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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
21章 赤の氾濫
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寄りあう帰途

帰りの馬だけは、どうしても相乗りするしかなかった。

唯一の救いは、リシェを前に乗せているため、顔が見えないことだ。

それでも、普段なら心地よかった静けさが、今日はただ辛かった。


気まずくて、時間がやけに長く感じる。

緊張が続いて、背筋が張りつめたままだった。


「セラン」


リシェに名前を呼ばれた瞬間、体がびくりと跳ねた。


「今日は、特に……苦しそうだったね」


――まずい。


問い詰められる。

思ったその瞬間、ふいに顔にひんやりとした感触があたる。


顎の下から、白く小さな手が伸びてきていた。

驚いて視線を下げると、リシェの指が、そっと俺の顎を掴んでいる。


……手綱を持っているせいで、反応できない。

回避の余地がない。


その手は、少しだけ冷えていて、けれど気持ちよかった。

肌に触れた瞬間、ひんやりとしたその感触が、頭を冷やしてくれる気がした。


いや、冷やしてくれているんだ。

そこから、癒しに使われるあの力が、じんわりと体の中に流れ込んできた。


先ほどまでの、あの焦燥に似た熱が、少しずつ消えていく。

呼吸が楽になる。視界が澄んでくる。


「あー……助かる」


やっと、普通の音階で言葉が出た。

もしかして……本当に体調を崩していたのかもしれないな。

そんな言い訳すら浮かんだ。


「だから聞いたのに。しない方が良いんじゃないのって。恋を」


ぎくり、と全身が硬直した。

また、心臓の鼓動が早まっていく。


やはり尋問があるらしい。

けれど、もう馬の上だ。逃げられない。

手綱を引きかけて、馬を止めそうになるほど動揺する。


それが伝わってしまったのか、リシェが俺にぎゅっとくっつき、胸に耳を寄せてくる。


その距離が苦しい。


けれど、その髪が頬に触れて、甘い香りが鼻をくすぐって――今度は、焦りから、切なさに気持ちが変わっていく。


「恋じゃない鼓動のも混じってたけど……いいや」


ぽつりと、リシェが言う。


「わかるよ。だんだん、わかるようになってきた。セランは、私に恋してくれてるんだって」


――なんで、心音でそんなのわかるんだよ。


「あのね、カイルが、よく聞かせてくれる」


内心を読んだみたいに、教えてくれた。

何を言ってやがる、あの狐野郎がよ……。

胸の奥に、さっきの黒い熱がわずかに戻りかけた。


でも、責める気にもならなかった。

俺も、他人のことを言えた立場じゃない。

恥ずかしくて、顔を赤くするしかなかった。


「……国境の時は、その。えっと、私も慣れてないからちょっと冷静でいられなくて。……よくわからなく、なっちゃったから……」


リシェが、恥じらいながら言葉を続けた。ちらりとこちらを見上げては目をそらし、小さくなる声と、その赤くなった頬が、たまらなく愛しかった。


いや、やっぱり勘違いじゃないよな。

あの日のことをリシェもこんなに覚えてくれているんだから。

こんな表情で俺に恋していないなんてありえない。


ああ――駆け落ちしたい。

聖女であることが悪い。カイルが悪い。あの城も、あの立場も、俺たちを引き離すもの全部が悪い。

全部捨てて、リシェだけ連れて逃げたい。


「それでね、恋すると幸せだけど、辛くて、馬鹿なことをしちゃったり、自分が嫌になったりして……うまくいかないと、死ぬこともあるんでしょ」


また、リシェらしい妙な理屈が始まったと思った。


「なんだそりゃ。……確かにたまにいるが、最後のは極端だろ」


なんとか平静を保って、苦笑まじりに応じる。

それだけで、少し、日常に戻れた気がした。


「ううん。最近の、セランはちょっと変だよ。……いつも会う時は本当に苦しそうにしてる。会ってしばらくすると、気分は楽になるみたいだけど、呼吸も心臓の音も、ずっと不安定だし……体の動きの癖も前と変わっちゃった。私はそれが怖い」


