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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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予兆

アスティがカイルに拉致られた日の朝の時間軸に戻ります。

セランが遠征から帰った後の、はじめての――私とセランの休みがやってきた。


朝の空気には、もう初夏の匂いが混じっていた。窓の向こうの光は春よりも少し強く、けれどまだ刺すような暑さには遠い。空は澄んでいて、雲も薄く、今日はきっといい天気になるのだろうと思った。


アスティは朝から急ぎの予定が入ったらしく、今日は代わりにリカリオおじさまが西門まで送ってくれることになっていた。


サフィアに手を引かれて階段を降りると、おじさまはもう待っていた。いつものように大きな体で、回廊の光を背にして立っている。その姿を見ると、少しだけ安心する。おじさまは私を見るなり、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。


「聖女様におかれましてはご機嫌麗しゅう。本日私めが西門まで先導させていただきます」


「おじさま。おはようございます。よろしくお願いします」


いつものようにエスコートしていただこうと手を伸ばすと、おじさまは私の指先を見つめて目を伏せた。顎髭を撫で、ほんの短く思案する。何かを測るような沈黙だった。


「……いや。今朝はもう日が出て、見通しが良い。平民の格好をした嬢ちゃんを連れているところを見られれば、余計な詮索を招きかねん。先導だけにしておこう」


「え?」


リカリオおじさまは、にこりと笑って安心させるように、帽子の上から、私の頭を軽く撫でた。少し大きくて、けれど温かい手だった。


「こんな歳の離れた嬢ちゃんを連れていれば、兵舎に連れ込んだの、規律違反だのと、暇な輩がいくらでも言うからな。この形なら、せいぜい親戚の娘を案内している程度で済む」


「まあ。そういうものですか? わかりました」


よくわからないけれど、この外出はお忍びだ。私が誰かに見つかることで、リカリオおじさまが困ったり、アスティに余計な手間をかけたりするのはよくない。なら、そうしてもらうのが一番いい。


「よし、さっさと行くぞ」


歩き出したリカリオおじさまの後に続いた。


セランと合流するのは、いつも通りの西門だった。日が出たばかりの門の周囲はまだ静かで、通る人の数も少ない。石畳には夜の冷たさが残り、門の影は濃く落ちている。


「リシェ」


門の影に立っていたセランは、鎧ではなく、素朴な旅装の姿だった。それだけでも、なんだか見慣れない。鎧の重さを脱いだだけで、少し違う人のように見える。けれど、こちらを見つけた時の目だけは昔と同じで、そのことに胸の奥が少し緩んだ。


肩の力が抜けたようで、それが嬉しかった。駆け寄って声を掛ける。


「おはよ、セラン」


私は振り返り、おじさまに一礼をした。


「では、行ってきますね」


「おう、楽しんで来るといい。――セラン」


リカリオおじさまはそこで、私に向けていた気安い笑みを消した。軍官の顔になり、ビシリと言い含める。


「夜は殿下がお迎えくださる。くれぐれもお待たせすることのなきよう」


「心得ております」


セランもちゃんと軍の人間らしく、礼も姿勢もきちんとして短く応じていた。リカリオおじさまはそれを確かめるようにひとつ頷いて、送り出してくれた。


西門から離れて、眼下に市街が見えてくる。

公務でお城から出る時のように馬車なんかには乗らない。いつも馬をゆっくり歩かせながら今日の計画を話し合う。

私たちの休みは、いつも私の「したいこと」にセランが付き合ってくれる時間だった。

市場を歩いたり、庭の苗を買いに行ったり、少し遠くまで草を見に行ったり。セランは不満や軽口を言うこともあっても、必ず私の望みを叶えようとしてくれる。

でも今日は、朝からどこか違っていた。


「今日はね、まず街をふらっとして、夏に向けて少しお洋服を見たいな」


私は考えていた計画を提案した。


アスティが用意してくれる服は、どれも上質で、糸も染めも完璧すぎて、日常に着るのがもったいないくらいだ。お忍びで着るにも少し上等すぎると前々から思っていた。だから、もう少し肩の力を抜いた、気兼ねなく着られる服を持っておきたい。


王都で過ごす初めての夏。そして、これからもシルヴィナスいるかもしれないんだから、どんなものがあるのか色々見ておきたい。


「それで、レクスに贈るもの探してから食堂でご飯食べよ。セランも、こっちのご飯は久しぶりでしょ?」


遠征の前に、エナからの手紙で、末弟のレクスが初猟に出たと知った。そのお祝いを二人で探そうと言っていたから。トルニカでは初猟の時に飾り羽や仕留め用の小刀を贈るのは、一人前の仲間だと認める儀式みたいなものだと、セランが大切にしているのを知っている。セランがダレンにしてもらい、ソーマにもしてきた、あの家の祝い。


お店で形を見て、市場で布を選んだり。土産物屋や道具店の品選びを楽しく迷って、食堂で季節のものを分け合う。そういう、どこにでもある休みをしたかった。


セランも、喜んでくれると思っていた。


けれど、彼は少し考えこんで、わずかに眉をひそめてしまった。


「いや。……俺は、ちっと外出たいかな。人がいないとこがいい」


不意を突かれた。


当てが外れたみたいに、少し不貞腐れた声だった。でも、言葉の端に混じる息の乱れ、目を逸らす仕草――それは、期待と緊張が混ざったものだとすぐに分かった。


近寄らなくても感じる。微かに熱を帯びた気配。動悸。恋の波。


その言葉は、真っすぐだった。

――二人きりになりたい。

そんな気持ちが、そのまま音になっている。


周囲の人声が少し遠のいた。門を出入りする荷車の音も、すれ違う誰かの挨拶も、いつもと同じはずなのに、セランの声だけが近いところに残った。


「遠征先でもこっちでも、ずっと人の群れの中だったしさ。……あ、ほら。前に行った泉のとこはどうだ? もう水にも入れる気温だから、リシェも泳げる」


セランが、こんなにあからさまに求めるのは珍しい。戸惑いと、胸の奥に小さな疼きが生まれる。


……カイルみたいだ。


特別礼拝室の最初のころのカイルも、こんなふうだった。私の中にある境界線を、確かめるように静かに近づいてきた。あの時と同じざわめきが、胸の奥で広がる。


でもカイルには命綱があった。調子よく踏み込んでくるように見えても、私が怯めばそこで止まってくれる。アスティもいてくれた。けれど今のセランは、私が竦むような藪の中へ、こちらを振り返りもせず踏み込んでいく。


