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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
21章 赤の氾濫
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恋の線の引き直し

俺は――心底、安心していた。


あの時、リシェの寝言で聞いた名前。

焼けつくような嫉妬と焦燥を煽った、その一言。


「ル」――。


その音の正体が、カイルじゃなかったと分かった瞬間、俺の中で、はじけたように力が抜けた。


……ウルガ――ウル。

俺たちが失くした愛犬の名前。


リシェは、夢の中でウルと再会して、遊んでいただけだった。そこから、死なせた後悔を引きずり出されて、震えていただけだった。

それだけのことだったのに。


……はは。なんだよ、俺の馬鹿。

まるで地獄を覗き込んでたみたいに焦って。


夢だとしても、あんなに甘く優しく『カイル』なんて呼ぶわけがない。

リシェが。


そうだよ。

そうに決まってる。


だけど――。


……ウルは、ずるい気がした。


あいつはリシェのお気に入りで、そして、もういない。


勝てるわけがねえじゃねえか。

美化されたまま、心に住みついて、今でも愛されている相手に。


でも……でも。


俺のほうがリシェを好きだ。

負けてなんか、いない。


そう思った時、ふと我に返った。


「は? ちょっと待て……まさか、振られるのか俺?」


われた何気ない一言を、頭の中で何度もなぞり直して、ようやく気づいた。“うまくいかなくて死ぬ”ことを心配されるって――それ、振る気があるってことじゃないのか?


俺は、しつこくし過ぎてうんざりされることはあっても、振られるはずないと思ってた。

……だって、番いになってもいいって言ったのに!?


「そんなこと、言ってないよ……まだ」


涙目だったけれど、さっきのように崩れそうな悲しみではなかった。

その返答に、変に安心した。

もう、リシェの感情を読むのが怖くなくなっている自分がいた。


「……まだ!?」


さっきの本気の声ではなく、おどけたように思わず声を上げる。

そう言うと、リシェが吹き出した。


「ふふふふふ」


ああ。――笑顔になってよかった。

まだ、振られてない。振られるつもりもない。だから、死ぬ理由もない。


気を取り直して、馬をゆっくりと進ませる。

急がなくていい。

この時間で、ちゃんとやり直したかった。


少しだけずれてしまっていた俺たちの在り方を。


「もう、そういう話じゃないよ。……でもね。やっぱり。恋をしていて、死にそうに苦しくなることがあるなら、言ってほしい」


リシェがそう言う。

その声音は、優しくて、少しだけ不安を滲ませていた。


「なんだ? 背中を撫でて、甘やかしてくれるか? 看病してくれるとか」


さきほどの延長でなるべく暗くならないように。

リシェが、それで安心できるなら何でもさせてやろうと思って、戯言をいう。


そんな俺の気を知らず、リシェはさらっと、恐ろしいことを口にする。


「本当に苦しくてどうしようもなかったら。消せると思う。……恋」


「え」


冗談かと思った。

でも、リシェは真顔だった。


「心が傷だと感じるなら、癒しの力が効く……」


リシェにとっては、熱を冷ますのと同じなのだろう。

傷を塞ぎ、痛みを消し、苦しさを取り除く。

けれど俺にとっては、その痛みごと自分だった。


「まさか、さっき消した?」


咄嗟に被せていた。

反射的に、リシェの手を強く握っていた。


リシェが俺に触れてくれた時。

そして、さっき沸き立ちそうになった時、抱きついてきた瞬間。

気分が楽になっていた。

冷静さが戻っていた。

そして聖痕が光っていた。


もし――。

もしも、リシェへの想いごと全て消されてしまっていたら。


……俺には、何も残らない。


俺の人生は、リシェしかいない。リシェの影だけを追って生きてきた。

本当に、空っぽになってしまう。


思わず胸を抑えた。がらんどうになったような錯覚を覚える。心なんて見えない。本当に今もあるだろうか?


