暗転
眠りに落ちる前、リシェは俺の腕の内側で、小さな獣みたいに丸くなっていた。
木漏れ日が頬に落ちて、風が髪を揺らすたび、くすぐったそうに身じろぎする。平和で、長閑で、シルヴィナスで聖女なんて祀り上げられてることこそ、夢だったのかもなんて思っていた。
この眠りから目が覚めなければよかった。
「んん……む……」
寝苦しそうなリシェリアの微かな声が耳に触れた。
その音だけで、眠りの底から引きずり上げられるように意識が浮上する。
魘されている声じゃないな。大したことじゃない。
少し、暑いか。
空気が薄い。
……起きて、風を入れよう。
胸の奥がやけに重い――そう思った瞬間、目が覚めた。
そして、刹那のうちに状況を理解して、心臓が跳ね上がる。
「……!?」
俺は――微睡んでいるリシェリアの唇を、奪っていた。
しかも、今も、進行形で。
それは、食べかすをつけた顔を舐めるような、そんなじゃれあいでもない。
まるで、あの朝と同じように――
全てを焼き尽くすような、熱烈な口づけだった。
動揺と狼狽の中で、とにかく、動きを止めた。
何もかもを壊してしまわないように、必死に、静かに唇を離していく。
息苦しさに強張っていたリシェの呼吸が楽になり、すぐに、落ち着いた寝息に戻ったことにわずかに安心する。
……なんでだ。どうしてこんなことを。
必死に頭を回そうとする。けれど、思考は空回りした。
目を覚ましてからの数秒が、永遠のように長い。
体勢も良くない。
いつもの昼寝のように小脇に丸まるような位置ではなく、抱き合うような形になっていた。
腰を抱き、後頭部を抱え、唇を合わせて。……まるで一歩手前。
密着していたせいか、寝汗で産毛がうっすら濡れて光っている。
もしもう一瞬でも覚醒が遅かったら……よくない状況だったかもしれない。
全身の血が引く。
酒も飲んでいない。意識も明瞭だ。
なのに――無意識にこんなことをしていた。
今も、離れたくないと体が主張している。
理性が、それを押さえ込む。
息を詰め、全神経を集中して、リシェを起こさないように、指一本ずつ、ゆっくりと離していく。
手のひらに残る温もりが、焼けるように痛い。
冷や汗が背を伝う。
気持ち悪い。怖い。
その時――リシェリアのまつ毛が震えた。
うっすらと、瞳が開く。
ぼんやりと焦点を探すように俺を見て、
やがて、見つけたのか、微笑む。
「なあに……? もう終わり?」
その声が優しくて、まるで罪を赦すみたいに響いた。
なのに、それが一層怖かった。
「ん。……いよ。……ル。戻ってきて」
――リシェが、呼んだ。
誰かの名前を。
ル……?
あ。俺の名前か。
一瞬、何か頭の奥が濁ってざわめいた。
いや、違う。何言ってんだ?
俺の名前は、セランだ。
それは誰の名前だよ。
リシェが呼ぶのは俺の名であるはずだ。
そうだろ。そうじゃなきゃ。
俺の名前じゃなきゃ。
じゃないなら。
俺のものにならないのなら――盗まれるくらいなら。逃げられるくらいなら。
殺してしまおう。
——喰ってしまおう。
喉の奥で、唾を呑む音が響いた。
ゴクリと、生々しい音が自分の耳にも届く。
頭が混乱していく。
心臓が暴れ出す。
理性が砕ける。
せっかく苦労して離した指が、またリシェに触れようと勝手に手が伸びていく。
リシェリアが、俺のそんな様子を見て、微睡んだまま、無邪気に微笑んだ。
「……ん? したいの?」
遊びにでも誘うような、色気なんて何にも感じられない無邪気な声。
なのに、その一言で、何かが弾けた。
もう、理屈なんてなく、別の意志に支配される。
喉元に、目が吸い寄せられた。
ここを押さえれば、リシェの時は止まる。
ここに歯を立てれば、他の男の名を呼べなくなる。
そんな考えが、言葉になる前に体の奥からせり上がってきた。
それをすれば、二度と離されることなんてない。
リシェの喉元に唇が近づく。