「それは」


おかしいなんて思っていなかった。

普通だろ。

仕方ないだろ。

リシェを愛しているが故の反応で、欲求だ。


「だからね、セランが死んじゃうかもしれないから……もう私に恋するの、やめてほしい」


「……!」


胸の奥で何かが爆ぜた。

たまらず馬を止めた。


「おい! なんでだよ。なんでそんなこと言うんだよ」


リシェの肩を掴んで、揺さぶってしまう。

手綱が乱れ、馬の首が不安げに振れた。

リシェの体が鞍の上でわずかに傾く。

それでも俺は、自分の声を止められなかった。


「俺なんて、いらないってことか」


否定されたような気がした。

人生そのものを拒まれたようで、悔しかった。


そんなことは受け入れられない。

また……もう少しのところで手に入らないのか。


「え、そんなこと言って」


「じゃあ何だよ!」


怒気に馬が驚いて、嘶いた。

その拍子にリシェが俺の方へよろめき、思わず抱きとめることになった。


……だけど。抱き返すことはできなかった。


少しずれた襟元から、さっき俺が残した赤い痕が覗いた。

そのたびに、胸の奥で冷たいものが沈む。


「それとも……他の男の方がよくなったか」


カイルか。


頭の中を、どす黒い泥のようなものが湧き出るように溢れてくる。


やっぱり、手に入らないなら壊すしかないのか。

誰にも渡らないように。逃げられないように。

見つからないように。

噛み砕いて血を啜って腹の中に……


「セラン!!」


我に返る。


リシェが、しがみつくように抱きついてきた。

その小さな体が震えている。抱きついた背の服の隙間から、聖痕がわずかに光を湛えている。


それが暗闇の中の灯火のように目に入った。

俺を現実に引き戻す道標のように思えた。


「ねえ、そんなことじゃなくて。私……セランに死んでほしくない。セランにいなくならないでほしいから」


リシェが顔を上げる。

聖痕の青い光を追った視線が、涙に濡れたリシェの瞳へ移った。

その瞬間、ようやく目の前にいるのが、怯えて震えるリシェなのだと分かった。


「さっき、ウルが……ウルが夢に出てきた……会えて、嬉しくて。一緒に転がって遊んで……だけど途中で、ウルは怒って、唸って……牙剥き出しで……」


リシェの声がかすれ、顔が歪んでいく。


「――あの時、ウルは……私をかばって、半分になっちゃったから……私は助けられなかった。だからウルは、私をきっと恨んでるの。怒っている。ウルは……きっと、私を……」


殺したいほどに、憎んでる。

リシェはそう言いかけたように見えた。胸が締めつけられた。

だから、あんなうわ言をいったんだ。

『殺していい』なんて、そんなこと。


……リシェは、まだ囚われてる。

あの日に。


「ごめん! ごめん、リシェ。もういいんだ……思い出さなくていい。俺が悪かった……」


「ううん。聞いて。大事なことなの」


リシェが思っていたよりずっと真剣に、命の心配として「恋を捨てろ」と言っているのは分かった。

受け入れるつもりはなくても、話は聞く気を取り戻した。

リシェの早とちりと行き違いに、目くじらを立てるのはまだ早い。


「わかった。ちゃんと聞くから。何を心配してるのか全部。教えてくれ」


思わず、抱きしめた。

強く、しっかりと。


「私は、聖女なんかじゃない……誰も救えない。ウルも、セランも救えなかった……まだ、自分だって……」


「リシェ。俺は生きてるだろ」


言葉を遮るように、もう一度強く抱く。


「それに考えてみろ。ウルは、そんな奴だったかよ?」


「……」


「それに、俺はこんなことで死なねぇよ。どんな怪我しても、閉じ込められてもお前のとこに帰ってきたろ。だから死なない……たとえ、リシェに振られてもな」


振られるつもりなんかない。

でも、例えばの話だ。そう教えないと進まない。


「うん……」


リシェの肩が震えていた。

泣き虫の妹をなだめるように背をさすった。


……こいつにとって、“自分のせいで誰かが死ぬ”のは一番怖いことなんだ。

さっきの俺は、よほど死相を浮かべていたんだろう。

実際、自分で自分を殺したいと思っていたから、否定はできなかった。


「安心しろ。振られても死なねぇどころか、恋敵の方を殺してやるから」


「そういうのもお願いだから、やめて……本当に心配なの。カイルは、強い言葉を言われたら心臓が止まるかもしれないって言っていたし。ジェスは、セランにあんまり冷たくしたら、死んじゃいますって言ってたの」


そんなわけあるか。


「はあ。その程度の話か……。あのな、そんなの、馬から落ちて死ぬ頻度と大差ねえよ。落馬が怖くて外出できるか? 気を付ければいいだけだ」


「え、あ? そっか。そういえば、そうかも……」


「結局――あいつらのせいかよ……あとでたっぷりお礼しねえとなぁ」


今度は、外野への怒りが湧いてくる。

まあ、それで助かった部分もあるが。


少しだけ、息が戻っていた。

さっきまで自分を焼いていた欲も、獣の本能も、完全に消えたわけじゃない。

ただ、リシェが震えている今だけは、それより先に、抱きとめなければならないものがあった。


抱きしめる腕には、まだためらいが残っていた。

けれど、離す方がもっと怖かった。

今この小さな震えを放り出したら、今度こそ何かが壊れる気がした。


目の前の愛しい人を慰めるためなら少し、帰るのが遅くなっても、構わないだろうと、思った。

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