セランのことは、大好きだ。


昔のセランの隣は、森の木陰みたいだった。黙っていても息ができて、振り返れば必ずそこにいると分かる場所。今もその温度は残っているのに、ときどき、同じ場所に立っているはずの足元が柔らかく崩れる。


セランのことは、大好きなのに。


それでも、ここ最近の彼の不安定さには、息が詰まる。

空気が薄いかのように、苦しい気がした。心の奥に何かを押し込めているようで、私が触れると、そこから揺らぎが伝わってくる。


安心感だけが、どうしても遠い。

この求めに応じると、また深みに進むのかもしれない。嫌じゃないはずなのに……なんだか気が重い。


少しだけ。ほんの少しだけ、迷った。


けれど、セランにとっても久しぶりの休みだし。

遠征の緊張が解けたばかりの彼に、また我慢をさせるのも違う気がした。それに、普段からセランが希望を言うこと自体が少ない。


……無下にはできない。


したくない。

今までの優しさに報いなきゃ。返さなきゃ。


だから、安心させるように微笑んで言った。


「ん。……いいよ。じゃ、そうしよ。でも水に入る用意がないから、着替えだけ。古着屋寄らせて」


「ああ。もちろん」


セランが、ぱっと顔を上げた。


一瞬で、表情が明るくなる。そして、にこりと笑って――私の頬に手を伸ばし、そっと触れた。指先は、撫でるというより、そこにあることを確かめるように、親指が肌の上で小さく止まる。

子供の頃のセランが、奇麗な小石を見つけた時みたいで可愛いと思った。


可愛くて、憎めない。……仕方ないな。


ジェスの言った通り。カイルに聞いた通り。

セランの体の中にも――恋があった。


それは、目に見えない熱のように静かで、けれど確かに存在していた。


セランは隠すのが上手かった。他の誰よりも目立たず、風のようにすり抜けていく。それでも、一度それを感じ取ってしまえば、もう見間違えることはできない。


カイルが言っていた“恋の症状”――赤面、動悸、発熱、震え、視線の揺らぎ。そう呼ばれるものが、セランの中に全部ある。


二度と、セランに会えないのは嫌だ。


そう思って、一歩だけ踏み込んで、セランの尻尾をつかまえたつもりだった。


けれど、よく見れば、掴んでいたのはセランの方だった。


引き潮に足を取られるように、いつの間にか岸から離れはじめている。遠征の後から、セランに会うたびに、顔は少し紅を帯び、いつもより呼吸が浅くなる。声を出そうとすると、喉が詰まるみたいに間ができて、まるで、私の胸の奥でも何かが押し上げてくるように。


……少し、心配になる。


息づかいが違う。


私の知っている、規則正しく落ち着いた呼吸じゃない。どこか不安定で、危うい。それでも、人前にいるときは平気だった。セランも決して崩れすぎない。節度を持って、兄のように、仲間のように接してくれる。


けれど――二人きりになると、世界の境が溶けてしまう。空気が変わり、視線が絡んで、息が浅くなる。“恋”のほうへと、どうしても傾いてしまう。

傾いてこぼれて……何かが減る。


胸の奥が冷えていく。


失いたくなかった家族や故郷が、遠く霞んでいく気がした。あの日の温もりを守りたかったのに、セランの隣に立つたび、その大切な場所から少しずつ離されていく。気づけば岸は遠く、足元にはもう底がないようで――怖い。


恋をしているのは幸せだって聞いているのに。恋に溺れるってこういうこと?


冷たいものが背筋を這う。


――こんなものが、死を呼ぶの?


ジェスに「恋について考えるのはお休みにしたら」と言われて、そうしようと思っていた。

そう決めたはずなのに、セランの息が少し乱れるだけで、胸の奥にしまったはずの言葉が顔を出す。


恋。死。


その二つが、どうしても離れてくれない。


恋だけでも、悲しみや死に繋がるなんて。そんなこと、信じたくなかった。恋が命を削ることもあるなんて、そんな理不尽があるの?

思わず、セランの胸に手を当てたくなる。傷を探す時のように、熱の芯を探して、苦しみの場所を確かめたくなる。


でも、ジェスは嘘なんて言わないもの。


セランが死ぬかもしれない可能性。恋がセランを殺すかもしれない可能性。


そんなこと、考えたくないのに。

幸せになってほしい。ずっと生きていてほしい。


恋はしてくれて構わない。私なんかを想ってくれてもいい。

でも誰も苦しませないようにするつもりだった。胸が痛むなら鎮めて、傷なら塞いで、熱は冷して、そんなふうに渇きを癒してあげればいいとも思っていた。


けれど、恋そのものが命を縮めるというなら。


それが、セランを苦しめるなら。

それが、セランをすり減らすなら。

それが、セランを死へ近づけるものなら。


私は恋なんてしたくない。しなくていい。


そして、お願い。セラン……私に恋をするのもやめて。

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