空回り
遠征後、ようやく巡ってきた初めての休み。
昨夜から胸が騒いで、楽しみで寝付けなかった。
またリシェと、二人きりで過ごせる――それだけで、嬉しくて、落ち着かなくて、心が浮き足立つ。
魂に焦げついたような想いだった。
古い紙に、何度も何度も同じ言葉を書きつけ、滲んで、破れて、それでもまた書いた。そんな年月を経た想いが、ようやく彼女に届いたのだと思えた。
――とうとう、リシェも俺を愛してくれた。
願いは叶った。報われた。がむしゃらに生きてきた人生の全てが肯定されたように感じた。それなのに、この数日は言いしれようのない焦りに苛まれていた。
叶ったはずなのに……何か、足りない。
愛し合うって――こんなものなのか?
リシェは変わらず優しい。
あの笑みも、あの声も、仕草も変わらない。俺の呼びかけに微笑む顔も変わりなく、愛してくれている。
あまりにも、何も変わりがなさすぎる。
いや、新しい習慣やふれあい方に戸惑う仕草はある。恥じらい、照れるような雰囲気もある。……あると思うのに。
それすら日に日に慣れていくように、初々しい反応が奥へ閉じていっている気がしていた。
その態度は、俺の胸の奥を寂しくする。触れたくても触れきれないような、透明な壁が間にある。
……いや、分かってる。
あからさまに態度を変えては駄目だよな。
リシェは聖女で、城の中では常に人の目に晒されている。俺だって、任期が終わるまでは兄として、護衛としての立場を崩すつもりはない。それが決まりであり、約束だから。
でも――俺は多分、焦れている。
胸の穴が埋まったはずなのに、なぜかすぐに確かめたくなる。
今もリシェが俺を選んでくれていると感じたい。抱き寄せれば、リシェの方からも強く縋り付いてくれるのではないかと、どこかで期待している。
それなのに、リシェから愛されていないかもしれないと気づきたくなくて、俺から強く抱きしめてしまう。
一度得た安らぎほど、失うのが怖くなる。そして、その恐れが渇きを呼ぶ。
今朝は、いつも通りに彼女を迎えた。
何事もなかったように。
けれど、ほんの少し、息が詰まっていた。なんとか、早く二人きりになりたかった。
……触れたい。確かめたい。また深く口づけたい――本当に、愛されていると。確信できるまで。
本当は、リシェは街で服を見たかったのかもしれない。
レクスへの祝いを選ぶことも、食堂で飯を食うことも、楽しみにしていたのかもしれない。
けれど、リシェは俺の提案に頷いてくれた。
俺との時間を選んでくれたのが嬉しくて、胸の奥がまた熱くなる。
馬を走らせて、いつもの街を抜け、緑の濃くなった道を行く。
郊外に進むにつれて、人の生活の気配が減り、視界が緑に染まっていく。爽やかな風に、閉塞感に喘いでいた呼吸が少し楽になった気がした。
何度か訪れた泉のほとりにたどり着く。
木々の葉の間から射す陽が、水面に反射して揺れている。梢の鳥の声、遠くの獣の気配、花の香り。今は春の終わりで、森がいちばん元気な季節だ。
まるで故郷の森にいるような気持ちになって、心が落ち着く。
上も下もなく、生き物はすべてが等しい。
俺がありのままで許される場所で、隣にはリシェがいて。誰にも邪魔されることがない。
……やっぱり城より、こういうとこの方がいいな。
ここでなら、あれほどの焦燥感も、なぜか少し落ち着く気がした。
「よし、この辺に天幕張るか」
今日は少し暑いくらいの天気だ。風はあるが、陽ざしが強い。
良さそうな場所を定め、馬を止めた。
リシェが眩しそうに目を細める。
「いい日和だね、うん。楽しくなってきたかも」
「だろ? 最近、お姫様ぶってたから、俺たちが田舎者だって忘れてたのか? こういうとこのほうが息抜きに向いてるんだよ。ほら、降りろ」
馬上のリシェに手を伸ばすと、リシェがなぜか嬉しそうに笑った。
「良かった。セラン、今日は気分が良さそうだね」
「何だ? 最近、別に悪かったことはないぞ。変なやつだな」
「ううん。いいの」
俺は天幕を張って、一日の拠点を立てた。
