、そっと手を伸ばす。

この位置なら、もう逃げられない。


何も教えてくれなくてもいい。

私ができることを、すればいい。


カイルにするときのように――セランにも、同じように癒しの力を流した。


……なんでもいい。

セランが、少しでも楽になりますように。


願うように手を重ねると、彼の心の輪郭が、ふっと浮かび上がるような感覚があった。

擦り傷のような傷みを感じて、それを指でなぞるように整える。


薄くならして、なめらかに。

心の表面に馴染むように、撫でていく。


少しして――彼の唇から、久しぶりに声がこぼれた。


「あー……助かる」


その声に、胸が温かくなった。

今の接触で、わかった気がする。

癒しの力は、肉体だけでなく、心にも作用できる。

仕組みを、ようやく少し掴めた気がした。


でも、今はそれより――セランのことだ。

彼の苦しみの根っこは、やっぱり“恋”が絡んでいる。


「だから聞いたのに。しない方がいいんじゃないのって。恋を」


私の言葉に、セランの体がぎくりと固まった。

やっぱり、そうだ。

的中した時の、あの一瞬の沈黙。


私はそっと彼の胸に耳を寄せて、鼓動を確かめる。

早い。焦っている。

恋をしているときの音だ。


「恋じゃない音も、混じってたけど……いいや」


ぽつりとこぼしてから、もう一度、耳の下で鳴る音を聞く。

胸の奥で跳ねるそれは、ひとつの感情だけではなくて、焦りや困惑や、別の熱まで混じっている気がした。


それでも、わかる。

だんだん、わかるようになってきた。


「わかるよ。だんだん、わかるようになってきた。セランは、私に恋してくれてるんだって」


小さく笑って、説明を添える。


「あのね、カイルが、よく聞かせてくれる」


セランの眉がぴくりと上がる。

呆れたような顔。


……その顔、懐かしい。

でも、そんなふうに反応してくれるのが嬉しかった。


だって私には、セランの匂いなんて読めない。

だから一生懸命に、言葉や目に見える反応を一つずつ確かめようとしてきた。


国境の時だけは――ちょっと言語化がまだできていないけど。


「……国境の時は、その。えっと、私も慣れてないからちょっと冷静でいられなくて。……よくわからなく、なっちゃったから……」


言いながら、あの記憶がよみがえる。

あの強い接触は、息ができなくなって、恋や愛なんて考えていたことが全部溶けてしまった気がした。

思い出しただけで、体の内側が変に揺らぐ。

つづきを言おうとしても、喉が詰まった。


「それでね、恋すると幸せだけど、辛くて、馬鹿なことをしちゃったり、自分が嫌になったりして……うまくいかないと、死ぬこともあるんでしょ」


カイルやジェスと話してきた恋の定義。

断片的に掴んできた知識を、言葉にして並べた。


「なんだそりゃ。……確かにたまにいるが、最後のは極端だろ」


セランは冗談めかして答える。

でも、その顔には気づかない無防備さがあった。

自分のことだとは思っていない。


「ううん。最近の、セランはちょっと変だよ。……いつも会う時は本当に苦しそうにしてる。会ってしばらくすると、気分は楽になるみたいだけど、呼吸も心臓の音も、ずっと不安定だし……体の動きの癖も前と変わっちゃった。私はそれが怖い」


「それは」


セランが何かを言いかける。

でも、そこで止まった。


言い訳を探しているみたいだった。

違うと言いたいのに、違うと言い切れない顔だった。


だから、ようやく言えた。

ずっと胸の奥で形を持たなかった怖さを、口にできた。


「だからね、セランが死んじゃうかもしれないから……もう私に恋するの、やめてほしい」


言葉にできた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

怖かった気持ちが、形になって出ていく。


これだ。

私が恐れていたのは――これなんだ。


言葉にすることで、少しだけ解けた気がした。

カイルの日課で学んだこと。

心を言葉にして、知らない感情を理解していく。

あの積み重ねが、私に力をくれていた。


「……!」


セランの体が固まり、馬が止まった。


顔から血の気が引いたように見えた。

風が止んだように、世界が静まる。


……また、間違えた?


