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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
21章 赤の氾濫
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戻れない岸辺

俺はもう一度、水へ飛び込んだ。

全身を包む冷たさが、刃のように肌を刺す。

それでも――それでも足りなかった。


息が続く限り、深く、もっと深く潜った。

耳が詰まり、心臓の音だけが体の中で鳴り響く。

泡が口元から浮かび上がり、意識が遠のきかけた。


それでも潜った。


俺は、リシェを夢遊のうちに、自分のものにしようとした。そのうえ嫉妬にとち狂って、傷つけた。食おうとした。

これじゃ、本当に発情期の犬以下じゃねえかよ……。


苦しい。苦しいのは、冷たい水の中だからじゃない。守りたい人を傷つけたからだ。


水の中で、吐き捨てるように思った。

自嘲するしかなかった。


アスティに魅了だなんだと偉そうに言って、カイルに手出しさせないようにした。

「触るな」だの、「節度を守れ」だの禁止項目を作って、リシェを守っているつもりだった。


まるで、自分こそが正義面していた。

なのに。


俺は思い上がっていた。

心も体も、俺に寄ってきてるなんて。

馬鹿みたいに、勝手に浮かれて。


――こんなの、無理矢理引きずり寄せただけだ。


よく思い返せば、すぐに気づけたことだった。

今朝のリシェは、別に二人きりになりたがってなんていなかった。


旨い飯を食べようと誘ってくれた。

弟のために祝いの品を探そうと言っていた。

夏服が欲しいなんて、ささやかな望みだって言っていたのに。


俺の家族を大事にしてくれているのに。


俺の提案を、拒まずに受け入れただけだ。

優しくて、気を遣ういつもの彼女の、いつもの反応だった。


それを――勘違いしていたのは、俺のほうだ。


抱き寄せた時も、手を伸ばしてくれた時も、すんなりくっついてくれたと思ったけど。

あれは、いつもと変わりない接触であって……別に積極的に求めてきたわけじゃなかった。


そして、あの寝言。

囁いた名前。


……俺じゃなかった。


その事実が、肺の奥に沈んでいく。

先ほどは恐ろしいほど早く火がついたのに、今は重く、冷たく、じわじわと体の芯を凍らせるようだった。


俺の名ではない。

俺ではない誰かを呼んだのなら、ルで終わる名前は一つしか思い浮かばなかった。


――カイル。


名前の輪郭が、脳裏を刺す。

胸の奥が焼かれたように疼いて、肺に残った空気をすべて押し出すように、深くため息が出た。


思えば勘違い、だったのかもしれない。

国境に来てくれたのも、恋しいと言ってくれたのも、それでも、恋じゃなくて。俺という長年の友を惜しがっただけ?

あの口づけを拒まなかったから。受け入れたから。

恋が叶ったと……思ってしまった。


水面のきらめきが滲む。

視界がぐらついたその時だった。


「セラン」


背後から声がした。


振り返らずとも分かった。

リシェだ。

もう、起きていた。


水際にしゃがんで、俺を見下ろしている。

いつもと同じ声音。特別な感情の起伏は見えない。


――いや、違う。

感じようとすること自体を、今の俺の脳が拒否してるだけかもしれない。


近づいてくることに気づかなかった。

耳は物音を感じなかった。

鼻はリシェの匂いをとらえなかった。

目は何も映さなかった。

皮膚は風や気配を察知しなかった。


水際にしゃがんだリシェの首筋に、さっきつけた赤い痕が見えた。

血はもう止まっている。

けれど、消えてはいない。

俺がそこに残したものが、まだ彼女の肌にあった。


「あ、……あ」


乾いた声が喉から漏れた。

思考が言葉にならない。

濡れた髪が首筋に張り付いて、寒さよりも心が震えた。


「おはよ。……また泳いでたの? 好きだね」


その言葉は、いつもなら嬉しいはずだった。

茶化すような調子で笑いながら言われると、どこか誇らしくも感じられたフレーズ。


でも今日は違う。

その何気ない一言すら、罪悪感で喉を締めつける。


「……悪夢でも見た? 顔色が悪いよ。疲れてるんじゃない?」


彼女の無邪気な心配の声が、さっきの出来事すべてを見透かしているように聞こえた。


まるで――知っているのか?

知った上で、問いかけているのか?


その想像だけで、頭の中が真っ白になった。


「うん、悪夢だ……とても怖くて……」


答えになっていない言葉が、口から零れ落ちた。

でも、それが今の俺の“本音”だった。


リシェに牙を向けた己の心。

喉元に歯で触れたあの瞬間。

血の味を想像して高揚したこと。


全部――悪夢だ。

悪夢であってほしい。


「かわいそうに……。とりあえず上がって。体拭こ」


そう言って、彼女が手を差し出してきた。

その細くて白い指先は、何も疑っていない。

ただ、いつも通りの、やさしい彼女の手だった。


差し出された手と、首筋の赤い痕が、同じ視界に入った。

救おうとしてくれる手。

俺が傷つけた跡。

その二つを同時に見た瞬間、喉が詰まった。


――その手を、俺は取らなかった。


取れなかった。


まるで、触れたらまた自分が壊れてしまうようで。

リシェの温もりに救われたふりをして、そのまま引きずり込まれる気がして。


俺は静かに立ち上がって、彼女の手を避けるように、自分一人で岸に上がった。


リシェの横を通り過ぎて、天幕に戻り体を拭いた。その間も、心はずっと動揺していた。


リシェの差し出した手が、宙に浮いたままになっていた。

取り残されたその手を、彼女がどんな顔で見つめていたか――怖くて、振り返れなかった。


その後も、どうしても落ち着けなかった。

何度体をこすっても、罪は落ちなかった。

体はそこにあっても、心がどこか彷徨っていた。

 

だから、極力リシェと距離をとって過ごした。

触れないように。見つめすぎないように。


……情けない。

せっかくの休みだっていうのに。

何が「一緒に過ごしたい」だ。

何が「リシェを守りたい」だ。

口で言って、心で願って、それでも――手を伸ばしたのは俺だったのに。今は振り払おうとしている。


「セラン、本当に顔色が悪いよ」


「悪い。ちょっと泳ぎすぎて、体冷やしたかもな。動けば大丈夫だ。さあ、苔桃でも摘みに行くか」


リシェは少しだけ目を瞬かせた。

けれど、すぐにいつもの顔に戻った。


「……ううん。今、お茶入れてるから、あったまってて。その間に、私は一人で摘んでくるね。セランは帰りの馬の手綱があるんだから、しっかり休んで無理しないで」


俺はリシェにとって連れ歩ける健康な顔ではないらしい。

冷静に断られた。


「……目の届く位置にいてくれ」


きっと何かを察している。それでも、責めずにそっとしてくれている。

だから余計に、俺は苦しくなった。


空気だけが気まずく流れて、上っ面だけの会話を交わして、癒しなんて一欠片もない「休み」を、早めに切り上げることになった。


一刻も早く帰って、酒で頭を潰して寝てしまいたかった。いっそ誰かに喧嘩を吹っかけて、この熱ごと張り倒されてしまいたい。――この、どうしようもなく疼く欲望と、記憶ごと、消し去ってしまいたい。


リシェだけは、大切にしたかった。

やさしくしたかった。

心から、そう願っていた。


……願っていたはずだった。


けれど、理性と欲と自尊心の境界線が、思っていたよりもずっと脆いものだと今日、嫌というほど思い知らされた。

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