リシェは慣れた手つきで布を広げて、軽食を並べる。城門近くの店で、着替えと一緒に買っておいた果実と、蜂蜜、白いパン。
「ほら。水入る前に、ちゃんと食べとけよ」
果実を切って口元に差し出し、食べさせる。
リシェが笑って、ほんの少し照れて、それを頬張るのを見守る。それだけで幸福だった。
「セランも食べて」
「俺は蜜はいらねえ。昼用の肉を獲ってくるけど、何がいい」
「なんでもいいけど。兎かなあ」
そんなたわいもない会話で安らぐ。
日が高くなったら、リシェを誘って、泉に入る。
水面がきらめいて、足元からひんやりとした感触が這い上がった。リシェが裾をたくし上げて、水に触れる。水をかけ合って、泳いで、手をつないで水中を覗く。
屈託なく笑う声が、透きとおるように響いた。
その笑いが嬉しくて、胸が締めつけられる。
ずっと、こうしていたい。
こんな誰にも邪魔されない時間があって、リシェを独占できるだけで、たとえ触れることができなくても満たされる気がした。
そう思えば、すぐに頭の中が欲望に蒸し返される。
嫌だ。
今すぐ抱きしめて一つになりたい。二度と奪われないように知らしめて、刻みつけて、隠してしまいたい。
水に濡れた髪が頬に貼りつくたび、手を伸ばしかけて、笑いながら水を掬うふりをした。
薄い布が肌に沿うのを見るたび、視線を逸らして、深く息を吸った。
俺はちゃんとできている。
そう思うたび、胸の奥の熱が、少しだけ別の形で膨らんだ。
時折、そんな邪な願いが危ういほどに膨らんでは、水に飛び込み、頭を冷やした。
色々な意味で、軽く疲れるまではしゃいで、水から上がった。
濡れた髪を拭いていると、リシェが着替えて戻ってきた。
「リシェ。髪乾かしてやるから、こっち来な」
リシェが濡れた服を着替えて戻ってきたところへ、俺が手を差し出すと、彼女はいつものようにためらいなく近づいてきた。
前に座らせて、髪を拭いてやる。
垣間見えた白いうなじに、また良くない衝動が湧き上がりそうになった。
「……ちょっと、体冷えたな」
温めるふりをして、丁寧に、そっとリシェを抱き寄せた。
「セランはあったかいね。なんで? ずるい」
リシェがくすくす笑いながら、振り返って俺の体に手をあてて体温を測る。
「しばらく、こうしてくっついてろ。すぐ温まる」
俺は隙間を埋めるように、引き寄せて、肩口にリシェの顔を埋めさせた。
温めるように、背中をさする。
願う。
ほら、頼むから……抱きしめ返してくれ。
「ん。あったかい」
リシェは一瞬驚いたように止まったものの、抱きしめてくれた。
……あ、良かった。
そうしていると、全ての焦燥が消える。
心の穴がようやく満たされて、荒れ狂うみたいな欲望も嘘みたいに収まっていくのを感じた。
まだ全然我慢できる。
自分でも気づいていなかったくらい、俺も寂しかったんだろうな。
最近ずっと胸の奥で暴れていたものに、ようやく名前がついた気がした。
だって、ただこの体温があるだけで、こんなにも救われるんだから。
ああ。それでも帰り際に、また“充填”だけさせてもらおう。
ここまで人目がない機会なんて、そうないんだから。
一時しのぎを繰り返して、少しでも長く、遠く。また渇くのを先延ばしにするために。
「水に入ったら少し疲れたね。ちょっとだけお昼寝して、さっき見た苔桃と山火草を摘みにいこう」
「はいはい、全部さらって更地にして帰ろうな」
「ちょっと。私そんなに食いしん坊じゃない」
「嘘つけ。どーせ、持ち帰るってのも、この頬に収納して帰るって意味だろ。栗鼠め」
「やーだ、違うよ。もうやめて」
頬を摘まんで伸ばすと、リシェが笑いながら逃げる。
そんなふうに笑って、転げて、安堵と心地よい疲労感に包まれながら、二人で丸まって昼寝をした。
木漏れ日の下、穏やかな風が髪を揺らしていく。
そこまでは――本当に、いつもの、幸せな休みだった。
山火草は架空の名称ですがファイヤーウィード(ヤナギラン)の事です。アスパラみたいな味で美味しいらしいです。




