白昼夢
【暗転】【戻れない岸辺】のリシェリア視点です
夢から覚めた方が悪夢みたいな状況だった事は初めてだった。
——お昼寝するまでは、驚くほど、久しぶりに朗らかな休みの日だったのに。
森についたあとは、軽く食べて散策して、セランと一緒に、冷たい水に足を浸して、泳いだ。
セランも、あの息が詰まるような不安定さは少なくて、くつろげているんだって安心していた。
じゃれあうたびに彼が笑って。私も笑って、胸が温かくなった。
夏の香り、湿った草、彼の髪から漂う太陽の匂い。
濡れた肌を風が撫でて、くすぐったいほど心地よかった。水から上がったら、体を拭いて疲れた体を並べて丸まって、午睡の光にまどろんだ。
そこまでは明るい昔からのセランだった。
……ん、む……んん……。
息が、少し苦しかった。
まるで、水の中にいるみたいなのに、体がうまく動かない。
温かく重く、大きく重い、毛皮の外套でも頭から被っているような。
ねえ、苦しいよ。ちょっとまって。
少しだけ力を入れると、それは離してくれた。
その力強さと、鼻先をかすめる獣の匂い。荒い呼吸。
温かく湿ったものが、私の肌を撫でていく。
なんだっけ、これ。覚えている。
これは好きなことで、良い思い出。
一つの思い出が呼び起こされた。
――ウル!
白い狼犬。セランの愛犬であり、私の騎士。
この世界で、私を一番最初に見つけてくれた子だ。
思い浮かべただけで、目の前でその姿が現れる。
白くて、大きくて、鼻先が長くて格好いい雄犬。トルニカで唯一私と同じ白い色の仲間だった。
ああ、ウル。
やっと、会えた。
嬉しい。ずっと、ずっと会いたかった。
意識の中で浮かび上がるウルは、私の周りを嬉しそうに尻尾を叩きつけながらクルクル回る。のしかかってきては冷たい鼻先を押し付けたり、熱い舌が私を舐め回す。
「ウル。ウール。やぁだ、くすぐったいよ」
呼ぶたびに吠えて、駆け回る。並んで走って転がって一緒に笑ってしまう。
「大好き。ウル。大好きだよ」
あの頃と同じ、柔らかい毛並み。懐かしい温もり。
あの懐かしい日々を取り戻しているようだった。
「ごめんね、待たせて。一緒に行こうね」
もう、ウルと離れるなんて考えられない。聖女のお部屋にウルの小屋を作ってもらわなきゃ。アスティに頼めないかな。だめなら庭の片隅でもいい。
ウルが道の先まで走っていく。
「ううん、行き過ぎちゃだめだよ。ウル。戻っておいで」
……どうして、いなくなったんだっけ。
途端に空の色が変わる。
記憶が渦巻くとともに、ウルが、急に低く唸りはじめた。
急に周りはあの日の光景になった。
白い浜、瓦礫の海。午後なのに薄暗くて、炎や血が白壁を染めていた。町は潮と血と涙でどこもかしこも濡れていた。
ウルは耳を伏せ、牙を見せる。
尻尾を巻いて、私から離れようとする。
やだ。行かないで。
お願い、怒らないで。
手を伸ばそうとしたけど、私は体は縫い留められたかのように動かなくて、ウルは走って逃げていく。
待って!お願い……私を置いて逝かないで。
――そうか。
私が、助けられなかったからだ。
あの時、セランとウル、どちらもは救えなかった。
私は多分、ウルを選ばなかった。
私は多分、ウルの命を勝手に使った。
だから、ウルは怒ってるんだ。
少し距離を開けて威嚇するように、私を睨みつけている。牙をむいてこちらを見つめている。
「ごめんね」
ウルの瞳が、月のように光っていた。強い生き物の、まっすぐな野生。
どうしてこんなにも、美しいんだろう。
恐怖ではなく、神聖な魅力。抗えない畏れ。
その怒りに身を委ねたくなるような吸引力。
もっと見ていたいのに、遠ざかる。
冷たい風が肌を撫で、潮が引くようにウルの姿が、淡く遠ざかっていく。
……あれ?
