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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
21章 赤の氾濫
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空回り

遠征後、ようやく巡ってきた初めての休み。


昨夜から胸が騒いで、楽しみで寝付けなかった。

またリシェと、二人きりで過ごせる――それだけで、嬉しくて、落ち着かなくて、心が浮き足立つ。


魂に焦げついたような想いだった。

古い紙に、何度も何度も同じ言葉を書きつけ、滲んで、破れて、それでもまた書いた。そんな年月を経た想いが、ようやく彼女に届いたのだと思えた。


――とうとう、リシェも俺を愛してくれた。


願いは叶った。報われた。がむしゃらに生きてきた人生の全てが肯定されたように感じた。それなのに、この数日は言いしれようのない焦りに苛まれていた。


叶ったはずなのに……何か、足りない。

愛し合うって――こんなものなのか?


リシェは変わらず優しい。

あの笑みも、あの声も、仕草も変わらない。俺の呼びかけに微笑む顔も変わりなく、愛してくれている。

あまりにも、何も変わりがなさすぎる。


いや、新しい習慣やふれあい方に戸惑う仕草はある。恥じらい、照れるような雰囲気もある。……あると思うのに。

それすら日に日に慣れていくように、初々しい反応が奥へ閉じていっている気がしていた。


その態度は、俺の胸の奥を寂しくする。触れたくても触れきれないような、透明な壁が間にある。


……いや、分かってる。


あからさまに態度を変えては駄目だよな。

リシェは聖女で、城の中では常に人の目に晒されている。俺だって、任期が終わるまでは兄として、護衛としての立場を崩すつもりはない。それが決まりであり、約束だから。


でも――俺は多分、焦れている。


胸の穴が埋まったはずなのに、なぜかすぐに確かめたくなる。

今もリシェが俺を選んでくれていると感じたい。抱き寄せれば、リシェの方からも強く縋り付いてくれるのではないかと、どこかで期待している。

それなのに、リシェから愛されていないかもしれないと気づきたくなくて、俺から強く抱きしめてしまう。

一度得た安らぎほど、失うのが怖くなる。そして、その恐れが渇きを呼ぶ。


今朝は、いつも通りに彼女を迎えた。

何事もなかったように。


けれど、ほんの少し、息が詰まっていた。なんとか、早く二人きりになりたかった。


……触れたい。確かめたい。また深く口づけたい――本当に、愛されていると。確信できるまで。


本当は、リシェは街で服を見たかったのかもしれない。

レクスへの祝いを選ぶことも、食堂で飯を食うことも、楽しみにしていたのかもしれない。


けれど、リシェは俺の提案に頷いてくれた。

俺との時間を選んでくれたのが嬉しくて、胸の奥がまた熱くなる。


馬を走らせて、いつもの街を抜け、緑の濃くなった道を行く。


郊外に進むにつれて、人の生活の気配が減り、視界が緑に染まっていく。爽やかな風に、閉塞感に喘いでいた呼吸が少し楽になった気がした。


何度か訪れた泉のほとりにたどり着く。

木々の葉の間から射す陽が、水面に反射して揺れている。梢の鳥の声、遠くの獣の気配、花の香り。今は春の終わりで、森がいちばん元気な季節だ。


まるで故郷の森にいるような気持ちになって、心が落ち着く。


上も下もなく、生き物はすべてが等しい。

俺がありのままで許される場所で、隣にはリシェがいて。誰にも邪魔されることがない。


……やっぱり城より、こういうとこの方がいいな。


ここでなら、あれほどの焦燥感も、なぜか少し落ち着く気がした。


「よし、この辺に天幕張るか」


今日は少し暑いくらいの天気だ。風はあるが、陽ざしが強い。

良さそうな場所を定め、馬を止めた。


リシェが眩しそうに目を細める。


「いい日和だね、うん。楽しくなってきたかも」


「だろ? 最近、お姫様ぶってたから、俺たちが田舎者だって忘れてたのか? こういうとこのほうが息抜きに向いてるんだよ。ほら、降りろ」


馬上のリシェに手を伸ばすと、リシェがなぜか嬉しそうに笑った。


「良かった。セラン、今日は気分が良さそうだね」


