恋の線の引き直し
俺は――心底、安心していた。
あの時、リシェの寝言で聞いた名前。
焼けつくような嫉妬と焦燥を煽った、その一言。
「ル」――。
その音の正体が、カイルじゃなかったと分かった瞬間、俺の中で、はじけたように力が抜けた。
……ウルガ――ウル。
俺たちが失くした愛犬の名前。
リシェは、夢の中でウルと再会して、遊んでいただけだった。そこから、死なせた後悔を引きずり出されて、震えていただけだった。
それだけのことだったのに。
……はは。なんだよ、俺の馬鹿。
まるで地獄を覗き込んでたみたいに焦って。
夢だとしても、あんなに甘く優しく『カイル』なんて呼ぶわけがない。
リシェが。
そうだよ。
そうに決まってる。
だけど――。
……ウルは、ずるい気がした。
あいつはリシェのお気に入りで、そして、もういない。
勝てるわけがねえじゃねえか。
美化されたまま、心に住みついて、今でも愛されている相手に。
でも……でも。
俺のほうがリシェを好きだ。
負けてなんか、いない。
そう思った時、ふと我に返った。
「は? ちょっと待て……まさか、振られるのか俺?」
われた何気ない一言を、頭の中で何度もなぞり直して、ようやく気づいた。“うまくいかなくて死ぬ”ことを心配されるって――それ、振る気があるってことじゃないのか?
俺は、しつこくし過ぎてうんざりされることはあっても、振られるはずないと思ってた。
……だって、番いになってもいいって言ったのに!?
「そんなこと、言ってないよ……まだ」
涙目だったけれど、さっきのように崩れそうな悲しみではなかった。
その返答に、変に安心した。
もう、リシェの感情を読むのが怖くなくなっている自分がいた。
「……まだ!?」
さっきの本気の声ではなく、おどけたように思わず声を上げる。
そう言うと、リシェが吹き出した。
「ふふふふふ」
ああ。――笑顔になってよかった。
まだ、振られてない。振られるつもりもない。だから、死ぬ理由もない。
気を取り直して、馬をゆっくりと進ませる。
急がなくていい。
この時間で、ちゃんとやり直したかった。
少しだけずれてしまっていた俺たちの在り方を。
「もう、そういう話じゃないよ。……でもね。やっぱり。恋をしていて、死にそうに苦しくなることがあるなら、言ってほしい」
リシェがそう言う。
その声音は、優しくて、少しだけ不安を滲ませていた。
「なんだ? 背中を撫でて、甘やかしてくれるか? 看病してくれるとか」
さきほどの延長でなるべく暗くならないように。
リシェが、それで安心できるなら何でもさせてやろうと思って、戯言をいう。
そんな俺の気を知らず、リシェはさらっと、恐ろしいことを口にする。
「本当に苦しくてどうしようもなかったら。消せると思う。……恋」
「え」
冗談かと思った。
でも、リシェは真顔だった。
「心が傷だと感じるなら、癒しの力が効く……」
リシェにとっては、熱を冷ますのと同じなのだろう。
傷を塞ぎ、痛みを消し、苦しさを取り除く。
けれど俺にとっては、その痛みごと自分だった。
「まさか、さっき消した?」
咄嗟に被せていた。
反射的に、リシェの手を強く握っていた。
リシェが俺に触れてくれた時。
そして、さっき沸き立ちそうになった時、抱きついてきた瞬間。
気分が楽になっていた。
冷静さが戻っていた。
そして聖痕が光っていた。
もし――。
もしも、リシェへの想いごと全て消されてしまっていたら。
……俺には、何も残らない。
俺の人生は、リシェしかいない。リシェの影だけを追って生きてきた。
本当に、空っぽになってしまう。
思わず胸を抑えた。がらんどうになったような錯覚を覚える。心なんて見えない。本当に今もあるだろうか?