白い肌に、影を落としながら――歯が触れた。
犬歯が、柔らかな皮膚に、軽く押し当てられる。
「いいよ」
その声が、空気を震わせた。
目を閉じているのに、深く分厚い氷のような瞳が、俺を見つめている気がする。
「殺しても」
リシェリアの赦し。
その一言で、世界が凍りついた。
ぷつ――。
犬歯の先に、鉄の匂い。血の味の予感が鼻を掠める。
『待て』
「!!」
何も聞こえていないのに、頭の中で誰かの声が俺の意識を震わせた。深く分厚い氷のような瞳が、どこかで俺を見つめている。
触れているはずの肌が、急に氷の下にあるもののように遠くなった。
目の前にいるのはリシェなのに、リシェではないものが、こちらを見ているような錯覚。
凍りつくような殺気が一瞬よぎって――我に返った。
――ダメだ。
なにしてんだ俺は。
なんでなんで。
ダメだダメだダメだここから逃げなきゃ
ここから離れろ。
逃げろ。
このままじゃ、リシェの中の“何か”に呑まれて、喰ってしまう。
俺の魂が喰われてしまう。
どちらにしても――終わりだ。
恐怖と嫌悪が全身を駆け抜けた。
必死に息を吐き、理性をかき集め、やっとのことで距離を取る。
腕を離し、膝で後退りし、安全だと思える――家族としての距離を確保する。
はっ、はぁっ……
呼吸が乱れている。
指先が震えて、冷たい。
自分の唇に無意識に触れる。
……まだ、残ってる。感触が。
ふと見ると、彼女の喉元に、うっすらと赤い痕――血の滲む歯形があった。
それを、俺が付けた。あと少しで、噛み抜くところだった。
その事実が、頭の中で遅れて形になった瞬間、胃の奥がひっくり返るようだった。
「んん……寒い。……セラン? どうしたの、もう起きる?」
ようやく目が覚めはじめたらしいリシェが、眠たげに薄目を開けていた。
痛みも違和感もないのか、噛んだことに気づいた様子もない。
のんびりと目を擦りながら上体を起こす。
まだ何も知らない顔で。
「……ちょっと顔、洗ってくる」
それだけ言って、俺は、ほとんど転がるように天幕の外へ逃げ出した。
外へ出ると、さっきまで穏やかだった木漏れ日が、やけに白く目に刺さった。
鳥の声も、水の匂いも、何もかもが昼寝の前と同じなのに、俺だけが別の場所へ放り出されたみたいだった。
氷のように透き通ったリシェの瞳は、深く、底の見えない色を湛えていた。
その瞳が、俺の奥をのぞいていた。
まるで、魂の奥の、隠してきた何かを見透かすように。
俺は、今何をしていた?
――殺す?
その言葉が、心の奥で何度も反響する。
俺が?
俺も、リシェにそんなことを思うのか?
こんなにも愛しているのに。
命よりも大切だと思っているのに。
どうして、こんな……。
あの瞬間、抗えないようなものに呼ばれた気がした。
名前もない、獣のような欲望。
理性の外から差し出される甘い手。
気づけば、触れていた。
喉の白さに吸い寄せられ、肌の下に流れる血の熱を確かめるように――。
ほんの一瞬だった。
けれど確かに、俺はリシェを“傷つけた”。
唇にわずかに残る、血の気配。
汗と、鉄と、涙のような匂い。
あの時それが舌の上で広がることを想像した。
その事実が、恐ろしくて、恥ずかしくて、背筋に冷水を浴びせられたみたいに震えた。
「……っ」
心臓が暴れ、胸を突き破りそうだ。
罪悪感と恐怖と、どうしようもなく熱に浮かされた自分自身への怒りとで、頭がぐちゃぐちゃになっていた。
『殺したいの?』
彼女の無垢な声が耳に残っている。
『いいよ。殺しても』
──あれはただの寝言か、それともこんな。こんな浅ましい俺を、見透かした誘いなのか。
どちらにせよ、どちらとも。自分は一線を越えかけた。
危うさに足を取られ、際どい場所で踏みとどまった。
違う、違う。踏みとどまってすらいない。転げて手をついて、奈落に落ちずに済んだだけだ。
……次はない。逃げなきゃ。