「何だ? 最近、別に悪かったことはないぞ。変なやつだな」


「ううん。いいの」


俺は天幕を張って、一日の拠点を立てた。

リシェは慣れた手つきで布を広げて、軽食を並べる。城門近くの店で、着替えと一緒に買っておいた果実と、蜂蜜、白いパン。


「ほら。水入る前に、ちゃんと食べとけよ」


果実を切って口元に差し出し、食べさせる。

リシェが笑って、ほんの少し照れて、それを頬張るのを見守る。それだけで幸福だった。


「セランも食べて」


「俺は蜜はいらねえ。昼用の肉を獲ってくるけど、何がいい」


「なんでもいいけど。兎かなあ」


そんなたわいもない会話で安らぐ。


日が高くなったら、リシェを誘って、泉に入る。

水面がきらめいて、足元からひんやりとした感触が這い上がった。リシェが裾をたくし上げて、水に触れる。水をかけ合って、泳いで、手をつないで水中を覗く。


屈託なく笑う声が、透きとおるように響いた。


その笑いが嬉しくて、胸が締めつけられる。


ずっと、こうしていたい。


こんな誰にも邪魔されない時間があって、リシェを独占できるだけで、たとえ触れることができなくても満たされる気がした。


そう思えば、すぐに頭の中が欲望に蒸し返される。


嫌だ。

今すぐ抱きしめて一つになりたい。二度と奪われないように知らしめて、刻みつけて、隠してしまいたい。


水に濡れた髪が頬に貼りつくたび、手を伸ばしかけて、笑いながら水を掬うふりをした。

薄い布が肌に沿うのを見るたび、視線を逸らして、深く息を吸った。


俺はちゃんとできている。


そう思うたび、胸の奥の熱が、少しだけ別の形で膨らんだ。


時折、そんな邪な願いが危ういほどに膨らんでは、水に飛び込み、頭を冷やした。


色々な意味で、軽く疲れるまではしゃいで、水から上がった。

濡れた髪を拭いていると、リシェが着替えて戻ってきた。


「リシェ。髪乾かしてやるから、こっち来な」


リシェが濡れた服を着替えて戻ってきたところへ、俺が手を差し出すと、彼女はいつものようにためらいなく近づいてきた。


前に座らせて、髪を拭いてやる。

垣間見えた白いうなじに、また良くない衝動が湧き上がりそうになった。


「……ちょっと、体冷えたな」


温めるふりをして、丁寧に、そっとリシェを抱き寄せた。


「セランはあったかいね。なんで? ずるい」


リシェがくすくす笑いながら、振り返って俺の体に手をあてて体温を測る。


「しばらく、こうしてくっついてろ。すぐ温まる」


俺は隙間を埋めるように、引き寄せて、肩口にリシェの顔を埋めさせた。

温めるように、背中をさする。

願う。


ほら、頼むから……抱きしめ返してくれ。


「ん。あったかい」


リシェは一瞬驚いたように止まったものの、抱きしめてくれた。


……あ、良かった。


そうしていると、全ての焦燥が消える。

心の穴がようやく満たされて、荒れ狂うみたいな欲望も嘘みたいに収まっていくのを感じた。


まだ全然我慢できる。


自分でも気づいていなかったくらい、俺も寂しかったんだろうな。

最近ずっと胸の奥で暴れていたものに、ようやく名前がついた気がした。


だって、ただこの体温があるだけで、こんなにも救われるんだから。


ああ。それでも帰り際に、また“充填”だけさせてもらおう。


ここまで人目がない機会なんて、そうないんだから。

一時しのぎを繰り返して、少しでも長く、遠く。また渇くのを先延ばしにするために。


「水に入ったら少し疲れたね。ちょっとだけお昼寝して、さっき見た苔桃と山火草を摘みにいこう」


「はいはい、全部さらって更地にして帰ろうな」


「ちょっと。私そんなに食いしん坊じゃない」


「嘘つけ。どーせ、持ち帰るってのも、この頬に収納して帰るって意味だろ。栗鼠め」


「やーだ、違うよ。もうやめて」


頬を摘まんで伸ばすと、リシェが笑いながら逃げる。


そんなふうに笑って、転げて、安堵と心地よい疲労感に包まれながら、二人で丸まって昼寝をした。


木漏れ日の下、穏やかな風が髪を揺らしていく。


そこまでは――本当に、いつもの、幸せな休みだった。


山火草は架空の名称ですがファイヤーウィード(ヤナギラン)の事です。アスパラみたいな味で美味しいらしいです。

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