温度変化で、意識が現実を取り戻した。
寒い。
泉の風が肌を冷やしていた。水遊びのあと、冷えてしまっていたのだろう。
薄く目を開けると、横にいたはずのセランがいなかった。
「セラン……?」
呼んでみる。返事はない。
早く戻ってきてよ。寒いの。
目を泳がせると、少し離れたところに赤いぼやけた像が見えた。
ああ、そこにいたんだ。セラン。
抑えられない何かに身を震わせている。
彼らは私を見ている。
あの燃えるような金色の瞳で。
「……したいの?」
強い生き物に食べられて、命の一部になって溶け込むことは、世界の理で、正しいことで、良いことだよね。それなら、私は赦してあげたい。
口から漏れた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
――ねえ、セラン、ウル。
私のことをそんなに求めてくれているのなら。
いいよ。
私は償いたい。この体で、血で、魂で、その心を癒して。渇きを潤して。
貴方たちの命を冒とくした罪を許してほしい。
正しくない私を、正して。
「いいよ。殺しても」
その言葉が、唇から自然に零れた。
そこにいるのは、セランのはずなのに、ウルに見えた。
ウルのはずなのに、セランに見えた。
彼らが重なっていく。
顎がゆっくりと大きく開く。
優しく、甘噛むように私の喉笛の脈を確かめ、犬歯が、柔らかく肌を破って侵入する。
……ああ。ようやく許してもらえる。
そう思えた。それなのに――ふっと、獣の気配が消えた。
風が吹き抜ける。泉のせせらぎが戻る。
現実の世界が、ゆっくりと色を取り戻していく。
……なんだか、懐かしくて、甘い夢を見た。
あまり鮮明には覚えていないけれど久しぶりにウルを撫でたという、楽しい気持ちだけが残っている。
覚醒してぼんやりと目回すと、セランがやはりそこに上体を起こしていた。
少し顔が青い。息が荒い。
「んん……寒い。……セラン? どうしたの、もう起きる?」
寒い。なんだか寂しい。
ねえ、少しだけ温めてほしい。
今なら、セランが望むだけべたべたくっついてもいいのに。
でも――
「……ちょっと顔洗ってくる」
彼は短く言って、天幕の外に出ていった。
天幕の中は、陽が傾いていて、薄い布越しに差し込む光が、わずかに淡い金色を帯びていた。
ずいぶん寝ていたのだと思う。
どこまでが夢で、どこからが現実なのかあやふやだった。
「……?」
寒いはずだった。天幕の中は湿気ていて、冷風が体温を奪っている。
せっかく着替えたのに、体にまとわりつく布が、じっとりと肌に張りついて気持ち悪い。蒸し暑くて自分ではだけたのか、襟元も裾もはだけていた。
違和感を感じて汗ばんだ首筋に手を当てると、虫にでも刺されたのか、指先にわずかな血がついた。
痛みはほとんどない。ただ、そこだけ熱を持っているようで、指を離しても感触が残った。
――セランも汗を流しに外に出たのかもしれない。
それか、また泳ぎに行ったのかも。
そういえば、そんなことを言っていた気がする。
喉がやけに渇いていた。
私も水が欲しかった。
泉に行けば、彼にも会える。
そう思って、布を払い、裸足のまま外に出た。
風が少し強くなっていた。
湿った髪を冷たい空気が撫で、背筋をくすぐる。泉までの道は短いけれど、妙に長く感じた。
そして、木立の切れ間を抜けると――やっぱり。
水面の真ん中あたりで、赤い髪が揺れていた。
セランが見えて、ほっとする。
体を反らせて浮かび上がるところだった。
陽光を浴びて、濡れた肌が光って見える。鍛えられた体は、しなやかで無駄がなくて――良い獣みたいだった。
でも、そこに刻まれた傷痕が、ひどく目を引いた。
もう癒すことも消すこともできない、過去の証。
それが彼の体を彩るように散っていて、胸が少し痛んだ。
「セラン」
声をかけた。
けれど彼が振り向いたのは、ほんの少し間を置いてからだった。
「あ、……あ」
短い声。
顔色が――また悪い。
赤い髪が濡れて、首筋や肩に張りついている。
その色が、まるで血の流れのように見えた。一瞬、本当に血を流しているのかと思って、心臓がきゅっと縮んだ。
「おはよ。……また泳いでたの? 好きだね」
軽く笑ってみせた。
けれど、返ってくるはずの微笑みはなかった。
セランの顔には血の気がなくて、唇の色まで薄く、まるで悪寒に耐えているみたいだった。
「……悪夢でも見た? 顔色が悪いよ。疲れてるんじゃない?」
それくらいしか思いつかなかった。
人があんな顔をする理由なんて、他に知らなかったから。
「うん、悪夢だ……とても怖くて……」
掠れた声。
どこか子どもみたいだった。
「かわいそうに……とりあえず上がって。体拭こ」
そう言って、手を差し出した。
ぎゅっとしてあげたい。
あったかいものを飲ませて、落ち着くまで隣で背中を撫でてあげたい。
けれど、セランは、ちらっと見ただけで、その手を取らず黙って、水の中から一人で上がってしまった。
私の手は宙に浮いたまま。
まるで何かにさよならを告げるように、風に揺れていた。
……やっぱり、不安定。
昼寝の前のセランは、あんなに機嫌がよかったのに。
何を話しても楽しそうで、目が合うたびに、嬉しそうに笑ってくれた。
時々、私を引き寄せては、頬ずりしていた。
生きているかどうか、何度も確かめるみたいに。
……あまりにしつこくて、くすぐったくて。
もう嫌、と笑って払いのけると、それでも追いかけてきて。ウルと遊んでいる時みたいで、ちょっと呆れたけど――楽しかったのに。
その後のセランは、まるで別人のようだった。
何をしても、返事が遅くて、笑わなくて、目が合ってもすぐに逸らす。
まるでどこか別の場所に心を置いてきてしまったみたいに。
いつもなら、どんな時でも私の顔を見れば笑ってくれたのに。
今は、顔色も悪いまま、声も低い。
近くにいるのに、遠く感じた。
――避けられてる。
その事実を認めるのが、少し怖かった。
セランが私を避けることなんて、今まで一度もなかった。
何かを間違えたのだとしたら、早く見つけなければならない。
彼が、本当に遠くへ行ってしまう前に。