「セラン。違うから。落ち着いて」
自分でも気づかないくらい、震えていたかもしれない。
顔も、さっきより蒼白だったはずだ。
だけど。
リシェは、胸を抑える俺の手を、握ってくれていた。
「そんな……そんな勝手なことしない。だって……セランが大事にしてることなんでしょ。さっきのは、ただ体の疲労症状を癒しただけ。今の話も、可能性の話」
静かに。けれど、確かに。
リシェは――泣いていた。
「あ、ああ! そうだよな! ……ごめん。信じる。……泣かないでほしい」
胸が痛んだ。
愚かだった。
リシェの意志を、また疑ってしまった。
自分の恋の芽を――守るために、疑ったなんて。
今だってこんなに愛しくて胸を打つのに、消されたはずなんてなかった。
「心配させて泣かせてるのはセランでしょ……今だって。すごく苦しくて辛そうな顔してるよ」
「苦しくない。辛くもない。ごめん。本当にごめん」
馬を止めて、もう一度、リシェを抱きしめた。
抱き寄せるたび、襟元の赤い痕が視界の端に入った。
そこを見ると、すぐに腕の力が緩みそうになる。
それでも、今は離す方が怖かった。
「悪かった……なんか、焦ってただけだ」
素直に詫びた。
「俺も、お前と長く離れてたから寂しくて。そんで、恋人になれたから嬉しくて、ちょっとおかしくなってたんだ」
本音だった。
ただ、リシェに会いたかった。
触れて、名前を呼びたかった。愛されてる確認をしたかった。
それが空回りして、暴走しただけだった。
「あれ。……私って、もうセランの恋人なの?」
「は」
「どうして? いつから? ……えっと、どうしよう。知らなかった。みんなにもそう、思われてるのかな」
「え、だって」
……待ってくれ。
俺を恋しがってくれたじゃないか。
俺の恋を理解してくれたじゃないか。
口づけを、拒絶しなかった……じゃないか。
「私がセランに恋をしたら、気づかせてくれるって言ってたのに、何で教えてくれなかったの?」
言った。
……そんなことも、言ったな。
リシェが自分で気づいてくれたと思っていた。
行動で示したと思っていたのに。
「どうしよ。自覚してなかったから……グラント様に、迷惑かかってないかな?」
リシェは困り顔で頬に手を添えて首を傾げる。
ふと俺を見た。
瞬く青い瞳と目が合う。
何も、伝わっていない。
始まってもいない。無だ。
まだ何も。
気が抜けた。
「いや……大丈夫。俺の、早とちりだった」
全てが繋がった。
リシェの態度が変わらないのは当たり前で。俺はただ本当に、甘えて思い通りにならなくてぐずっていただけだったらしい。
少なくとも、……寝言如きに嫉妬する資格すらなかった。
このまま『そうだ、もう恋人だったんだ』と押し切れば良いのかもしれない。それだけで確定できる。
けれど、それは根を殺す毒だ。
たしかに恋に似た花は咲くかもしれない。でもそれは、きっと俺が求める色をしていない。
そんなふうに手に入れたら、また俺は、俺の中の黒いものが……満足できずに摘み取ろうとしてしまうかもしれない。
「すまん、まだ恋人じゃなかった。次からはちゃんと言ってから始めるから」
だから、俺は一度境界線を引き直す。
一歩だけ進んでしまった事実は消せない。それでも、新しく、目の前に線を引く。
「やっぱり、恋ってなんか難しい」
空は暗くなり始めていた。
「なくしちゃおうよ……その方が楽に過ごせるよきっと」
泣き止んだリシェが、ぽつりと呟く。
目は赤く、顔は少しむくれていて。
たぶん、リシェが今まで見せた中で一番、ひどい顔だった。
だけど。
「許してください。リシェリア様、聖女様」
小さく言って、額に唇を落とした。
「ねぇ、死ななくても。恋に破れたら、一緒にいられなくなるんでしょ……そんなの無理。嫌だよ……セランがいなくなったら、私は生きていけない」
……さりげなく混ぜてきたけど、それはもう、立派な愛の告白だろ。
その言葉が、俺の胸を温めていく。
心の穴に沁みて、溢れて、涙が出そうだった。
「セランを失いたくない」
泣きながら、リシェは俺を溶かしていく。
さっきは無だと断じたけれど、嘘だ。
まだ花は咲いていなくても、恋の種は芽吹いている。
……ああ、やっぱ好きだ。嬉しい。
にやけてしまう。
どうしようもなく、俺は今、幸せだ。
言葉にされるって、こんなにも嬉しいことなんだな。
「まあまあ……恋がなくても生きられるかもしれないけど、お前に恋してる俺も、俺だろ?」
リシェの頭を包むようにして抱えて、そっと額に口づけを落とした。
今度こそ、心からの愛を込めて。
「リシェ。リシェリア。……ちゃんとは言ってなかったよな、ごめん。言わなくてもわかるって勝手に思ってたんだ。俺だってお前を失いたくない。それだけじゃない、他の誰にも獲られたくないんだ」
「好きだ。……ずっと前から、愛してるんだ」