「セラン。違うから。落ち着いて」


自分でも気づかないくらい、震えていたかもしれない。

顔も、さっきより蒼白だったはずだ。


だけど。

リシェは、胸を抑える俺の手を、握ってくれていた。


「そんな……そんな勝手なことしない。だって……セランが大事にしてることなんでしょ。さっきのは、ただ体の疲労症状を癒しただけ。今の話も、可能性の話」


静かに。けれど、確かに。

リシェは――泣いていた。


「あ、ああ! そうだよな! ……ごめん。信じる。……泣かないでほしい」


胸が痛んだ。

愚かだった。


リシェの意志を、また疑ってしまった。

自分の恋の芽を――守るために、疑ったなんて。


今だってこんなに愛しくて胸を打つのに、消されたはずなんてなかった。


「心配させて泣かせてるのはセランでしょ……今だって。すごく苦しくて辛そうな顔してるよ」


「苦しくない。辛くもない。ごめん。本当にごめん」


馬を止めて、もう一度、リシェを抱きしめた。


抱き寄せるたび、襟元の赤い痕が視界の端に入った。

そこを見ると、すぐに腕の力が緩みそうになる。

それでも、今は離す方が怖かった。


「悪かった……なんか、焦ってただけだ」


素直に詫びた。


「俺も、お前と長く離れてたから寂しくて。そんで、恋人になれたから嬉しくて、ちょっとおかしくなってたんだ」


本音だった。

ただ、リシェに会いたかった。

触れて、名前を呼びたかった。愛されてる確認をしたかった。

それが空回りして、暴走しただけだった。


「あれ。……私って、もうセランの恋人なの?」


「は」


「どうして? いつから? ……えっと、どうしよう。知らなかった。みんなにもそう、思われてるのかな」


「え、だって」


……待ってくれ。

 

俺を恋しがってくれたじゃないか。

俺の恋を理解してくれたじゃないか。

口づけを、拒絶しなかった……じゃないか。


「私がセランに恋をしたら、気づかせてくれるって言ってたのに、何で教えてくれなかったの?」


言った。

……そんなことも、言ったな。

リシェが自分で気づいてくれたと思っていた。

行動で示したと思っていたのに。


「どうしよ。自覚してなかったから……グラント様に、迷惑かかってないかな?」


リシェは困り顔で頬に手を添えて首を傾げる。

ふと俺を見た。


瞬く青い瞳と目が合う。


何も、伝わっていない。

始まってもいない。無だ。

まだ何も。


気が抜けた。


「いや……大丈夫。俺の、早とちりだった」

 

全てが繋がった。


リシェの態度が変わらないのは当たり前で。俺はただ本当に、甘えて思い通りにならなくてぐずっていただけだったらしい。

少なくとも、……寝言如きに嫉妬する資格すらなかった。

 

このまま『そうだ、もう恋人だったんだ』と押し切れば良いのかもしれない。それだけで確定できる。


けれど、それは根を殺す毒だ。

たしかに恋に似た花は咲くかもしれない。でもそれは、きっと俺が求める色をしていない。

そんなふうに手に入れたら、また俺は、俺の中の黒いものが……満足できずに摘み取ろうとしてしまうかもしれない。


「すまん、まだ恋人じゃなかった。次からはちゃんと言ってから始めるから」


だから、俺は一度境界線を引き直す。

一歩だけ進んでしまった事実は消せない。それでも、新しく、目の前に線を引く。


「やっぱり、恋ってなんか難しい」


空は暗くなり始めていた。


「なくしちゃおうよ……その方が楽に過ごせるよきっと」


泣き止んだリシェが、ぽつりと呟く。

目は赤く、顔は少しむくれていて。


たぶん、リシェが今まで見せた中で一番、ひどい顔だった。


だけど。


「許してください。リシェリア様、聖女様」


小さく言って、額に唇を落とした。


「ねぇ、死ななくても。恋に破れたら、一緒にいられなくなるんでしょ……そんなの無理。嫌だよ……セランがいなくなったら、私は生きていけない」


……さりげなく混ぜてきたけど、それはもう、立派な愛の告白だろ。


その言葉が、俺の胸を温めていく。

心の穴に沁みて、溢れて、涙が出そうだった。


「セランを失いたくない」


泣きながら、リシェは俺を溶かしていく。


さっきは無だと断じたけれど、嘘だ。

まだ花は咲いていなくても、恋の種は芽吹いている。


……ああ、やっぱ好きだ。嬉しい。


にやけてしまう。

どうしようもなく、俺は今、幸せだ。


言葉にされるって、こんなにも嬉しいことなんだな。


「まあまあ……恋がなくても生きられるかもしれないけど、お前に恋してる俺も、俺だろ?」


リシェの頭を包むようにして抱えて、そっと額に口づけを落とした。

今度こそ、心からの愛を込めて。


「リシェ。リシェリア。……ちゃんとは言ってなかったよな、ごめん。言わなくてもわかるって勝手に思ってたんだ。俺だってお前を失いたくない。それだけじゃない、他の誰にも獲られたくないんだ」


「好きだ。……ずっと前から、愛してるんだ」

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