戻れない岸辺
俺はもう一度、水へ飛び込んだ。
全身を包む冷たさが、刃のように肌を刺す。
それでも――それでも足りなかった。
息が続く限り、深く、もっと深く潜った。
耳が詰まり、心臓の音だけが体の中で鳴り響く。
泡が口元から浮かび上がり、意識が遠のきかけた。
それでも潜った。
俺は、リシェを夢遊のうちに、自分のものにしようとした。そのうえ嫉妬にとち狂って、傷つけた。食おうとした。
これじゃ、本当に発情期の犬以下じゃねえかよ……。
苦しい。苦しいのは、冷たい水の中だからじゃない。守りたい人を傷つけたからだ。
水の中で、吐き捨てるように思った。
自嘲するしかなかった。
アスティに魅了だなんだと偉そうに言って、カイルに手出しさせないようにした。
「触るな」だの、「節度を守れ」だの禁止項目を作って、リシェを守っているつもりだった。
まるで、自分こそが正義面していた。
なのに。
俺は思い上がっていた。
心も体も、俺に寄ってきてるなんて。
馬鹿みたいに、勝手に浮かれて。
――こんなの、無理矢理引きずり寄せただけだ。
よく思い返せば、すぐに気づけたことだった。
今朝のリシェは、別に二人きりになりたがってなんていなかった。
旨い飯を食べようと誘ってくれた。
弟のために祝いの品を探そうと言っていた。
夏服が欲しいなんて、ささやかな望みだって言っていたのに。
俺の家族を大事にしてくれているのに。
俺の提案を、拒まずに受け入れただけだ。
優しくて、気を遣ういつもの彼女の、いつもの反応だった。
それを――勘違いしていたのは、俺のほうだ。
抱き寄せた時も、手を伸ばしてくれた時も、すんなりくっついてくれたと思ったけど。
あれは、いつもと変わりない接触であって……別に積極的に求めてきたわけじゃなかった。
そして、あの寝言。
囁いた名前。
……俺じゃなかった。
その事実が、肺の奥に沈んでいく。
先ほどは恐ろしいほど早く火がついたのに、今は重く、冷たく、じわじわと体の芯を凍らせるようだった。
俺の名ではない。
俺ではない誰かを呼んだのなら、ルで終わる名前は一つしか思い浮かばなかった。
――カイル。
名前の輪郭が、脳裏を刺す。
胸の奥が焼かれたように疼いて、肺に残った空気をすべて押し出すように、深くため息が出た。
思えば勘違い、だったのかもしれない。
国境に来てくれたのも、恋しいと言ってくれたのも、それでも、恋じゃなくて。俺という長年の友を惜しがっただけ?
あの口づけを拒まなかったから。受け入れたから。
恋が叶ったと……思ってしまった。
水面のきらめきが滲む。
視界がぐらついたその時だった。
「セラン」
背後から声がした。
振り返らずとも分かった。
リシェだ。
もう、起きていた。
水際にしゃがんで、俺を見下ろしている。
いつもと同じ声音。特別な感情の起伏は見えない。
――いや、違う。
感じようとすること自体を、今の俺の脳が拒否してるだけかもしれない。
近づいてくることに気づかなかった。
耳は物音を感じなかった。
鼻はリシェの匂いをとらえなかった。
目は何も映さなかった。
皮膚は風や気配を察知しなかった。
水際にしゃがんだリシェの首筋に、さっきつけた赤い痕が見えた。
血はもう止まっている。
けれど、消えてはいない。
俺がそこに残したものが、まだ彼女の肌にあった。
「あ、……あ」
乾いた声が喉から漏れた。
思考が言葉にならない。
濡れた髪が首筋に張り付いて、寒さよりも心が震えた。
「おはよ。……また泳いでたの? 好きだね」
その言葉は、いつもなら嬉しいはずだった。
茶化すような調子で笑いながら言われると、どこか誇らしくも感じられたフレーズ。
でも今日は違う。
その何気ない一言すら、罪悪感で喉を締めつける。
「……悪夢でも見た? 顔色が悪いよ。疲れてるんじゃない?」
彼女の無邪気な心配の声が、さっきの出来事すべてを見透かしているように聞こえた。
まるで――知っているのか?
知った上で、問いかけているのか?
その想像だけで、頭の中が真っ白になった。
「うん、悪夢だ……とても怖くて……」
答えになっていない言葉が、口から零れ落ちた。
でも、それが今の俺の“本音”だった。
リシェに牙を向けた己の心。
喉元に歯で触れたあの瞬間。
血の味を想像して高揚したこと。
全部――悪夢だ。
悪夢であってほしい。
「かわいそうに……。とりあえず上がって。体拭こ」
そう言って、彼女が手を差し出してきた。
その細くて白い指先は、何も疑っていない。
ただ、いつも通りの、やさしい彼女の手だった。
差し出された手と、首筋の赤い痕が、同じ視界に入った。
救おうとしてくれる手。
俺が傷つけた跡。
その二つを同時に見た瞬間、喉が詰まった。
――その手を、俺は取らなかった。
取れなかった。
まるで、触れたらまた自分が壊れてしまうようで。
リシェの温もりに救われたふりをして、そのまま引きずり込まれる気がして。
俺は静かに立ち上がって、彼女の手を避けるように、自分一人で岸に上がった。
リシェの横を通り過ぎて、天幕に戻り体を拭いた。その間も、心はずっと動揺していた。
リシェの差し出した手が、宙に浮いたままになっていた。
取り残されたその手を、彼女がどんな顔で見つめていたか――怖くて、振り返れなかった。
その後も、どうしても落ち着けなかった。
何度体をこすっても、罪は落ちなかった。
体はそこにあっても、心がどこか彷徨っていた。
だから、極力リシェと距離をとって過ごした。
触れないように。見つめすぎないように。
……情けない。
せっかくの休みだっていうのに。
何が「一緒に過ごしたい」だ。
何が「リシェを守りたい」だ。
口で言って、心で願って、それでも――手を伸ばしたのは俺だったのに。今は振り払おうとしている。
「セラン、本当に顔色が悪いよ」
「悪い。ちょっと泳ぎすぎて、体冷やしたかもな。動けば大丈夫だ。さあ、苔桃でも摘みに行くか」
リシェは少しだけ目を瞬かせた。
けれど、すぐにいつもの顔に戻った。
「……ううん。今、お茶入れてるから、あったまってて。その間に、私は一人で摘んでくるね。セランは帰りの馬の手綱があるんだから、しっかり休んで無理しないで」
俺はリシェにとって連れ歩ける健康な顔ではないらしい。
冷静に断られた。
「……目の届く位置にいてくれ」
きっと何かを察している。それでも、責めずにそっとしてくれている。
だから余計に、俺は苦しくなった。
空気だけが気まずく流れて、上っ面だけの会話を交わして、癒しなんて一欠片もない「休み」を、早めに切り上げることになった。
一刻も早く帰って、酒で頭を潰して寝てしまいたかった。いっそ誰かに喧嘩を吹っかけて、この熱ごと張り倒されてしまいたい。――この、どうしようもなく疼く欲望と、記憶ごと、消し去ってしまいたい。
リシェだけは、大切にしたかった。
やさしくしたかった。
心から、そう願っていた。
……願っていたはずだった。
けれど、理性と欲と自尊心の境界線が、思っていたよりもずっと脆いものだと今日、嫌というほど思い知らされた。