「なんでだよ! なんでそんなこと言うんだよ」


セランの声は震えていた。

肩を掴まれた。腕の力が強くて、体が鞍の上で揺れる。


馬が驚いて嘶き、体が傾ぐ。

その反動に後押しされて、私はセランに飛び込むように抱きついた。


「俺なんて、いらないってことか」


否定されたみたいな声だった。

捨てられた子供みたいで、それなのに、今にも何かを噛み砕きそうな熱が混じっていた。


「え、そんなこと言って」


「じゃあ何だよ!」


声に驚いた馬が、また身を揺らす。

その声の強さに、喉が縮んだ。


違う。

そうじゃない。

いらないなんて、そんなこと、思うはずがない。


でも、言葉が追いつかない。

どう言えば届くのか分からない。


「ああ、そっか。……他の男の方がよくなったか」


セランの中で何かが変わった声だった。

さっきまでの痛みとは別の、暗くて重いものが、胸の奥の暗い場所から溢れてくるように感じる。


ああ、だめ。

このままだと、セランの心が壊れてしまう。

これを見逃したら、もう戻ってこない気がした。


「セラン!!」


しがみつくように抱きつく。

腕に力を込め、震えを隠せない。


「ねえ、そんなことじゃなくて」


セランの体がわずかに止まった。


でも、まだ遠い。

すぐそばにいるのに、深い森の向こうへ行ってしまいそうだった。


行かせてはだめ。

ちゃんと、ここに引き留める。

今は、セランがどこかへ行ってしまわないように、私が縄になって繋ぎ止めよう。


「私……セランに死んでほしくない。セランにいなくならないでほしいから」


引き留められなければ、恐れていたことが現実になってしまう。


「さっき、ウルが夢に出てきた……会えて、嬉しくて。一緒に転がって遊んで……だけど途中で、ウルは怒って、唸ってた……」


思い出すだけで声が掠れた。顔が歪んでいる。


「ウルを私は助けられなかった。だからウルは、私をきっと恨んでるの。怒っている。ウルは……きっと、私を……」


――許してくれない。


選ばなかった命は、永遠に取り戻せないのに。

あまつさえ勝手に取り分けて別のものにしてしまった。

ウルの魂が世界に循環することはもうなくて、生命が尽きた果てでも、きっと……私は再会できない。


「ごめん! ごめん、リシェ。もういいんだ……思い出さなくていい。俺が悪かった……」


セランが、強く抱きしめてくれた。

大きな体に包まれて、ようやく少しだけ息ができた。


けれど、止められなかった。まだ言えていない。

これは、言わなければいけないこと。


「ううん。聞いて。大事なことなの」


セランの腕に力がこもる。もう怒鳴らなかった。


「私は、聖女なんかじゃない……誰も救えない。ウルも、セランも救えなかった……まだ、自分だって……」


ずっと隠していた罪が、こぼれ落ちるみたいに。


「リシェ。俺は生きてるだろ」


セランが、短く名前を呼ぶ。

それだけで、喉の奥で言葉が止まった。


「それに考えてみろ。ウルは、そんな奴だったかよ?」


「……」


……そんなこと、ない。

ウルは優しかった。セランだって、優しい。

でも許されていいことじゃない。

だから――私は、自分を許せていない。

そして、セランだけは少しでも此岸に永くいてほしい。


「それに、俺はこんなことで死なねぇよ。どんな怪我しても、閉じ込められてもお前のとこに帰ってきたろ。だから死なない……たとえ、リシェに振られてもな」


セランが、少し笑うように言う。

さっきまで蒼白だった顔に、ほんのり赤みが戻っていた。


「うん……」


私はその強がりを肯定する。

信じたかった。そうであってほしかった。


「安心しろ。振られても死なねぇどころか、恋敵の方を殺してやるから」


軽口を叩く声に、ほっとする。少なくとも、さっきの遠い場所からは戻ってきてくれた気がした。


「そういうのもお願いだから、やめて……本当に心配なの。

あのね、カイルは、強い言葉を言われたら心臓が止まるかもしれないって言ってたし、ジェスは、セランにあんまり冷たくしたら、死んじゃいますって言ってたの。恋をしていると、本当に死んでしまうことがあるみたいなの」


恋をしているだけで、あれほど苦しそうなのだから。

心に刻まれた傷は計り知れない。

選ばれなかった恋は、きっと魂を殺してしまう。


「はあ。その程度の話か……。あのな、そんなの、馬から落ちて死ぬ頻度と大差ねえよ。落馬が怖くて馬に乗らずにいられるか? 気を付ければいいだけだ」


「え、あ? そっか。そういえば、そうかも……」


言われてみれば、そうなのかもしれない。

落馬が怖いからって、馬に一生乗らないわけにはいかない。

危ないなら、気をつければいい。

ずっと私も、支えればいい。


恋も、同じなのだろうか。


「結局――あいつらのせいかよ……あとでたっぷりお礼しねえとなぁ」


拗ねたような、でもどこか優しい声。

なじみ深い、いつものセランの言い方に、胸の奥がほどけていく。


ようやく、彼の腕が本当の意味で私を包み込んだ。

その力強さに、今日足りなかったすべてが満たされていく。


ああ、やっと――戻ってきた。

私の知っている、あのセランが。

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